木村政彦 単語

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キムラマサヒコ

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木村政彦とは、日本柔術柔道)、プロレスラーである。
多くの柔道格闘技ジャーナリストなどから「史上最強柔道」と言われている。

概要

その人生

1917年(大正6年)、熊本県に生まれる。
10歳で柔道に出会い、18歳で四段を取得。この頃から「熊本怪童」「九州怪物」と名が知れ渡る。

1935年、同じ中学のOBであるに見出されて、の私塾である「塾」で稽古を始める。
は当時史上最強柔道と言われ、「」「猛虎」と恐れられる存在であった。
塾での稽古は質、量ともに想像を絶するほどであり、1日10時間は稽古をしていたと言われる。

そして1937年から全日本選手権を3連覇、1940年覧試合でも5試合全て一本勝ちという圧倒的な強さで優勝、この後の大会も大小含め一度も負けなかったが、1942年兵役に取られ柔道から離れざるをえなくなる。

そして終戦後の1954年に再び全日本選手権に出場すると、数年間のブランクをものともせず圧倒的な強さで優勝、この後全日本選手権13年連続保持という驚異的な記録を残す。

木村の強さを最も物語っている必殺技と言えば大外刈りと腕絡みが挙げられる。
普通大外刈りは、相手を押しながら後方に刈り倒す技であるが、木村大外刈りは脚を刈るスピード、切れがあまりにもすさまじく相手をほとんどに垂直に叩き付けたため、後頭部を打って失神する者が続出した。
また腕絡みは、どのような体勢(上から、下から、あるいは立ったままの姿勢から)でも取ることができ、脱臼する者が続出したと言う。また空手などの異種格闘技にも興味を持ち、相手の胴衣を握った状態の拳で相手顎めがけて空手の正拳突きに等しい当て身で相手を崩し、そこから投げるとい豪快な技も駆使した。

1950年師匠が旗揚げした格闘技行団体「プロ柔道」に参加。初代チャンピオンく。しかし最初の数ヶ以後は客足が遠のき、ファイトマネーの支払いも滞るようになる。この時妻が肺結核を患っており、木村はその治療の購入のためプロ柔道を脱退し、日系人実業の誘いでハワイでの柔道行に参加する。このハワイでの柔道行は好評で、この人気をつけたプロレスプロモーターに誘われプロレスラーに転身する。後に「日本プロレス」と呼ばれる力道山よりもプロレスデビューであった。

そして1951年新聞社の招待でブラジルへ渡り、プロレス行と並行して柔道導を行い昇段審にも参加した。そして同年10月柔術エリオグレイシーとの試合に臨む。エリオは多くの日本人、日系人格闘と試合を行って次々とこれを破り、ブラジル民的英雄であった。試合は立ち技での一本勝ちなし、ポイントなし、寝技での30一本勝ちもなし、勝敗はタップ(参った)か失神するかのみで決するという壮絶なルールで行われた。2R木村は得意の大外刈りから腕絡に取り、エリオの腕を折った。この時点で試合続行不可能であったが、エリオは強な精神力でタップを拒否、危険を察したセコンドがタオルを投げ入れ、試合は木村勝利となった。試合後木村は、腕が折れても戦い続けようとしたエリオの精神力に感し、「試合には勝ったが試合への執念では私の敗であった」とエリオを絶賛している。エリオもまた「私は柔術の試合でただ一度だけ負けたことがある。その相手は日本の偉大な柔道だ。木村との試合は私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。この時木村勝利を決めた腕絡みは「キムラロック」として知れ渡り、現在でもブラジルアメリカで腕絡みの事をキムラロックと呼ぶことがある。

後の1954年プロレスラー力道山タッグを組み、シャープ兄弟と連戦。しかしこの活動により講館と間に裂が入り(現在でも講館は現役柔道選手のプロ格闘としての活動を認めていない)、長らく講館からは破門状態にされる。当時のプロレスでは力道山日本国民の熱狂的支持を集めており、
タッグを組んだ木村はいつも力道山の引き立て役に回されていた。この役回りについに憤慨したのか、新聞紙面上に「プロレスショーだ、真剣勝負なら私が力道山ごときに負けるはずがない」と語る。これに激怒した力道山プロレス日本一をかけて木村との直接対決を行う事を決める。
この対決は「昭和」とも呼ばれ、日本中の関心が寄せられた。
だがしかし、この試合で木村失神負けを喫してしまう。後年、木村本人が語った所によれば、最初の試合は引分けで、その後は交互に勝ち負けを繰り返して全行する予定だった、という。しかし試合中、木村が放った蹴りが偶発的に力道山急所に入ってしまい、それに激怒した力道山がその取り決めを反故にして猛然と木村に襲いかかり、木村が戸惑っている内に失神負けしてしまった、と巷間では言われている。

その後表舞台からはしばらく遠ざかっていたが、1961年師匠の誘いで拓殖大学柔道監督に就任。
後に全日本選手権覇者となる選手なども育て、1966年には拓殖大学日本一に導く。この時の年齢でさえ木村の強さは圧倒的で、オリンピック補の現役選手ですらまったくが立たなかったと当時の選手達は口をえて言している。

1990年代初頭、当時の柔道界に対し「今の柔道ブタのやる柔道」と非難する発言をしている。

そして1993年、75歳にて永眠。

その強さ

柔道の現役時、15年間も不敗のまま引退し、その実績からすれば当然最高段位である十段を受けてもおかしくないが、プロレスラーとしての活動から、講館は最後まで木村を「プロ格闘」として七段から昇段させていない。
実績から1980年代に圧倒的強さを誇った山下泰裕と較される事が多いが、双方の活躍を見て来た柔道スポーツジャーナリスト達は口をえて「絶対に木村最強だ」と言する。極真空手の創始者で木村交があった大山倍達も「木村全盛期であればヘーシンクもルスカも3分ももたないと断言できる」と述べている。

小説「姿三四郎」の作者富田常雄く「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」

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