中澤マイケル(なかざわ まいける)とは、DDTを主戦場とする塩HENTAI又は巨匠であり、
ヌルヌルに定評のあるDDT所属のプロレスラー兼フィットネスクラブ・ルネサンスのパーソナルトレーナーである。
本名は中澤公胤(なかざわ まさつぐ)。1975年10月8日生まれ、神奈川県川崎市出身。東海大学アメフト部監督の中澤一成氏を父に持つ。
身長180cm、体重90kg、血液型B型。
概要
DDT入門前は東海大学のアメフト部に所属しており、大学卒業後アメリカに留学しUSSA大学院でスポーツ科学修士課程を修了、米国NSCAのCPT(認定パーソナルトレーナー)、CSCS(認定ストレングス&コンディショニングスペシャリスト)の両資格を取得した本格派のスポーツエリートであり、団体屈指のインテリレスラーである。留学中は日本向けにWWEに関するコラムを書くアルバイトをしていたことがある。
帰国後、パーソナルトレーナーとして働いていた職場で客として出会ったプロレスファンの女性(現夫人)の気を引くためプロレスラーになることを決意、知人のオカマにDDTを紹介され、2005年春に入門、同年10月23日に高木省吾を相手に30歳でデビューを果たす。
ところが2007年1月、その前の月に行われた大晦日の総合格闘技界の騒動とやや被る時期にマイケルは急変。
松永智充とともに「ヌルヌルこそ最強」を合言葉をした「ヌルヌルブラザース」を結成し、4月にKO-Dタッグ王座を獲得してしまう。その防衛回数は4か月間で何と9度。全身にローションを塗ったレスラーの強さをアピールした。
2008年、ドン引きの試合内容から高木三四郎の反感を買い、DDTとの契約を破棄されフリーランスとなる。
この年にはパンクラスMISSIONの佐藤光留と「変態團」を結成したが、これも高木大社長の手において解散に。
その理由は度を超えた変態行為で没収試合ばかり引き起こした上に、
高木三四郎宛に「変態団を解散させない限り、DDTを見に行かない」という苦情のメールが
「リアルな数(高木三四郎・談)」で3通も届いたからだとか。
(後の2010年9月30日に変態團興行で一夜限りの復活。光留のDDT48総選挙第2位獲得に大きく貢献した。)
翌年の2009年、CEO決定戦を制し中澤”CEO”マイケルとなる。ちなみにこの年の契約も男色ディーノの契約阻止工作で妨害されたうえに、大社長のEXTREME級王座陥落を招いたこともあり破棄となった。
CEOに就任したのは良いものの会場からは「塩」コールが絶えず、DDTマットの改革と仕分けに乗り出すも反発を受けるだけでなく自らも仕分け対象になり、結局うやむやになるなどコレと言った結果は残せなかった。
この時からマイケルの路上プロレス参戦、ビアガーデンプロレスや両国国技館での肛門爆破など、より幅広い活躍を見せるようになる。
そして2010年。新春かくし芸プロレスでの中澤神社の御本尊出現、ヤゴウ公国との因縁。シットハート♡ファウンデーション結成に化身であるザ・グレート・ヘンタイの登場、アイスリボン出入り禁止と、マイケルの勢いは止まらない。
一方では新日本プロレスで盟友である飯伏幸太&ケニー・オメガのセコンド、通訳としても縦横無尽に自費で飛び回り、
その目立ち過ぎる容姿がIWGPジュニアタッグ獲得に大きく貢献したのは言うまでもない。
翌年の選手契約更改では高木大社長の娘さん、怜ちゃんの誕生日と重なっていたためめでたく?契約を果たすことができ、晴れて3年ぶりのDDT所属復帰を果たした。
2012年は前年末に佐藤光留と組んだ「ド変態團」を結成し、メジャー進出を目指し奮闘。その結果セコンドとして新日本、NOAH、全日本と全ての団体を制覇した上に、全日本プロレスのタッグリーグにケニー・オメガとのタッグで参戦。他にも佐藤光留が主催する総合格闘技・U系色の強いイベント「ハードヒット」にも参戦するなどしたが、いずれもイマイチな結果に終わった。その結果、4月29日のDDT小山大会において改名ランブルが実施され、「中澤マイケル」「小山イケル」「ボマイケル(対戦相手の高尾蒼馬の必殺技・ボマイェから)」「ばってん中澤(鶴見亜門GMと同郷の芸人レスラーばってん多摩川から)」などの候補が上がる中、高木三四郎社長が勝利したために社長発案の「ドン・マイケル」に改名することとなった。
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