マダガスカルの戦いとは、第二次世界大戦中の1942年5月5日から11月6日にかけて行われたヴィシーフランス軍vsイギリス軍の戦いである。
概要
背景
第二次世界大戦が勃発した翌年の1940年6月、フランスはドイツ軍の電撃的侵攻により降伏。新たに親独のヴィシー政権が樹立され、海外の植民地は全てヴィシー政権の支配下に収まった。アフリカ大陸の南東に浮かぶマダガスカル島もその一つであった。この島は主戦場のヨーロッパから大変離れていた事もあり、連合軍・枢軸軍ともに重要視せず放置していた。
そんな中、一つの転機が訪れる。1941年12月に大日本帝國が枢軸国として参戦し、東南アジアを席巻。さらにインド洋へ進出し、イギリス東洋艦隊を打ち破ったのである。もしマダガスカル島に日本海軍が進出すれば、アフリカ大陸東岸やペルシャ湾まで攻撃に曝されるとイギリス軍は恐怖。進出される前にヴィシーフランス軍を蹴散らして占領下に置く事を企図した。対する日本は、あくまで対米戦がメインだったためマダガスカル島の占領は考えていなかった。
アイアンクラッド作戦と日本の動き
イギリス軍はマダガスカル島の要港ディエゴスアイレスを偵察。同島にはアルマン・レオン・アネ総督率いる約8000名のヴィシーフランス軍と仮装巡洋艦1隻、通報艦2隻、潜水艦4隻が所在していた。
1942年5月5日、アイアンクラッド作戦を開始。舎弟の南アフリカ空軍の支援を受けてイギリス軍が二手に分かれて上陸した。ご自慢の物量作戦で熾烈な空襲を行い、仮装巡洋艦1隻と潜水艦1隻が撃沈された。しかしヴィシーフランス軍はメルセルケビールの不義で反英に燃えており、非常に戦意が高かった。5月7日に最大都市のディエゴスアイレスを失陥するも、南部に退却して徹底抗戦の構えを見せた。
侵攻を受けたヴィシーフランスはドイツに援軍を要請し、ドイツはその要請を日本に取り次いだ。この時、インド洋には要地偵察のため伊10が作戦行動中だった。伊10座乗の司令官の石崎昇少将は、イギリスの海軍大将が葬儀参列のためにディエゴスアイレスを訪れる事を新聞で知り、有力艦艇が在泊していると考えた。そこで5月21日にディエゴスアイレスに向かい、同月30日に搭載機で偵察を実施。クイーンエリザベス級1隻と軽巡1隻等の停泊を確認し、付近の伊号潜水艦に情報を送信。「5月31日午前2時32分、攻撃すべし」と命令を下した。
攻撃には特殊潜航艇(甲標的)を載せた伊16、伊18、伊20が向かった。しかし伊18は左舷エンジンの故障で攻撃に間に合わず、参加できなかった。他2隻はディエゴスアイレス沖に到着したが、荒天に揉まれて遅延が発生していた。5月31日日没頃、2隻から特殊潜航艇が発進。戦艦ラミリーズを大破させ、タンカーブリティッシュ・ロイヤルを撃沈する戦果を挙げた。ラミリーズは一命こそ取り留めたが、修理のため本国に回航される羽目になり、戦線離脱した。この攻撃に不意を突かれたイギリス軍は大混乱に陥り、爆雷攻撃と防潜網の敷設が行われた。特殊潜航艇2隻のうち、1隻が座礁。搭乗員2名は上陸し、徒歩で回収予定地を目指した。しかし6月2日にイギリス軍に発見され、降伏勧告を無視して突撃を敢行。壮絶な戦死を遂げた。イギリス兵は2人の遺体を埋葬するよう現地人に命じた。この日のうちに、帰りを待っていた母艦も捜索を打ち切って引き揚げていった。
以降、日本軍の攻撃は行われなくなった。既にイギリス軍をインド洋から一掃しており、戦力を投入する意味を見出せなかったのである。援護を受けられなくなったヴィシーフランス軍は窮乏。対峙するイギリス軍も必要以上に攻撃する事は無く、にらみ合いが続いた。来るべき決戦に備え、ヴィシーフランス軍は主要道路に障害物を大量に設置した。
兵糧攻めに耐えられなくなったアネット総督は11月5日に降伏。全島は連合軍によって支配された。
関連項目
- 0
- 0pt