伊16とは、大日本帝國海軍が建造した伊16型/巡潜丙型潜水艦1番艦である。1940年3月20日に竣工。大東亜戦争では甲標的母艦として活動し、連合軍船舶4隻(1万7732トン)を撃沈、1隻(6198トン)を撃破した。1944年5月19日、ソロモン諸島北方で対潜攻撃を受けて沈没。
概要
巡潜丙型は、巡潜乙型を簡略化して生産性を向上させたタイプである。
建造期間短縮のため巡潜三型の線図を流用、旗艦設備と航空艤装を撤去した純然たる潜水艦。このため水偵も積んでおらず、空いたスペースには魚雷を積載して雷撃能力を向上。コンセプト的には巡潜四型とも言うべき存在だった。艦首魚雷発射管8門、搭載魚雷20本は日本潜水艦史上最強の雷撃兵装であり、丙型に比肩しうるのは潜水空母の潜特型だけである。簡略化を推し進めてはいるが開戦前に設計したため、機関は甲型や乙型で採用されている最近の艦本式2号10型を採用。最大速力23.6ノットの快足を獲得したものの生産性の向上はあまり果たせていないのが実情である。また、潜航性能を改善すべくタンク等に大掛かりな改造を施して40~55秒での急速潜航を可能とし、フレオン式冷却器を搭載した事で劣悪な艦内環境を改善。他にも潜望鏡を10m型に換装するなどあらゆる面で改良を受け、充電能力や凌波性能に優れる。
マル三計画で建造された前期型(伊16、伊18、伊20、伊22、伊24)とマル急計画で建造された後期型(伊46、伊47、伊48)があり、後期型は量産性を高めるため細部に若干の変更が加えられているが、同型艦と見なされる事が多い。伊16は雷撃で4隻、甲標的攻撃で1隻撃破の戦果を挙げ、数々の輸送任務を成功に導いた。また前期型の中では最も長生きしており唯一1944年まで生き残っていた。
要目は排水量2184トン、全長109.3m、全幅9.1m、喫水5.34m、乗員95名、ディーゼル燃料744トン、速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、乗員100名。武装は九五式発射管8門、酸素魚雷20本、40口径14cm単装砲1門、九六式25mm連装機銃1基。電測兵器として九三式聴音機、九三式探信儀、22号水上電探を装備する。
艦歴
開戦前
1937年の第三次海軍軍備充実計画にて、丙型一等潜水艦44号艦の仮称で建造が決定。
1937年9月15日に三菱重工神戸造船所で起工。1938年6月1日に伊16と命名されて7月8日に進水、残工事を行うため呉工廠まで曳航され、艦後部の艤装工事に着手する。1940年3月9日に阿多田島沖で行われた終末公試で水上速力23.6ノットを記録した。そして同年3月20日に竣工。初代艦長に山田薫少佐が着任するとともに横須賀鎮守府へ編入、練習潜水艦に指定されて呉鎮守府部隊の指揮下に入り、練習に関しては海軍潜水学校の指揮を受けた。11月15日、巡潜乙型のネームシップである伊15とともに第6艦隊第1潜水戦隊第1潜水隊を編成。司令潜水艦に指定されて石崎昇大佐が乗艦する。
1941年9月1日、連合艦隊は戦時編制に移行し、いよいよ対米英戦争が現実味を帯び始めてきた。10月15日に山田艦長が中佐に昇進。そして10月19日、伊16は海軍大臣から、特殊潜航艇「甲標的」を艦に搭載するための特別工事を受けるよう命じられた。これを受けて10月22日に横須賀を出港、24日に呉へと到着し、翌日から呉工廠で昼夜兼行の突貫工事が始まった。
甲標的とは、艦隊決戦の際に敵主力の前方へと進出し、雷撃を加える2人乗りの小型潜水艇の事である。1940年11月15日に制式採用されたばかりの本兵器は開戦前から秘密兵器として扱われ、その運用母艦が千歳型水上機母艦である事さえも徹底的に秘匿していた。1941年8月下旬に4ヶ月間行われた甲標的の第二期講習が終了。ところが飛行機の急速な発達と、航続距離2万2000mを持つ酸素魚雷の出現により、搭乗員として訓練を受けていた岩佐直治中尉らは甲標的の使用に疑問を持ち始める。水面下で進んでいる真珠湾攻撃の作戦に薄々気付いた岩佐中尉は開戦と同時に甲標的を敵艦隊の根拠地に潜入攻撃させる事を思いついた。
密かに研究を重ねた彼は、9月初旬に母艦の千代田艦長で直属の上官でもある原田覚大佐に意見具申。原田艦長はたまたま広島湾へ訓練の視察に来ていた軍令部の参謀・有泉龍之介中佐に説明を行い、彼の賛同を取り付ける事に成功。原田艦長は岩佐中尉とともに山本五十六長官へ具申した。山本長官は身を犠牲にしてまで湾口へ突入する精神に感動しつつも、生還を期さない出撃は認められないと却下。一度は意見を退けられた岩佐中尉であったが更に研究を重ねて再度具申、黒島亀人先任参謀も味方してくれたが、山本長官は沈黙して首を縦に振らない。10月初旬、3回目の意見具申でようやく承認を得られ、「それでは如何なる潜水艦で運び得るか、また敵港湾中どれとどれが侵入できるか、また襲撃後帰還に対する可能性はあるか?至急研究し成果を報告せよ」と言い渡された。
港湾侵入の方法は岩佐・松尾の両名に任せ、原田大佐は甲標的を搭載する潜水艦の選定に入る。調査の結果、海大四型以降の大型潜水艦であれば後甲板に1基搭載出来る事が分かったが、艦の安定性を差し引きすると巡潜丙型が適当と判断し、伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が甲標的の母艦に選ばれた。当初攻撃目標には真珠湾とシンガポールの2ヵ所が挙げられていたものの、シンガポールは攻撃後の脱出が困難だとし、確実に脱出出来るとされる真珠湾が港湾攻撃の対象となった。
9月下旬より四国沖で真珠湾を想定した港に甲標的が潜入する夜間訓練が行われる。
工事中の11月5日、第1潜水戦隊は先遣部隊に編入され、前代未聞のハワイ作戦を行う南雲機動部隊の支援任務を帯びる。当初は甲標的による敵港湾攻撃はハワイ作戦に含まれていなかったが、山本長官が承認した直後に行われた図上演習でこの攻撃計画が正式に承認され、ハワイ作戦の一部に組み込まれたのである。乗員・工廠員双方の不断の努力によりハワイ作戦開始直前の11月10日に工事完了。特型格納筒を搭載して何とか作戦に間に合わせた。同日中に先遣部隊特別攻撃隊に編入、第三潜水戦隊司令佐々木半九大佐の指揮下に入る。そして真珠湾攻撃に先立って湾口へ甲標的を潜入させる重要任務が言い渡され、伊16には搭乗員の横山正治中尉と上田定二等兵曹が乗艦した。
11月14日、呉鎮守府第二会議室にて行われた作戦会議に山田艦長が出席して打ち合わせを行う。一旦は甲標的攻撃を承認した山本長官であったが、どうしても人命を優先したい意図があったため、出席した第六艦隊司令清水光美中将に対して「搭乗員が生還する見込みが無い場合は、特殊潜航艇による攻撃を取りやめるように」と念を押していた。心配する山本長官とは対照的に、当の搭乗員たちは士気旺盛で生還は全く眼中に無かったという。翌15日の御前会議で遂に対米英開戦が決定。もはや後戻りはもう出来なかった。
11月18日に呉を出港し、柱島の亀ヶ首海軍試験場において甲標的1基を積載した後、山田艦長から対米英宣戦布告の旨とその他訓示があり、乗組員一同は万歳の歓声を以って応えた。同日夕刻に伊22で出撃壮行会を開いて戦意を高める。そして20時に甲標的を積載した伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が一斉に出撃。ハワイへと続く、果てしない旅路の第一歩を踏み出したのだった。アメリカ軍に行動を悟られぬよう航行中は不用物の海中投棄が出来ず、また厳重な無線封鎖のため電波は受信しか出来ないなど、差し詰め忍者の如き隠密航海である。
11月19日午前4時40分に沖ノ島南方を通過、午前8時に甲標的を搭載した状態での試験潜航を行った。11月20日午前5時15分に八丈島付近を通過したのちハワイへ向けて直進を開始、11月22日に敵の哨戒圏へ突入したため22時10分より艦橋の見張りを三直とし、11月24日にウェーク・ミッドウェーの中間点を通過。以降昼間は潜航、夜間のみ水上航行を行って進撃していく。正規の乗組員ではない横山中尉と上田二等兵曹には艦内業務が無いため、艦長室の個室で静かに読書や習字に務め、精神統一を図っていた。11月25日午前3時、浮上した伊16を出迎えたのは大荒れの海上と艦体を揺さぶるほどの風浪であった。潜航中はともかく浮上中は地獄だった。動揺の激しさから乗組員は一睡も出来ず(最大で24度も傾斜したという)、ともすればハワイ近海へ到達する前に転覆してしまいそうだ。次々と襲い来る大波と苦闘を続けながら、11月29日に西経へ入り、その翌日にミッドウェー島南方を通過。ハワイ・ジョンストン間を航行する。
12月1日、海水を蒸留した水を使って洗濯や洗面を実施。潜水艦では真水は大変貴重なので入港前かおめでたい事があった時にしか支給されないのだ。翌2日、瀬戸内海に停泊中の戦艦長門が発した「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を傍受、対米英戦争の開戦は12月8日に定められた。この日から見張りと喫煙以外の目的で艦橋へ出る事が禁じられる。荒天の北太平洋を進む伊16は12月3日、ハワイの300海里圏内に到達。ここからはアメリカの哨戒機が飛んでくる危険性がある海域。舳先をオアフ島に向け、慎重に、隠密裏に、島へと近づいてゆく。ハワイ近海には伊16以外にも複数の潜水艦が進出しているが、もし1隻でも敵に見つかればハワイ作戦が根底から狂ってしまうだろう。12月6日に甲標的の夜間整備を実施。
12月7日、ついに真珠湾外へと到着。港の誘導灯が点滅し、敵の哨戒艇が無警戒で入港していくのが見え、入口の防潜網も取り除かれている。どうやら敵の警戒は手薄な様子で甲標的の進入に適していた。既に甲標的への乗艇を済ませていた横山・上田の両名から電話で別れの言葉が入る。20時12分(現地時間午前0時42分)、電話線その他連絡線を切断、2ヵ所の固定バンドを艦内のハンドル操作により取り外し、湾口の212度7海里の地点から甲標的を発進。母艦の伊16は潜航待機して空襲が行われる翌日の午前6時をひたすら待った。
1941年
12月8日早朝、乗組員は戦闘配置に就く。そして午前6時に爆発音や水中炸裂音などがドカン、ドカンと連続して響いてきた。これは南雲機動部隊による真珠湾攻撃が始まった合図である。伊16は、空襲から逃れようと外洋へ出てくる敵艦船を狙って日中湾口の監視を行った。しかし敵艦の姿は見受けられなかったため、発進させた甲標的を回収するべくラナイ島西方の収容予定地点へ移動、17時より現場で待機する。
17時6分から19時17分までは甲標的との連絡が確立されており、18時11分には攻撃成功を意味する「トラトラ」の電報も甲標的から受信している。だが20時21分、かすかに「航行不能」の特定符号を受信したのを最後に連絡が途絶してしまう。その後も23時まで待ち続けたが甲標的が戻ってくる事は無かった。当夜は視界が良く、波も穏やか、敵の警戒も緩い事から「甲標的は湾内への突入に成功した」と判断。ハワイの新聞電報より得られた情報を統合した結果、戦果は駆逐艦1隻撃沈と思われた。
そんな中、港内から聞こえてくる爆発音とは別に、付近で炸裂する謎の爆発音が探知される。敵もまた伊16の存在を把握し、爆雷を投下しながら探し回っていたのだ。遠近ともに聞こえてくる爆雷の炸裂音。それが次第に伊16の方へと近づいてきてミシミシと嫌な音を立てる。敵のソナーから逃れるため水深100mまで沈降するとともに、推進器を停止して息を潜める。だがそれを嘲笑うかのように敵の爆雷投下は正確さを増し、遂に至近距離で連続して爆雷が炸裂したため、水深120m以上にまで潜って対抗。巡潜丙型の安全潜航深度は100mまでなので、水圧に押し潰される危険性を孕んだ危ない賭けだった。死の淵で踏みとどまる伊16に更なる凶報が舞い込む。先ほどの至近弾により後部電池室のバッテリー外器が破損し、内部の硫酸が漏洩して艦底の汚水と化合、煙のような炭酸ガスが発生したのである。このまま放置すれば全員が窒息死してしまう。直ちに応急修理に取り掛かり、破損した2~3器を取り外して水中航行に支障が出ないよう努める。あまりにも執拗な爆雷攻撃が続いたため、わざと多量の重油を放出すると同時に予め上甲板に用意された木板などを海面に浮上させ、あたかも撃沈されたかのように見せかける「仮装沈没」の作業を実施。見事敵はこれに引っかかり、夕方頃に引き揚げていった。命からがら助かった伊16は現場海域より離脱して再び湾口へと戻った。
12月9日も収容予定地点に赴いたが甲標的は姿を見せなかった。
12月10日はラナイ島の西方と南方で索敵を行った後、湾口の監視任務に就いて未だ帰って来ない甲標的を待ち続ける。しかし12月12日午前3時にとうとう捜索が打ち切られ、伊16はマーシャル諸島のクェゼリン基地を目指して帰路に就く。12月20日にクェゼリンへ入港。2日後に司令部へ甲標的の戦訓を報告した。本作戦の成果などから甲標的を局地で使用する気運が高まり、戦訓による兵器の改善を図るとともにその訓練に従事するため、連合艦隊から伊16を横須賀へ帰投させるよう指示が下る。急いで整備を行った後、12月25日にクェゼリンを出発して内地に向かう。
ちなみに伊16から発進した甲標的は推測通り湾内へと侵入していた。停泊中の敵艦を雷撃したが外れ、米駆逐艦モナハンの反撃を受けて撃沈される。横田中尉と上田二等兵曹は戦死し死後二階級特進となった。
1942年
1942年1月2日に伊16は横須賀へ帰投。休む間もなく翌日すぐに呉へと回航され、1月4日より改装工事を受ける。
ハワイ作戦に投入された甲標的は全て未帰還となった。これを受けて次期作戦を実行するか否かの議論が交わされ、当初軍令部では「搭載潜水艦の自由が奪われる」「港湾の防備が緒戦と比べて益々厳しくなっている(=優秀な若人を生還率の低い場所へ送り出す訳にはいかない)」と乗り気ではなく、「潜水艦の行動を制約する作戦は適当ではない」という反対意見もあったが、部隊側は兵器の改善と搭乗員の訓練によって更なる戦果が挙げられると対照的に考えており、以降も甲標的攻撃を行う事が決定。伊16に研究と試験を命じた。今までの甲標的だと、艦内から移乗するにはハッチを開けて上甲板を通る必要がある(=浮上が必須)という問題があり、敵の警戒が厳重な海域では危険を伴った。そこで艦内と甲標的を繋ぐ交通筒を新たに装備。浮上せずとも艦内から直接甲標的へ移乗出来るよう改良する。交通筒を装備した事で潜航中でも整備と発進が可能になり、伊16で試験運用してみたところ結果は良好。さっそく交通筒は甲標的母艦の標準装備となった。甲標的の改良は各部に渡り、また改良と並行して連日連夜、瀬戸内海西部で母艦との合同訓練が実施されている。
2月2日に先遣部隊特別攻撃隊から外されて第1潜水戦隊第1潜水隊へ編入。次期作戦の準備を下令される。3月10日、第1潜水隊は新設されたばかりの第8潜水戦隊に異動となり、3月19日に播磨灘で水上機母艦千代田と連合演習を行った。3月24日、他の僚艦がインド洋へ向けて出撃していく中、伊16は甲標的との訓練のため瀬戸内海西部に留まり続けた。3月31日に第1潜水隊は先遣部隊甲先遣部隊に編入、インド洋とアフリカ沿岸方面での通商破壊を命じられる。出撃前、小松中将と石崎大佐、第8潜水戦隊の幕僚、そして甲標的の搭乗員が柱島泊地に停泊中の戦艦大和を表敬訪問し、山本五十六長官と謁見した。
4月15日、第1潜水隊所属の伊16、伊18、伊20の3隻は呉を出港。広島湾で集結したのち翌16日に出撃して東南アジアのペナン基地を目指す。ところが道中の4月18日、ドーリットル空襲が発生して本土が初空襲を受ける。東へ逃走する敵機動部隊を追撃するため、第6艦隊司令の小松輝久中将は伊16、伊10、伊18、伊20、伊30に北東への進撃命令を出した。小笠原諸島の北を通過して索敵を行うも捕捉に失敗して元の航路へと戻る。4月24日から翌25日までシンガポールに寄港して燃料補給を受け、4月27日に目的地のペナン基地へ入港した。このペナン基地はインド洋を臨むマレー半島西岸の島で、南方作戦初期にイギリス軍が放棄した基地施設を日本が占領して再利用していたのである。現地で水上機母艦日進から甲標的1基と搭乗員の岩瀬勝輔少尉と高田高三二等兵曹を受領。
4月30日、南アフリカのダーバン沖で通商破壊を行うべくペナンを出撃。第8潜水戦隊には潜水艦の活動を支援する特設巡洋艦報国丸と愛国丸が所属しており、5月5日、10日、15日に2隻から補給を受けた。5月18日午前3時38分、マダガスカル東南東沖で波浪を浴びて主機械排出口から浸水、これが原因で左舷機が使用不能となってしまう。艦内では修理できないほどの故障だったが幸い航行には影響が無かった。5月20日、第1潜水隊はマダガスカル島ディエゴスワイレス港への甲標的攻撃を命じられる。現在マダガスカル島はヴィシーフランスの領土であったが、日本の参戦により同島の基地化を恐れたイギリス軍がアイアンクラッド作戦を発動、去る5月5日より上陸作戦を開始していた。ドイツを通してヴィシー政府から支援を求められた日本は要請に応じて伊16、伊18、伊20に甲標的攻撃を命じたのだった。
作戦の前準備として、5月21日に支援役の旗艦伊10がディエゴスワイレス沖へ進出し、5月29日22時30分に航空偵察を実施。港内にて英クイーンエリザベス級戦艦1隻、軽巡1隻、多数のコルベット艦と病院船、軍隊輸送船の停泊を確認して伊16にもその情報が届けられた。攻撃のためマダガスカル島北端を迂回してディエゴスワイレス沖に進出する伊16。移動中、東アフリカ沖に夥しい量の連合軍商船が往来しているのを目撃した。ともに作戦を行うはずだった伊18は左舷エンジンの故障で攻撃に参加できず、甲標的攻撃するのは伊16と伊20の2隻のみに減じた上、沖合いの海が荒れている影響で発進時刻に遅れが生じる。
5月31日17時40分、ディエゴスワイレス湾口19km沖で岩瀬・高田両名が乗り組んだ甲標的を発進。その後甲標的とは連絡が取れなくなった。伊16は収容予定地点に移動して甲標的の帰投を待っていたが、6月3日まで待っても姿を見せなかったため、捜索を中止して離脱。搭乗員2名は戦死と判定されて二階級特進となった。伊16から発進した甲標的がどのような結末を辿ったのかは不明なものの、6月2日に日本人搭乗員の死体がディエゴスワイレス近くの浜辺に打ち上げられており、伊16の甲標的搭乗員ではないかと言われている。ちなみに伊20から発進した甲標的は雷撃で英戦艦ラミリーズを大破着底させ、タンカーブリティッシュ・ロイヤリティを撃沈した。
甲標的攻撃後、伊16は通商破壊戦に移行。南緯10~26度までのモザンビーク海峡を4分割して割り振り、それぞれ伊10、伊16、伊18、伊20を配置、マダガスカル東岸には伊30が、海峡南方には報国丸と愛国丸が配備に就く。そして6月4日にモザンビーク海峡の配備点に到着して通商破壊を開始。この海域には北アフリカ戦線に物資を送る連合軍の商船が大量に往来しており、言わば最良の狩り場であった。海峡内では小型の護衛艦艇を伴った商船隊が隊列を組んで航行しているので、まず最初に護衛艦艇を攻撃。すると商船隊が隊列を崩して四方八方へ逃げ出すのでこれを各個狩る訳である。6月6日、モザンビーク南方にてユーゴスラビア貨物船スザック(3889トン)を砲雷撃で撃沈し、最初の戦果を挙げる。続いて6月8日、ギリシャ貨物船アギオス・ゲオリギオスⅣ(4847トン)を14cm単装砲で砲撃して撃沈。船長を含む7名を戦死させた。6月12日にはユーゴスラビア貨物船スペタル(3748トン)を砲雷撃で撃沈。
一挙に3隻撃沈の戦果を挙げた伊16は補給のため一旦海峡より撤退。6月17日にマダガスカル島南端セントマリー岬南東約250海里にて特設巡洋艦から魚雷、食糧、燃料の補給を受け、再び海峡へと舞い戻った。
7月1日、スウェーデン船エクナレン(5248トン)を雷撃により撃沈。勢いに乗って海峡北部のモンバサ沖まで狩り場を拡大したが以降は獲物にありつけなかった。その後は7月23日にマエー島、7月26日にディエゴガルシアの偵察を行い、東アフリカ東岸より撤収。昼間は潜航、夜間のみ浮上航行する関係上、乗組員はペナン出港から全く太陽を見ていなかった。この頃になると真水も不足して朝の洗面さえもままならず、蒸し暑さから噴き出す汗も手拭いで拭くのがやっとだった。一連の通商破壊により全体で22隻(10万3496トン)撃沈の大戦果を挙げる事が出来たが一方で課題も残された。魚雷の不調があまりにも多かったのである。伊16では早爆7本、跳出10本、偏斜3本があり、伊16と伊18が「発射成績は極めて不良、現有魚雷にては襲撃の効果に自信無し」と指摘しているほど。大戦果と問題を抱えながら8月10日にペナン基地へ帰投。乗組員たちは上甲板に上がって久々の日光浴を楽しんだ。
8月14日にペナンを出港し、8月25日に横須賀へ入港。整備と補給を受ける。伊16がインド洋まで長駆している間、予想より早いアメリカ軍の反攻作戦が始まり、ガダルカナル島を巡ってソロモン戦線が形成されていた。このため予定されていた次のインド洋通商破壊作戦は中止となってしまう。10月8日、第1潜水隊は第8潜水戦隊指揮下の丙潜水部隊に編入され、整備完了次第トラック諸島に進出するよう命じられた。
10月17日に横須賀を出港、トラックを経由し、11月2日にブーゲンビル島西端ショートランド泊地へ進出。11月4日13時、ここで千代田から甲標的30号を受領するとともに搭乗員の八巻悌二中尉と橋本亮一上等兵曹が乗艦、伊24とともにショートランドを出撃した。ガ島カミンボには甲標的の出撃基地が設営されていたが、アメリカ軍の上陸に伴って作戦の実施が困難となり、潜水艦を母艦とした甲標的攻撃に切り替えられたのである。そして伊16は伊20、伊22、伊24とルンガ泊地のアメリカ軍に対する甲標的攻撃を試みる。11月7日午前6時にインディスペンサブル海峡の発進地点へ到着。静かに機会を窺う。
11月11日午前2時、八巻中尉と橋本上等兵曹が甲標的に乗艇。午前3時49分に浮上してみると警戒中のPTボートを発見したためすぐさま潜航退避している。午前4時21分、エスペランス岬北西20kmから甲標的を発進させるも発進時の事故で僅か3分後に操縦不能と化してしまい浮上、日本軍の勢力圏であるガ島北西カミンボを目指そうとしたが連合軍機が哨戒しているのを発見したため、自沈処理を施した上で搭乗員2名は海上に脱出した。同日19時頃に彼らはマロボボ海岸へ到達してガ島守備隊と合流している。甲標的の発進後、伊16はショートランドへの帰路に就いた。その途上の11月13日、第三次ソロモン海戦が生起し、集中砲火を浴びた戦艦比叡がガ島北西沖で大破漂流中との報が入る。「比叡の残骸を発見して撃沈処分せよ」の命令を受けた伊16は当該海域に急行するも、既に比叡の姿は無く処分に失敗した。11月18日にトラックへ帰投。しかし休む間もなく再度ルンガ泊地攻撃を命じられ、甲標的10号、外弘志中尉と井能新作二等兵曹を受領、11月21日に出撃してガ島方面へ急行する。
11月28日午前2時55分、サボ島沖39kmより甲標的を発進。ガ島守備隊から大型輸送船の撃沈が報告されるが、間もなく甲標的は消息絶ち、搭乗員2名は戦死と認定されて二階級特進となった。アメリカ側の資料によると、午前8時16分、ルンガ岬の北東から雷撃を受けてアメリカ貨物船アルキパが炎上。沈没を避けるため意図的に座礁したが5日間に渡って燃え続けたと記録されている。12月2日、トラックへ帰投。甲標的22号と門義視中尉と矢萩利夫二等兵曹を乗せ、12月6日にトラック出撃。12月13日午前4時48分、サボ島から16kmの地点より甲標的を発進。夜明け頃、門艇はルンガ岬沖で敵の病院船ソレイスを発見。続いて敵の駆逐艦を発見し、2本の魚雷を発射。しかし命中せず、自沈させたのち上陸。ガ島守備隊に加わった。12月18日にトラックへ帰投したが、損害の大きさからルンガ泊地への甲標的攻撃は打ち切られた。12月20日、先遣部隊乙潜水部隊に転属。ガダルカナル島に対する補給輸送を命じられ、伊16もモグラ輸送を経験する事になる。
1943年
1943年1月5日、トラックを出港してショートランドに向かう。1月9日に到着し、上甲板に物資を詰めたドラム缶を満載。潜水艦は運送艦になった。1月11日、ショートランド出港。厳しい敵の警戒を突破し、1月13日にカミンボに到着。しかし上空には敵機が旋回しており、浮上する事が出来ない。また陸上の陸軍も敵機を警戒してか大発が派遣しなかったため、輸送失敗。やむなくドラム缶を投棄して帰投した。1月15日にショートランドへ寄港するが、同日中に出発。1月18日、トラック到着。運貨筒輸送の準備に入った。伊16は甲潜水部隊に編入され、第三潜水戦隊に部署。間もなく行われるガダルカナル島からの撤退作戦を支援すべく、ガ島南東海域にて友軍航空隊と協力して敵艦船の捕捉撃滅を命じられた。1月20日、トラックを出港。ショートランドに寄港して物資を積み込み、1月23日に出撃。撤退作戦に備え、ガ島にいる将兵の体力を少しでも回復させる必要があり、伊16が運んでいる運貨筒もそのための糧食だった。1月25日、エスペランス岬に到着。お届け物の運貨筒とともに18トンの物資を輸送し、ガ島南東方面に移動。配備につく。1月28日、甲散開線の配備につき、索敵と哨戒を行う。そして1月31日より駆逐艦による撤退作戦こと、「ケ」号作戦が開始された。2月3日16時40分、伊16は多数の敵駆逐艦を発見。針路170度、速力14ノットで南下中と司令部に打電した。2月5日、甲潜水部隊よりG散開線への移動を命じられ、配置転換。予想された敵襲は無く、「ケ」号作戦は2月7日に完了。予想以上の将兵を救出するという大成功に終わった。
撤退作戦完了に伴って甲潜水部隊は戊潜水部隊に改名。敵の後方拠点であるエスピリトゥ・サント島付近で通商破壊を行うよう下令され、移動を開始。2月11日、第1潜水隊の旗艦だった伊18が消息不明となったため、伊16が旗艦に指定され、山田艦長が司令代理を務めた。2月16日、エスピリトゥ・サント島近海から撤収。2月26日にトラック島へ帰投した。3月20日、先遣部隊から南東方面艦隊へ異動となり、第7潜水戦隊に編入。東部ニューギニアへの作戦輸送を命じられる。3月22日、トラックを出発してラバウルに向かう。3月24日、旗艦の座を伊21に変更。3月26日にラバウルへ到着し、兵器弾薬類40トンとドラム缶30本、便乗者を積載。3月29日にラバウルを出港し、4月1日にラエへ到着。何事も無く物資の輸送に成功、帰路についた。ところが4月2日、水中で伊20と衝突事故を起こして軽微な損傷を負った。翌日ラバウルへ入港し、応急修理を受ける。しかし現地では修理し切れなかったため内地での修理を命じられ、南東方面艦隊から除かれた。4月6日にラバウルを出港、トラックを経由して4月16日に横須賀へ入港。横須賀工廠で本格的な修理を受けた。
9月21日、横須賀を出港してトラックに向かう。道中の9月25日に第1潜水戦隊第2潜水隊へ転属。9月27日にトラックに入港した。伊174と交代するため、10月6日に出港。ラバウルに向かっていたが、伊171とともにウェーク島方面の警戒につくよう指示が下り、ウェーク島近海に転針する。だが翌日に命令が撤回されたため、当初の予定通りラバウルに移動。10月11日に南東方面艦隊に復帰となり、翌日ラバウル着。10月14日よりニューギニア北岸シオへの輸送に励む。10月31日のシオ輸送では、第85警備隊30名を便乗させ、シオに揚陸している。11月22日までにラバウル・シオ間を五往復した。今度はシオ、マダン、ウェワクへの輸送を命じられ、ウェワクに進出する第9艦隊司令部が伊16に乗艦。将旗が掲げられた。11月24日にラバウルを出港。11月27日にシオに到着し、糧食を揚陸。同日夜に出発し、11月29日にマダン到着。第9艦隊司令部と現地の陸軍第18軍が作戦打ち合わせを行った。夜にマダンを出発、11月30日に最終目的地のウェワクに到着した。ここで第9艦隊司令部を揚陸し、ラバウルへと帰投する。その後もシオ輸送に参加し続けた。
12月25日、ラバウルにて空襲を受け、至近弾により損傷。応急修理を受けるも作戦に従事できなくなり、横須賀への帰投が決定。南東方面艦隊から除かれる。
1944年
1944年1月2日、横須賀に帰港。本格的な修理を受ける。1月15日に第1潜水戦隊が解隊となったため、第6艦隊直属となる。
2月27日に横須賀を出港し、トラック方面に移動。道中の3月5日に第15潜水隊へ転属し、翌6日にトラックへと到着した。先月行われたトラック大空襲によって基地施設は無残に破壊され、旗艦だった特設潜水母艦平安丸も沈没。第6艦隊司令部は地上にバラックを作り、そこへ移動していた。広大な泊地にいるはずの連合艦隊の姿は無く、閑散としていた。3月15日、伊41から旗艦を継承する。
3月17日、メジュロ・ヤルート間で発見された敵機動部隊攻撃のため出撃。オルロック南方の配備点に急行する。翌日配備点につき、索敵と哨戒を実施。しかし敵艦を発見出来なかったため、3月22日にマーシャル諸島東方への配備を命じられた。翌23日18時、伊32がヤルート北方60海里に敵機動部隊を発見、迎撃を行うべくクサイ島北方への配備を下令されたが、やはり会敵しなかったためマーシャル諸島東方に戻った。4月17日、第7潜水戦隊へ転属する事になり、索敵任務を中断。
4月19日、サイパン島に寄港し、補給を受ける。4月21日に出発し、4月23日にトラック入港。敵の執拗な攻撃は未だ続いており、4月30日に敵機が襲来。伊16は潜航してやり過ごし、迎撃のためトラックを緊急出撃。A散開線に配備され、5月1日に配備につく。翌日に帰投命令を受領し、5月3日にトラックへ帰着した。
最期
1944年5月14日午前8時、南東方面への輸送任務に従事するためトラックを出発。ブーゲンビル島ブインに届ける約1.1トンの米袋を積載していた。到着は5月22日20時頃になると第7潜水戦隊に打電した。しかしこの通信を最後に消息を絶った。アメリカ側の記録によると、ブインへの到着予定日を知らせる通信をホノルルの暗号解析班が傍受。フロリダ島ツラギ港に停泊していた第39護衛部隊に送信され、護衛駆逐艦ジョージ、ラビー、イングランドからなる対潜掃討部隊を派遣。
5月19日朝、アレクサンダー岬の北東140マイルを水上航行中の伊16を哨戒機が発見し、対潜掃討部隊に通報。現場に駆逐艦3隻が急行した。既に伊16は海中へ没していたが、13時35分にイングランドのソナーが捕捉。13時41分より5回に及ぶヘッジホッグ攻撃を行った。14時35分、水中で大爆発が発生。やがて海面に破片や米袋が入ったゴム容器等の残骸が浮かび上がり、その1時間後には小さな油膜も現れた。これが伊16の最期であった。6月25日、ソロモン諸島北方で亡失認定され、10月10日に除籍となった。
関連項目
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