伊16単語

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伊16とは、大日本帝國海軍が建造した伊16/巡潜潜水艦1番艦である。1940年3月20日工。大東亜戦争では甲標的母艦として活動し、連合船舶4隻(1万7732トン)を撃沈、1隻(6198トン)を撃破した。1944年5月19日ソロモン諸島北方で対潜攻撃を受けて沈没

概要

巡潜は、巡潜を簡略化して生産性を向上させたタイプである。

建造期間短縮のため巡潜三の線図を流用、旗艦設備と航空装を撤去した純然たる潜水艦。このため偵も積んでおらず、いたスペースには魚雷を積載してを向上。コンセプト的には巡潜四とも言うべき存在だった。艦首魚雷発射管8門、搭載魚雷20本は日本潜水艦史上最強撃兵装であり、しうるのは潜水空母の潜特だけである。簡略化を推し進めてはいるが開戦前に設計したため、機関は甲で採用されている最近の艦本式2号10を採用。最大速23.6ノットの快足を獲得したものの生産性の向上はあまり果たせていないのが実情である。また、潜航性善すべくタンク等に大掛かりな改造を施して40~55での急速潜航を可とし、フレオン式冷却器を搭載した事で劣悪な艦内環境善。他にも潜望を10mに換装するなどあらゆる面で良を受け、充電波性に優れる。

マル三計画で建造された前期(伊16、18、20、22、24)とマル急計画で建造された後期(46、伊4748)があり、後期は量産性を高めるため細部に若干の変更が加えられているが、同艦と見なされる事が多い。伊16は撃で4隻、甲標的攻撃で1隻撃破の戦果を挙げ、数々の輸送任務を成功に導いた。また前期の中では最も長生きしており1944年まで生き残っていた。

排水量2184トン、全長109.3m、全幅9.1m、喫5.34m、乗員95名、ディーゼル燃料744トン、速23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、乗員100名。武装は九五式発射管8門、酸素魚雷20本、40口径14cm単装1門、九六式25mm連装機1基。電測兵器として九三式聴音機、九三式探信儀、22号水上電探を装備する。

艦歴

開戦前

1937年の第三次海軍軍備充実計画にて、一等潜水艦44号艦の仮称で建造が決定。

1937年9月15日三菱重工神戸所で起工。1938年6月1日伊16と命名されて7月8日に進、残工事を行うためまで航され、艦後部の装工事に着手する。1940年3月9日多田で行われた終末試で水上23.6ノットを記録した。そして同年3月20日工。初代艦長に山田少佐が着任するとともに横須賀鎮守府へ編入、練習潜水艦定されて呉鎮守府部隊揮下に入り、練習に関しては海軍学校揮を受けた。11月15日、巡潜ネームシップである15とともに第6艦隊第1潜戦隊第1潜隊を編成。潜水艦定されて石崎大佐が乗艦する。

1941年9月1日連合艦隊は戦時編制に移行し、いよいよ対戦争現実味を帯び始めてきた。10月15日山田艦長が中佐に昇進。そして10月19日、伊16は海軍大臣から、特殊潜航艇「甲標的」を艦に搭載するための特別工事を受けるよう命じられた。これを受けて10月22日横須賀を出港、24日にへと到着し、翌日から兼行の突貫工事が始まった。


甲標的とは、艦隊決戦の際に敵の前方へと進出し、撃を加える2人乗りの小艇の事である。1940年11月15日に制式採用されたばかりの本兵器は開戦前から秘密兵器として扱われ、その運用母艦千歳水上機母艦である事さえも底的に秘匿していた。1941年8月下旬に4ヶ間行われた甲標的の第二期講習が終了。ところが飛行機の急速な発達と、航続距離2万2000mを持つ酸素魚雷の出現により、搭乗員として訓練を受けていた岩佐直治中尉らは甲標的の使用に疑問を持ち始める。面下で進んでいる真珠湾攻撃作戦に薄々気付いた岩佐中尉は開戦と同時に甲標的を敵艦隊の根拠地に潜入攻撃させる事を思いついた。

密かに研究を重ねた彼は、9月初旬に母艦千代田艦長で直属の上官でもある原田大佐に意見具申。原田艦長はたまた広島湾へ訓練の視察に来ていた軍部の参謀・有之介中佐に説明を行い、彼の賛同を取り付ける事に成功。原田艦長は岩佐中尉とともに山本五十六長官へ具申した。山本長官は身を犠牲にしてまで湾口へ突入する精感動しつつも、生還を期さない出撃は認められないと却下。一度は意見を退けられた岩佐中尉であったが更に研究を重ねて再度具申、人先任参謀も味方してくれたが、山本長官は沈黙して首を縦に振らない。10月初旬、3回の意見具申でようやく承認を得られ、「それでは如何なる潜水艦で運び得るか、また敵港湾中どれとどれが侵入できるか、また襲撃後帰還に対する可性はあるか?至急研究し成果を報告せよ」と言い渡された。

港湾侵入の方法は岩佐松尾の両名に任せ、原田大佐甲標的を搭載する潜水艦の選定に入る。調の結果、大四以降の大潜水艦であれば後甲に1基搭載出来る事が分かったが、艦の安定性を差し引きすると巡潜適当と判断し、伊16、18、20、22、24が甲標的母艦に選ばれた。当初攻撃標には真珠湾とシンガポールの2ヵ所が挙げられていたものの、シンガポールは攻撃後の脱出が困難だとし、確実に脱出出来るとされる真珠湾が港湾攻撃の対となった。

9月下旬より四国真珠湾を想定した港に甲標的が潜入する間訓練が行われる。


工事中11月5日、第1潜戦隊は先遣部隊に編入され、前代未聞のハワイ作戦を行う南雲機動部隊支援任務を帯びる。当初は甲標的による敵港湾攻撃はハワイ作戦に含まれていなかったが、山本長官が承認した直後に行われた図上演習でこの攻撃計画が正式に承認され、ハワイ作戦の一部に組み込まれたのである。乗員・工員双方の不断の努によりハワイ作戦開始直前の11月10日に工事了。特格納筒を搭載して何とか作戦に間に合わせた。同日中に先遣部隊特別攻撃隊に編入、第三潜戦隊佐々木半九大佐揮下に入る。そして真珠湾攻撃に先立って湾口へ甲標的を潜入させる重要任務が言い渡され、伊16には搭乗員の横山正治中尉上田定二等兵曹が乗艦した。

11月14日呉鎮守府第二会議室にて行われた作戦会議山田艦長が出席して打ち合わせを行う。一旦は甲標的攻撃を承認した山本長官であったが、どうしても人命を優先したい意図があったため、出席した第六艦隊清水中将に対して「搭乗員が生還する見込みがい場合は、特殊潜航艇による攻撃を取りやめるように」と念を押していた。心配する山本長官とは対照的に、当の搭乗員たちは士気旺盛で生還は全く眼中にかったという。翌15日の御前会議で遂に対英開戦が決定。もはや後戻りはもう出来なかった。

11月18日を出港し、柱ヶ首海軍試験場において甲標的1基を積載した後、山田艦長から対宣戦布告の旨とその他訓示があり、乗組員一同は万歳の歓を以って応えた。同日夕刻に22で出撃壮行会を開いて戦意を高める。そして20時甲標的を積載した伊16、18、20、22、24が一斉に出撃。ハワイへと続く、果てしない路の第一歩を踏み出したのだった。アメリカ軍行動を悟られぬよう航行中は不用物の中投棄が出来ず、また厳重な線封鎖のため電波は受信しか出来ないなど、差し詰め忍者の如き隠密航である。

11月19日午前4時40分に南方を通過、午前8時甲標的を搭載した状態での試験潜航を行った。11月20日午前5時15分に八丈島付近を通過したのちハワイへ向けて直進を開始、11月22日に敵の圏へ突入したため22時10分より艦の見りを三直とし、11月24日にウェーク・ミッドウェーの中間点を通過。以降間は潜航、間のみ水上航行を行って進撃していく。正規の乗組員ではない横山中尉上田二等兵曹には艦内業務がいため、艦長室の個室で静かに読書や習字に務め、精統一を図っていた。11月25日午前3時、浮上した伊16を出迎えたのは大荒れの上と艦体を揺さぶるほどの浪であった。潜航中はともかく浮上中は地獄だった。動揺のしさから乗組員は一睡も出来ず(最大で24度も傾斜したという)、ともすればハワイへ到達する前に転覆してしまいそうだ。次々と襲い来る大波と苦闘を続けながら、11月29日に西経へ入り、その翌日にミッドウェー南方を通過。ハワイジョントン間を航行する。

12月1日を蒸留したを使って洗濯や洗面を実施。潜水艦ではは大変重なので入港前かおめでたい事があった時にしか支給されないのだ。翌2日、瀬戸内海に停泊中の戦艦長門が発した「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を傍受、対戦争の開戦は12月8日に定められた。この日から見りと喫煙以外の的で艦へ出る事が禁じられる。荒の北太平洋を進む伊16は12月3日ハワイ300里圏内に到達。ここからはアメリカ哨戒機が飛んでくる危険性がある域。舳先をオアフに向け、慎重に、隠密裏に、へと近づいてゆく。ハワイには伊16以外にも複数の潜水艦が進出しているが、もし1隻でも敵に見つかればハワイ作戦が根底から狂ってしまうだろう。12月6日甲標的間整備を実施。

12月7日、ついに真珠湾外へと到着。港の誘導が点滅し、敵の艇がで入港していくのが見え、入口の防潜網も取り除かれている。どうやら敵の警は手薄な様子で甲標的の進入に適していた。既に甲標的への乗艇を済ませていた横山上田の両名から電話で別れの言葉が入る。20時12分(現地時間午前0時42分)、電話線その他連絡線を切断、2ヵ所の固定バンドを艦内のハンドル操作により取り外し、湾口の212度7里の地点から甲標的を発進。母艦の伊16は潜航待機して襲が行われる翌日の午前6時をひたすら待った。

1941年

12月8日、乗組員は戦闘配置に就く。そして午前6時爆発音や水中炸裂音などがドカン、ドカンと連続していてきた。これは南雲機動部隊による真珠湾攻撃が始まった合図である。伊16は、襲から逃れようと外洋へ出てくる敵艦を狙って日中湾口の監視を行った。しかし敵艦の姿は見受けられなかったため、発進させた甲標的を回収するべくラナイ西方の収容予定地点へ移動、17時より現場で待機する。

17時6分から19時17分までは甲標的との連絡が確立されており、18時11分には攻撃成功を意味する「トラトラ」の電報甲標的から受信している。だが20時21分、かすかに「航行不能」の特定符号を受信したのを最後に連絡が途絶してしまう。その後も23時まで待ち続けたが甲標的が戻ってくる事はかった。当は視界が良く、波も穏やか、敵の警も緩い事から「甲標的は湾内への突入に成功した」と判断。ハワイ新聞電報より得られた情報を統合した結果、戦果は駆逐艦1隻撃沈と思われた。

そんな中、港内から聞こえてくる爆発音とは別に、付近で炸裂する爆発音が探知される。敵もまた伊16の存在を把握し、爆雷を投下しながら探し回っていたのだ。遠近ともに聞こえてくる爆雷の炸裂音。それが次第に伊16の方へと近づいてきてミシミシと嫌な音を立てる。敵のソナーから逃れるため100mまで沈降するとともに、推進器を停止して息を潜める。だがそれを嘲笑うかのように敵の爆雷投下は正確さを増し、遂に至近距離で連続して爆雷が炸裂したため、120m以上にまで潜って対抗。巡潜の安全潜航深度は100mまでなので、圧に押し潰される危険性をんだ危ない賭けだった。死の淵で踏みとどまる伊16に更なる報が舞い込む。先ほどの至近弾により後部電池室のバッテリー外器が破損し、内部の硫が漏洩して艦底の汚と化合、煙のような炭酸ガスが発生したのである。このまま放置すれば全員が窒息死してしまう。直ちに応急修理に取り掛かり、破損した2~3器を取り外して水中航行に支障が出ないよう努める。あまりにも執拗な爆雷攻撃が続いたため、わざと多量の重放出すると同時に予め上甲に用意された木などを面に浮上させ、あたかも撃沈されたかのように見せかける「仮装沈没」の作業を実施。見事敵はこれに引っかかり、夕方頃に引き揚げていった。命からがら助かった伊16は現場域より離脱して再び湾口へと戻った。

12月9日も収容予定地点に赴いたが甲標的は姿を見せなかった。

12月10日はラナイ西方南方で索敵を行った後、湾口の監視任務に就いて未だ帰って来ない甲標的を待ち続ける。しかし12月12日午前3時にとうとう捜索が打ち切られ、伊16はマーシャル諸島のクェゼリン基地をして帰路に就く。12月20日にクェゼリンへ入港。2日後に部へ甲標的の戦訓を報告した。本作戦の成果などから甲標的を局地で使用する気運が高まり、戦訓による兵器善を図るとともにその訓練に従事するため、連合艦隊から伊16を横須賀へ帰投させるよう示が下る。急いで整備を行った後、12月25日にクェゼリンを出発して内地に向かう。

ちなみに伊16から発進した甲標的は推測通り湾内へと侵入していた。停泊中の敵艦を撃したが外れ、駆逐艦モナハンの反撃を受けて撃沈される。横田中尉上田二等兵曹は戦死し死後二階級特進となった。

1942年

1942年1月2日に伊16は横須賀へ帰投。休む間もなく翌日すぐにへと回航され、1月4日より装工事を受ける。

ハワイ作戦に投入された甲標的は全て未帰還となった。これを受けて次期作戦を実行するか否かの議論が交わされ、当初軍部では「搭載潜水艦自由が奪われる」「港湾の防備が緒戦とべて益々厳しくなっている(=優秀な若人を生還率の低い場所へ送り出す訳にはいかない)」と乗り気ではなく、「潜水艦行動を制約する作戦適当ではない」という反対意見もあったが、部隊側は兵器善と搭乗員の訓練によって更なる戦果が挙げられると対照的に考えており、以降も甲標的攻撃を行う事が決定。伊16に研究と試験を命じた。今までの甲標的だと、艦内から移乗するにはハッチを開けて上甲を通る必要がある(=浮上が必須)という問題があり、敵の警が厳重な域では危険を伴った。そこで艦内と甲標的を繋ぐ交通筒を新たに装備。浮上せずとも艦内から直接甲標的へ移乗出来るよう良する。交通筒を装備した事で潜航中でも整備と発進が可になり、伊16で試験運用してみたところ結果は良好。さっそく交通筒は甲標的母艦の標準装備となった。甲標的良は各部に渡り、また良と並行して連日連瀬戸内海西部母艦との合同訓練が実施されている。

2月2日に先遣部隊特別攻撃隊から外されて第1潜戦隊第1潜隊へ編入。次期作戦の準備を下される。3月10日、第1潜隊は新設されたばかりの第8潜戦隊に異動となり、3月19日に播磨水上機母艦千代田連合演習を行った。3月24日、他の僚艦がインド洋へ向けて出撃していく中、伊16は甲標的との訓練のため瀬戸内海西部に留まり続けた。3月31日に第1潜隊は先遣部隊甲先遣部隊に編入、インド洋とアフリカ沿方面での通商破壊を命じられる。出撃前、小松中将石崎大佐、第8潜戦隊の幕僚、そして甲標的の搭乗員が柱島泊地に停泊中の戦艦大和を表敬訪問し、山本五十六長官と謁見した。

4月15日、第1潜隊所属の伊16、18、20の3隻はを出港。広島湾で集結したのち翌16日に出撃して東南アジアのペナン基地をす。ところが中の4月18日ドーリットル空襲が発生して本土が初襲を受ける。東へ逃走する敵機動部隊を追撃するため、第6艦隊小松輝久中将は伊16、伊1018、20、伊30に北東への進撃命を出した。小笠原諸島の北を通過して索敵を行うも捕捉に失敗して元の航路へと戻る。4月24日から翌25日までシンガポールに寄港して燃料補給を受け、4月27日的地のペナン基地へ入港した。このペナン基地はインド洋を臨むマレー半島西で、南方作戦初期にイギリス軍が放棄した基地施設を日本が占領して再利用していたのである。現地で水上機母艦日進から甲標的1基と搭乗員の岩瀬少尉高田高三二等兵曹を受領。

4月30日南アフリカのダーバン通商破壊を行うべくペナンを出撃。第8潜戦隊には潜水艦の活動を支援する特設巡洋艦丸と愛国丸が所属しており、5月5日、10日、15日に2隻から補給を受けた。5月18日午前3時38分、マダガスカル東南東で波浪を浴びて機械出口から浸、これが原因で左舷機が使用不能となってしまう。艦内では修理できないほどの故障だったが幸い航行にはかった。5月20日、第1潜隊はマダガスカルディエゴスワイレス港への甲標的攻撃を命じられる。現在マダガスカルヴィシーフランスの領土であったが、日本の参戦により同の基地化を恐れたイギリス軍がアイアンクラッド作戦を発動、去る5月5日より上陸作戦を開始していた。ドイツを通してヴィシー政府から支援められた日本は要請に応じて伊16、18、20に甲標的攻撃を命じたのだった。

作戦の前準備として、5月21日支援役の旗艦伊10ディエゴスワイレスへ進出し、5月29日22時30分に航空偵察を実施。港内にて英クイーンエリザベス戦艦1隻、軽巡1隻、多数のコルベット艦と病院、軍隊輸送の停泊を確認して伊16にもその情報が届けられた。攻撃のためマダガスカル北端を回してディエゴスワイレスに進出する伊16。移動中、東アフリカに夥しい量の連合軍商が往来しているのを撃した。ともに作戦を行うはずだった18は左舷エンジンの故障で攻撃に参加できず、甲標的攻撃するのは伊16と20の2隻のみに減じた上、合いのが荒れているで発進時刻に遅れが生じる。

5月31日17時40分、ディエゴスワイレス湾口19km岩瀬高田両名が乗り組んだ甲標的を発進。その後甲標的とは連絡が取れなくなった。伊16は収容予定地点に移動して甲標的の帰投を待っていたが、6月3日まで待っても姿を見せなかったため、捜索を中止して離脱。搭乗員2名は戦死と判定されて二階級特進となった。伊16から発進した甲標的がどのような結末を辿ったのかは不明なものの、6月2日日本人搭乗員の死体ディエゴスワイレス近くの辺に打ち上げられており、伊16の甲標的搭乗員ではないかと言われている。ちなみに20から発進した甲標的撃で英戦艦ミリーズを大破着底させ、タンカーブリティッシュ・ロイリティを撃沈した。

甲標的攻撃後、伊16は通商破壊戦に移行。南緯10~26度までのモザンビーク峡を4分割して割り振り、それぞれ伊10、伊16、18、20を配置、マダガスカルには伊30が、南方には報丸と愛国丸が配備に就く。そして6月4日モザンビーク峡の配備点に到着して通商破壊を開始。この域には北アフリカ戦線に物資を送る連合軍の商が大量に往来しており、言わば最良の狩り場であった。峡内では小護衛艦艇を伴った商隊が隊列を組んで航行しているので、まず最初に護衛艦艇を攻撃。すると商隊が隊列を崩して四方八方へ逃げ出すのでこれを各個狩る訳である。6月6日モザンビーク南方にてユーゴスラビア貨物ザック(3889トン)を撃で撃沈し、最初の戦果を挙げる。続いて6月8日ギリシャ貨物アギオス・ゲオリギオス(4847トン)を14cm単装撃して撃沈。船長を含む7名を戦死させた。6月12日にはユーゴスラビア貨物ペタ(3748トン)を撃で撃沈。

一挙に3隻撃沈の戦果を挙げた伊16は補給のため一旦峡より撤退。6月17日マダガスカル南端セントマリー南東約250里にて特設巡洋艦から魚雷、食糧、燃料の補給を受け、再び峡へと舞い戻った。

7月1日スウェーデンエクナレン(5248トン)を撃により撃沈。勢いに乗って峡北部のモンバサまで狩り場を拡大したが以降は獲物にありつけなかった。その後は7月23日にマエー7月26日ディエゴガルシアの偵察を行い、東アフリカより撤収。間は潜航、間のみ浮上航行する関係上、乗組員はペナン出港から全く太陽を見ていなかった。この頃になるとも不足しての洗面さえもままならず、蒸し暑さから噴き出すも手拭いで拭くのがやっとだった。一連の通商破壊により全体で22隻(10万3496トン)撃沈の大戦果を挙げる事が出来たが一方で課題も残された。魚雷の不調があまりにも多かったのである。伊16では爆7本、跳出10本、偏斜3本があり、伊16と18が「発射成績は極めて不良、現有魚雷にては襲撃の効果に自信し」と摘しているほど。大戦果と問題を抱えながら8月10日にペナン基地へ帰投。乗組員たちは上甲に上がって久々日光浴を楽しんだ。

8月14日にペナンを出港し、8月25日横須賀へ入港。整備と補給を受ける。伊16がインド洋まで長駆している間、予想よりアメリカ軍の反攻作戦が始まり、ガダルカナル島を巡ってソロモン戦線が形成されていた。このため予定されていた次のインド通商破壊作戦は中止となってしまう。10月8日、第1潜隊は第8潜戦隊揮下の部隊に編入され、整備了次第トラックに進出するよう命じられた。

10月17日横須賀を出港、トラックを経由し、11月2日にブーゲンビル西端ショートランド泊地へ進出。11月4日13時、ここで千代田から甲標的30号を受領するとともに搭乗員の八巻悌二中尉橋本一上等兵曹が乗艦、24とともにショートランドを出撃した。ガカミンボには甲標的の出撃基地が設営されていたが、アメリカ軍の上陸に伴って作戦の実施が困難となり、潜水艦母艦とした甲標的攻撃に切り替えられたのである。そして伊16は20、22、24とルンガ泊地のアメリカ軍に対する甲標的攻撃を試みる。11月7日午前6時インディスペンサブ峡の発進地点へ到着。静かに機会をう。

11月11日午前2時、八巻中尉橋本上等兵曹が甲標的に乗艇。午前3時49分に浮上してみると警中のPTボートを発見したためすぐさま潜航退避している。午前4時21分、エスランス北西20kmから甲標的を発進させるも発進時の事故で僅か3分後に操縦不能と化してしまい浮上、日本軍の勢圏であるガ北西カミンボをそうとしたが連合軍機がしているのを発見したため、自沈処理を施した上で搭乗員2名は上に脱出した。同日19時頃に彼らはマロボボ海岸へ到達してガ守備隊と合流している。甲標的の発進後、伊16はショートランドへの帰路に就いた。その途上の11月13日第三次ソロモン海戦が生起し、集中火を浴びた戦艦比叡がガ北西で大破漂流中との報が入る。「比叡の残骸を発見して撃沈処分せよ」の命を受けた伊16は当該域に急行するも、既に比叡の姿はく処分に失敗した11月18日トラックへ帰投。しかし休む間もなく再度ルンガ泊地攻撃を命じられ、甲標的10号、外中尉と井新作二等兵曹を受領、11月21日に出撃してガ方面へ急行する。

11月28日午前2時55分、サボ39kmより甲標的を発進。ガ守備隊から大輸送の撃沈が報告されるが、間もなく甲標的は消息絶ち、搭乗員2名は戦死と認定されて二階級特進となった。アメリカ側の資料によると、午前8時16分、ルンガの北東から撃を受けてアメリカ貨物アルキパが炎上沈没を避けるため意図的に座礁したが5日間に渡って燃え続けたと記録されている。12月2日トラックへ帰投。甲標的22号と門義視中尉矢萩利夫二等兵曹を乗せ、12月6日トラック出撃。12月13日午前4時48分、サボから16kmの地点より甲標的を発進。明け頃、門艇はルンガで敵の病院ソレイスを発見。続いて敵の駆逐艦を発見し、2本の魚雷を発射。しかし命中せず、自沈させたのち上陸。ガ守備隊に加わった。12月18日トラックへ帰投したが、損の大きさからルンガ泊地への甲標的攻撃は打ち切られた。12月20日、先遣部隊部隊に転属。ガダルカナル島に対する補給輸送を命じられ、伊16もモグラ輸送を経験する事になる。

1943年

1943年1月5日トラックを出港してショートランドに向かう。1月9日に到着し、上甲に物資を詰めたドラム缶を満載。潜水艦は運送艦になった。1月11日ショートランド出港。厳しい敵の警を突破し、1月13日にカミンボに到着。しかし上には敵機が旋回しており、浮上する事が出来ない。また陸上陸軍も敵機を警してか大発が派遣しなかったため、輸送失敗。やむなくドラム缶を投棄して帰投した。1月15日ショートランドへ寄港するが、同日中に出発。1月18日トラック到着。運貨筒輸送の準備に入った。伊16は甲潜部隊に編入され、第三潜戦隊に部署。間もなく行われるガダルカナル島からの撤退作戦支援すべく、ガ東海域にて友軍航空隊と協して敵艦の捕捉撃滅を命じられた。1月20日トラックを出港。ショートランドに寄港して物資を積み込み、1月23日に出撃。撤退作戦に備え、ガにいる将兵の体力を少しでも回復させる必要があり、伊16が運んでいる運貨筒もそのための糧食だった。1月25日エスランスに到着。お届け物の運貨筒とともに18トンの物資を輸送し、ガ東方面に移動。配備につく。1月28日、甲散開線の配備につき、索敵とを行う。そして1月31日より駆逐艦による撤退作戦こと、「ケ」号作戦が開始された。2月3日16時40分、伊16は多数の敵駆逐艦を発見。針路170度、速14ノットで南下中と部に打電した。2月5日、甲潜部隊よりG散開線への移動を命じられ、配置転換。予想された敵襲はく、「ケ」号作戦2月7日了。予想以上の将兵を救出するという大成功に終わった。

撤退作戦了に伴って甲潜部隊部隊名。敵の後方拠点であるエスリトゥ・サント付近で通商破壊を行うよう下され、移動を開始。2月11日、第1潜隊の旗艦だった18が消息不明となったため、伊16が旗艦に定され、山田艦長が代理を務めた。2月16日エスリトゥ・サントから撤収。2月26日トラックへ帰投した。3月20日、先遣部隊から南東方面艦隊へ異動となり、第7潜戦隊に編入。東部ニューギニアへの作戦輸送を命じられる。3月22日トラックを出発してラバウルに向かう。3月24日、旗艦の座を伊21に変更。3月26日ラバウルへ到着し、兵器弾薬類40トンドラム缶30本、便乗者を積載。3月29日ラバウルを出港し、4月1日にラエへ到着。何事もく物資の輸送に成功、帰路についた。ところが4月2日水中20と衝突事故を起こして軽微な損傷を負った。翌日ラバウルへ入港し、応急修理を受ける。しかし現地では修理し切れなかったため内地での修理を命じられ、南東方面艦隊から除かれた。4月6日ラバウルを出港、トラックを経由して4月16日横須賀へ入港。横須賀で本格的な修理を受けた。

9月21日横須賀を出港してトラックに向かう。中の9月25日に第1潜戦隊第2潜隊へ転属。9月27日トラックに入港した。174と交代するため、10月6日に出港。ラバウルに向かっていたが、171とともにウェーク島方面の警つくよ示が下り、ウェーク島に転針する。だが翌日に命が撤回されたため、当初の予定通りラバウルに移動。10月11日に南東方面艦隊に復帰となり、翌日ラバウル着。10月14日よりニューギニアシオへの輸送に励む。10月31日のシオ輸送では、第85警備隊30名を便乗させ、シオに揚陸している。11月22日までにラバウル・シオ間を五往復した。今度はシオ、マダン、ウェワクへの輸送を命じられ、ウェワクに進出する第9艦隊部が伊16に乗艦。将旗が掲げられた。11月24日ラバウルを出港。11月27日にシオに到着し、糧食を揚陸。同日に出発し、11月29日にマダン到着。第9艦隊部と現地の陸軍第18軍が作戦打ち合わせを行った。にマダンを出発、11月30日に最終的地のウェワクに到着した。ここで第9艦隊部を揚陸し、ラバウルへと帰投する。その後もシオ輸送に参加し続けた。

12月25日ラバウルにて襲を受け、至近弾により損傷。応急修理を受けるも作戦に従事できなくなり、横須賀への帰投が決定。南東方面艦隊から除かれる。

1944年

1944年1月2日横須賀に帰港。本格的な修理を受ける。1月15日に第1潜戦隊が解隊となったため、第6艦隊直属となる。

2月27日横須賀を出港し、トラック方面に移動。中の3月5日に第15潜隊へ転属し、翌6日にトラックへと到着した。先行われたトラック大空襲によって基地施設は残に破壊され、旗艦だった特設潜水母安丸も沈没。第6艦隊部は地上にバラックを作り、そこへ移動していた。広大な泊地にいるはずの連合艦隊の姿はく、閑散としていた。3月15日伊41から旗艦を継承する。

3月17日、メジュロ・ヤルート間で発見された敵機動部隊攻撃のため出撃。オルロック南方の配備点に急行する。翌日配備点につき、索敵とを実施。しかし敵艦を発見出来なかったため、3月22日マーシャル諸島東方への配備を命じられた。翌23日18時32がヤルート北方60里に敵機動部隊を発見、迎撃を行うべくクサイ北方への配備を下されたが、やはり会敵しなかったためマーシャル諸島東方に戻った。4月17日、第7潜戦隊へ転属する事になり、索敵任務を中断。

4月19日サイパンに寄港し、補給を受ける。4月21日に出発し、4月23日トラック入港。敵の執拗な攻撃は未だ続いており、4月30日に敵機が襲来。伊16は潜航してやり過ごし、迎撃のためトラックを緊急出撃。A散開線に配備され、5月1日に配備につく。翌日に帰投命を受領し、5月3日トラックへ帰着した。

最期

1944年5月14日午前8時、南東方面への輸送任務に従事するためトラックを出発。ブーゲンビルブインに届ける約1.1トン袋を積載していた。到着は5月22日20時頃になると第7潜戦隊に打電した。しかしこの通信を最後に消息を絶った。アメリカ側の記録によると、ブインへの到着予定日を知らせる通信をホノルル暗号解析班が傍受。フロリツラギ港に停泊していた第39護衛部隊に送信され、護衛駆逐艦ジョージラビー、イングランドからなる対潜掃討部隊派遣

5月19日アレクサンダーの北東140マイル水上航行中の伊16を哨戒機が発見し、対潜掃討部隊通報。現場に駆逐艦3隻が急行した。既に伊16は中へしていたが、13時35分にイングランドのソナーが捕捉。13時41分より5回に及ぶヘッジホッグ攻撃を行った。14時35分、水中で大爆発が発生。やがて面に破片や袋が入ったゴム容器等の残骸が浮かび上がり、その1時間後には小さな膜も現れた。これが伊16の最期であった。6月25日ソロモン諸島北方で亡失認定され、10月10日に除籍となった。

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伊16

1 ななしのよっしん
2021/08/23(月) 17:49:46 ID: qqGIzECp/f
あだ名はいいむ
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2 ななしのよっしん
2021/09/07(火) 17:49:09 ID: 0AWx0hynmX
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は?
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