原市之進とは幕末の武士であり、徳川慶喜の股肱の臣の一人である。
概要
天保9年(1838年)水戸藩士・原十左衛門の次男に生まれる。諱は忠敬、後に忠成。
水戸藩校・弘道館で従兄の藤田東湖や『新論』で知られる会沢正志斎に学ぶ。
嘉永5年(1852年)、江戸に赴き翌嘉永6年(1853年)に昌平黌に入学。同年7月、長崎にロシア使節プチャーチンが来航した際、藤田東湖の指示により交渉役の川路聖謨らに随行して長崎に赴く。表向きは見聞を広める為ということだったが、交渉の監視役も担っていたと言われる。
安政2年(1855年)、水戸藩に戻り弘道館で勤める。翌安政3年(1856年)、私塾を開設し、水戸天狗党の藤田小四郎や桜田門外の変に参加した広岡子之次郎等を教育した。
安政5年(1858年)8月、朝廷から水戸藩に降下された戊午の密勅を巡って藩内で幕府へ返納するか否かで意見が分かれると原は諸藩への回覧を主張して活動。藩内尊攘激派の有力者として台頭する。
万延元年(1860年)から文久元年(1861年)にかけて取り交わされた水戸藩と長州藩の密約(水長の盟約)や、老中・安藤信正襲撃の謀議に加わる。
文久2年(1862年)、将軍後見職に就任した徳川慶喜に随従して上京。慶喜や平岡円四郎に影響を受け尊攘派から開国派へ転向し、元治元年(1864年)4月には水戸藩家臣から一橋家家臣となる。
同年6月に平岡が暗殺されると代わって慶喜の側近となり、諸藩や朝廷との交渉を担う。
慶応2年(1866年)、目付に任じられる。同年薩摩藩の小松帯刀らとの交渉で一時薩摩藩と融和関係を構築しかけたため、坂本龍馬や中岡慎太郎、木戸準一郎などから脅威の存在として警戒される。
慶応3年(1867年)、兵庫開港問題で開港に向けた工作活動を行っていたが、幕府内部の攘夷派から乱臣賊子と看做され、8月14日に身内であるはずの幕臣によって暗殺される。享年38歳。
平岡や原を失った慶喜は政治工作を任せる人材を欠くようになり、やがて鳥羽・伏見の戦いの敗北に至る。
なお、暗殺実行犯の素性や行動については『昔夢会筆記』の第十に詳細が記述されており、それによると暗殺を示唆したのは山岡鉄舟や高橋泥舟であったという。
関連項目
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