南部信直(なんぶ のぶなお、1546~1599年)とは、戦国時代に活躍した武将・大名である。
概要
台頭と零落
1546年、南部氏一門で津軽地方の領主・石川高信の長男として生まれる。主君・南部晴政は老いても男児の実子に恵まれず、信頼する叔父の息子であった信直に自身の長女を娶らせて娘婿とし、養嗣子として迎え入れた。
智勇に優れた勇将でもあり、若い頃からその片鱗も見せている。国内統一の勢いを駆って南部領内に侵攻した安東愛季の軍勢に対して、迎撃軍の総大将を務めて見事に撃退するという戦果を挙げた。このため、養嗣子という微妙な立場ながら器量十分と判断され、北信愛など支持を表明する家臣も多かった。
しかし、1570年に晴政待望の長兄・南部晴継が誕生すると、これを嫡男に据えたいと願う晴政によって次第に疎まれるようになる。養嗣子としての立場を保障する証でもあった妻が早世した後、身の危険を感じて晴政との養子関係の手切れを自主的に願い出て、嫡男の立場を正式に晴継に譲り、南部本拠の三戸城からも退去した。しかし、それでも晴政の疑念は収まらず、一時は懇意の家臣に匿われて隠遁する羽目になったこともあった。
返り咲きと新たな難局
1582年、晴政が急死、間を置かず家督を継いだ晴継も嫡子無く早世する。
南部宗家の唐突な断絶というこの難事に、一族と家臣が総出で緊急招集され、次の当主を誰に据えるかという談議が為された結果、対立候補の九戸実親を抑えて信直が新たな当主として選ばれることとなった。しかし、この決定には九戸氏などの有力一族が反発し、大きな禍根を残すこととなる。当主となった信直は早速自身の地盤固めに腐心するも、反対勢力の筆頭が家中最大勢力の九戸氏であったことなどから直ぐには混乱を抑え切れなかった。
この隙を突かれる形で外患にも晒され、晴政の代に南部氏から圧迫を受けていた高水寺斯波氏が旧領奪還を目指して逆に侵攻してきた上、津軽地方では大浦為信(津軽為信)に謀反を起こされ、独立を許してしまう。為信は討伐軍が送れない信直を尻目に、手近な南部領を切り取って津軽地方を完全に制覇した。また、この時に信直の父・石川高信は為信に討たれて戦死したとされている。
豊臣秀吉への臣従と奥州仕置
何とか家中を纏めて体裁を整えることに成功した信直は、すぐさま高水寺斯波氏を攻め滅ぼして家中に実力を示すと同時に、天下を目前に捉えた豊臣秀吉に誼を通じ、予定されていた関東地方の後北条氏討伐への招集にも従うことを約束した。その後、津軽地方へも出兵するが、既に支配体制を確立して防備を整えていた津軽氏の抵抗は激しく、関東出兵の時期が迫っていたこともあって断念せざるを得なかった。
関東には千人の援兵を自ら率いて参陣、秀吉にもこの時に初めて謁見を果たし、正式に豊臣氏へ従属すると同時に、所領安堵の朱印状も受け取っている。この時、為信を謀反人として討伐する許可も得ようとしたが、そちらの方は上洛を果たしてまで先に誼を通じていた為信に関東参陣でも先を越されていたため、許されなかった。
父の仇である為信に対する信直の恨みは深く、その後もしきりに理由を変えて再び訴え出るなど、何とか為信の討伐を果たそうとしたが、それはついぞ叶えられることはなかった。為信と信直が顔を合わせないようにするよう、わざわざ豊臣方が取り計らうほどの必死さだったという。
その後に行われた天下統一事業の総仕上げである奥州仕置では、仕置軍の先鋒を務めて大いに勇戦した。
九戸政実の乱
その後、豊臣政権下での安全と保障を得た南部氏と信直であったが、ここに来て再び危機を迎える。信直の家督相続以来、混乱収束・奥州仕置後も変わることなく一貫して信直に反抗的な態度を示し続けていた同族の九戸氏当主・九戸政実が、ついに反乱を起こし挙兵したのである。
信直は直ちに討伐に乗り出すも、家督争いに端を発する内紛などに恩賞は期待できないと判断した家臣のほとんどが日和見を決め込んだため、思うように手勢が集まらなかった信直に対し、家中最大勢力であるがために単独で相当数の兵力を集めることが可能で、南部家中屈指の武門として精兵揃いだった政実軍に苦戦、自力での鎮圧は不可能と判断した信直は、秀吉に援軍を要請することを決意する。
これに対して秀吉は奥州の他地域でも反豊臣勢力が決起していたことを鑑み、これで今度こそ奥州の仕置を済ませてしまおうと、二度目の大規模な派兵を命じた。こうして大兵力の支援を得た信直は政実軍を圧倒、九戸氏を滅ぼして南部氏による陸奥支配を真に完全なものとすることに成功した。
また、この時も懲りずに豊臣方の有力者と顔を合わせたこと幸いとばかりに津軽為信討伐の許可を願い出るも、にべもなく却下されている。しかし、そのことが功を奏したのか、秀吉の気遣いで失われた津軽地方に代わる新たな代替地を恩賞として与えられており、嫡子・南部利直と共に上洛してまで謝辞を述べている。
最期
朝鮮出兵の際にも兵千人を自ら率いて参陣したが、この頃になると病を得ていたらしく、何をするにも苦労していたという。しかし、機を見ることにも長けていた信直は、秀吉死後にはいち早く家康に接近して協力を約束するなど、南部家の存続のために病身を圧して奔走し続けていた。
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