青木一重単語

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青木一重あおき かずしげ1551年~1628年)とは、戦国時代の武将である。

概要

豊臣に使える大坂七手組の番頭の一人。通称は民部少

土岐頼芸に仕えて以後あちこちを遍歴した青木重直の息子父親とともに今川氏真に仕えており、彼が徳川家康に追われた際、怪をして掛川居し、徳川家康臣となった。の戦いの際、柄十郎左衛門(いわゆる真柄直隆)かその子の十郎を討ち取ったらしいが、史料によって子のどちらかまちまちで、本人もよく覚えていないようだ(近年発見されたに関する文書によると、"十郎"はの直澄の可性もある)。

三方ヶ原の戦い以後も徳川家康に仕えるが、理由は不明だが離れ、日根野弘就日根野弥次右衛門婿となり、しばらく匿われたが、結局丹羽長秀に仕えた。

丹羽長秀の死後、豊臣秀吉臣となり、衣衆に編成された。以後、小田原攻めの際に一直末を挑発したため彼の死の遠因になったりもしている。なお、石田三成に嫉まれて小身のままでいたらしいが事実かは不明。

関ヶ原の戦いに際しては、増田長盛の軍勢とともに大和に出している。しかし以後も豊臣秀頼に仕えていった。ちなみに、『重直一重記』によると大坂七手組の番頭に欠員が出て、徳川家康推薦された彼が選ばれたとのことなので、初期メンバーではないようだが、の後任かは不明。『北川次郎兵衛筆』によると、大坂冬の陣の際に籠に反対した大坂七手組の暇乞いを豊臣秀頼が伝えた際、彼のみが高して退出し他の6人が説得して開戦に加わったようだ。

大坂七手組の中では大坂冬の陣のであちこち転戦したため、何かと出番が多い。しかし、豊臣秀頼の使者として常高院とともに徳川家康のもとに赴き、帰還する際板倉勝重にとらえられ、そのまま落まで拘束されてしまった。剃髪して宗佐を名乗り徳川家康に仕え、徳川秀忠御伽衆となった。以後、甥の青木重兼が養子となって麻田となり、実子の青木宗忠、青木俊之の系統は彼に仕えていた。なお、宗忠の妻は真田信繫のである。

ちなみに丹羽に伝わった孫六兼元は彼が真柄直隆を討ち取った際ののようだ。

信長の野望シリーズ

信長の野望」(PCシリーズにおける青木一重の力一覧。

討ち取った相手が討ち取った相手のため、他の頭に先んじて登場していた。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 56 智謀 53 政治 46 野望 53
蒼天録 統率 知略 政治
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治
戦国立志伝 統率 56 武勇 63 知略 41 政治 50
大志 統率 54 武勇 62 知略 44 内政 49 外政 43

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