今井宗久単語

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今井宗久いまい そうきゅう(1520年~1593年)とは、戦国時代商人人である。

概要

織田信長と歩みを共にしたの会合衆。本能寺の変の後は急速に存在感を減じた。実は彼の事績のほとんどが彼と子孫の物語るものであり、有名な割に本当かどうかわからないエピソードが多い。

商人だが、父親は全くの不明。出身の今井近江とも大和ともいわれており、確定していない。青年期にに出てきて、納屋宗次のに寄寓した。その後独立して火の生産に嚙みだし、納屋宗久や屋宗久とも言われたと伝わっている。

彼の全な史料上の所見は文20年(1551年)12月の『宗及記』である。一方で武野紹を習い、婿となっていく。この方面で頭を現し、会を何度も開いている。なお、治元年(1555年)に武野紹が亡くなると、その遺物をいくつか手に入れている。

今井宗久に言わせると三好実休松永久秀を利用して政商としてのし上がっていったようだが、彼が確実に頭を現したのは織田信長が上したのちである。それも、武野紹息子・武野宗瓦との遺産争いを有利に導くために織田信長に接近した気配があり、織田信長のおかげで全面的勝訴となった。

かくして恩を返すかのようにで抗戦を説得し、戦争を回避。そのお礼から山摂津内の蔵入地の代官に任じられたらしいが、確実なのはの代官である。この任はとても苦労したようだ。なお、この一方で生野山をはじめとした但経営をゆだねられたらしく、守護の山名氏と何やら争ったとのこと。

松井友閑も認めていたような人物だったが、やはり彼といえば織田信長頭だったことである。とにかく茶の湯をもって織田信長の歓心を買い続け、本能寺の変の前日も徳川家康ふるまっていた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に二千二石で仕えたが、千利休津田宗及の次に来るポジションであり、少しずつ存在感を失っていった。なお、子息の今井豊臣秀吉御伽衆である。

太閤立志伝Ⅴ

既にお亡くなりになっている1598年スタートの太の章以外のシナリオ(架シナリオ夢幻の章を除く)で、の町の商・納屋の当として登場。

準のパラメータを備えるが、どのシナリオでも商の当なので商人プレイするしかいのが玉に瑕。(PC版ならイベコンで転身イベントを導入することで他の職業も遊べる。)

おすすめプレイ納屋助左衛門シナリオでは上として様々なイベントに顔を出し、のれん分け後は宗久の高いと相まって高いとして立ちはだかることになる。

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