概要
文政8年(1825年)9月15日、前権中納言・堀河康親の次男に生まれる。幼名周丸(かねまる)。堀河家は家禄180石、藤原北家高倉流の支流で家格は羽林家(新家)に属す。
幼少期から才気煥発で、器を見込まれて天保9年(1838年)8月に岩倉具慶の実子という形で養嗣子となる。岩倉家は家禄150石、村上源氏久我流の支流で家格は堀河家同様羽林家(新家)に属す。
同年9月、周丸から具視へ改名。12月に元服して昇殿。翌天保10年(1839年)1月より朝廷に出仕。以後十数年間の記録がほとんど残されていないが、公家の邸が治外法権だったことを利用して博打打ちに貸し与えて収入を得ていたという逸話が残る。
嘉永6年(1853年)1月、岩倉は関白・鷹司政通の歌道の弟子として入門した。入門の動機として「外国船が頻繁に来航しているにも関わらず、海防の何たるかを知らず歌や蹴鞠を本職とする遊惰な公家の旧習を一新させたい」と朝廷改革を目指していたためだったと『岩倉公実記』にある。朝廷の実力者である鷹司に近づくことで改革の足がかりを得た岩倉は以後盛んに建言を行い、自身の大目標である王政復古に近づいていく。
幕末
黒船来航
嘉永6年(1853年)12月、関白・鷹司政通は公家に対し異国船往来について重大な事態であることを心得るようにと諭告を出した。これを受けて岩倉は「内政については幕府に委任しているが、対外問題については国体に関わることであるから間違いがあれば勅命をもって差し止める覚悟が必要である」と朝廷が主体的に国政に関わる必要性を説明し、学習院を改革して人材育成を行うべきであると説いた。岩倉の意見を聞いた鷹司は判断を保留したが、人に聞かせた話として
と言ったという逸話が残されている。
安政元年(1854年)3月、孝明天皇の侍従となる。この任官は鷹司の推輓によって孝明天皇自身が指名したものとされる。
八十八卿列参事件
安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が朝廷から条約調印の勅許を得るため川路聖謨と岩瀬忠震を連れて上京した。孝明天皇は拒否しようとしたが関白・九条尚忠は幕府との関係悪化を恐れ、開国もやむなしという認識で幕府に一任させる案文を作成していたが、3月に入ると反対派の運動が活発になり、まず議奏の久我建通が辞表を提出、次いで中山忠能、正親町三条実愛らが条約についてはなお話しあうべきであると上書を提出した。この動きに反応した太閤・鷹司政通は開国論を取下げ、孝明天皇も久我に反対運動を行うようにと命じた。岩倉は大原重徳と手を組み、久我、中山、正親町三条らに対し公卿列参によって勅答を阻止することを建議した。
「近日有志の堂上は朝議曖昧として叡旨貫徹し難しと聞き、皆義憤を懐けり。今ま此輩ら糾合し禁中に列参して一道の諫疏を上つり、衆心協同の力を以て勅答案の改作を請わば恐らくは殿下の心を動かすに足らん」
同意を得た岩倉は大原と二手に分かれて公卿達の説得に周り、3月12日に88人の公卿が抗議のために御所に列参した。九条に掛け合った岩倉は、幕府に一任するという案文を撤回するように訴え、翌日に撤回されることになった。
14日には早くも次の献策『神州万歳堅策』を孝明天皇に内奏した。この『神州万歳堅策』で岩倉は「和親不可」と一応当時の攘夷論に配慮しつつ、無謀な攘夷は「井の中の蛙」「無知の至極」と否定し、相手国の情勢を知るため「速やかに使節を立て」て各国視察を行いたい事をハリスに伝えて交渉を引き延ばし、その間に武備の充実に努めるべきであるとした。また幕府については徳川家の長久を望み、国内一致の為の公武合体を求めている一方、外様の有力大名については、公家との接触を警戒しそれらと手を結んで幕府に対抗するようなことはしてはならないとした。このように安政5年の時点では岩倉は朝主幕従の公武合体論を唱え、薩摩などの外様藩には期待していなかった。
同年8月、幕府への問責が書かれた戊午の密勅が下されると大老・井伊直弼による弾圧が開始され、朝廷にも手が及んだ。岩倉はこの安政の大獄には連座しなかったが、公家が弾圧を受けることを憂慮して伏見奉行や京都所司代にかけあい、公武間の対立が良くないことを説いた。この周旋自体はあまり意味をなさなかったが、後の和宮降嫁問題で幕府側の情報を知るための手蔓になった。
和宮降嫁運動
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が暗殺され、幕府の権威の衰弱が如実になった。幕府側では公武合体策で衰運を乗り切ろうと井伊存命時から話があった皇女和宮の降嫁実現に向けて動き始めた。岩倉も陰に陽に動いており、和宮と血縁関係のあった橋本実麗の邸を訪れて何か話し合った事が橋本の日記に残されている。孝明天皇は当初この話に非常に消極的で何度か拒否していたが、同年6月に岩倉を呼び出して諮問した際、
「関東の覇権は最早地に墜ち候て、昔の強盛にはこれ無く、井伊掃部頭は大老の重職に居り候て、自己の首領さへ保護仕り候難く、路頭に於て浪人の手に相授け申し候」
と指摘し、縁組の要請は幕府が自らの衰退を朝廷の威光で粉飾するためのものとし、この際幕府への大政委任を朝廷に御収復遊ばされるため恩を売っておくべきであり、通商条約の破棄、大きな問題は朝廷へお伺いをたてる事を約束をするなら縁組を認めてよいのではと建言した。この答えに孝明天皇は納得し、条約を日米和親条約にまで引き戻すなら和宮降嫁を認めるとした。
これを受けて幕府は、7月4日に老中連署で「7~10年以内には必ず条約を引き戻すか、もしくは攘夷を実行する」という、全く実行する気のない空手形を発行してしまい、自らの首を締めるはめになる。
文久元年(1861年)10月20日、岩倉は和宮一向に加わり江戸に向けて出発した。到着後。老中・安藤信正、久世広周と面会した岩倉は、幕府が和宮を人質に取って廃帝を企てているという噂があると問い質し、将軍・徳川家茂の自筆による謝罪状を要求した。安藤と久世は当初拒否したが岩倉が折れず、威圧的な態度で迫ったためやむなくこれに応じた。この件は幕閣に対して大きな動揺を与え、以後幕府は朝廷からの威嚇に右往左往し続けていく。
12月14日に江戸を発ち、24日に帰京。11月に実母が亡くなっていたため翌文久2年(1862年)2月まで喪に服す。
2月11日、孝明天皇から呼ばれて慰労の褒美を下賜された。天皇からも老中をねじ伏せた実力を認められ順風満帆であるかのように見えたが、この後思わぬ反動がやって来る。
雄藩への接近
文久2年(1862年)3月、島津久光の上京に向けて下準備を行うため薩摩藩士の堀次郎が上京した。堀が京都入りしたことを知った岩倉は堀を自邸に呼び、薩摩藩の趣意を聞き出した。その目的が朝廷を優先する公武合体策であることを知った岩倉は孝明天皇にこれを伝え、それまでの雄藩軽視を改めて薩摩藩を支持するようになった。
久光上京後の5月6日、大久保一蔵が岩倉を訪れて初対面し、江戸への勅使派遣を建白した。勅使は当初岩倉が公卿仲間から推薦されていたが、岩倉が固辞したため大原重徳が勅使に任命された。
勅使派遣に当たり、孝明天皇は岩倉、中山忠能、正親町三条実愛に対し幕府への要求について諮問した。この時に岩倉が提案したのが「三事策」と呼ばれる三つの策である。
- 幕府は速やかに将軍・徳川家茂を上洛させ、朝廷と攘夷について協議する。
- 豊臣氏の例に倣い、薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の沿海五大藩を五大老とし、国防・攘夷に当らせる。
- 徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老とする。
以上3つの策のうち1は長州藩の意向に沿ったもので、薩摩藩の独走を抑制するための岩倉の思惑でもあった。2は朝廷からの要求で、薩長以外の大藩を政局に引き込む狙いがあった。3は薩摩藩の要求で、特に3が幕府に対して強く要求された。
この三事策を持って大原と久光は5月22日に京都を発ち、6月7日に江戸に到着。松平春嶽の政事総裁職就任、徳川慶喜の将軍後見職就任を実現し、雄藩の幕政介入の端緒となった。
失脚
大原と久光が京都を発った後、長州藩が7月に長井雅楽の航海遠略策を破棄して破約攘夷論に180度転向した。また、8月には土佐藩から藩主・山内豊範を擁する土佐勤王党が上京。これらの勢力が三条実美、姉小路公知など尊攘派公卿と連携して盛んに攘夷論を主張し始めた。
このような状況の中、安政の大獄で志士捕縛に功績のあった人々が次々暗殺される事件が起こり、和宮降嫁に尽力した岩倉もその標的となった。このため7月24日、岩倉は正親町三条実愛、中山忠能と相談の上近習を辞任し、正親町三条と中山も翌25日に議奏を辞任した。
8月16日、今度は三条、姉小路ら尊攘派公卿から岩倉他数名(四奸二嬪)の者が京都所司代を通じて幕府におもねったという弾劾文が関白・近衛忠煕に提出された。これにより20日に岩倉、千種有文、富小路敬直の3人に蟄居・辞官・落飾が命じられ、久我建通にも25日に同様の処分が命じられた。
朝廷での居場所を完全に失った岩倉に対し更に追い討ちをかけるように、9月12日に「帝を呪詛毒殺しようと企てている噂があるため、数日中に洛中から去らねば天誅を加え首を四条河原に晒す」という内容の脅迫状が邸に投げ込まれた。止む無く潜伏する事に決めた岩倉は、9月13日からいくつかの寺を転々としていたが、26日に近衛関白から洛中住居差し止めを命じられ、10月8日に御所の東北にある岩倉村に移った。
以後慶応3年(1867年)12月までの5年間、岩倉は中央政局に直接には関われないまま地下活動を続ける羽目になった。
叢裡鳴虫
岩倉村で潜伏生活を送っていた岩倉だったが、文久3年(1863年)からは潜伏先にも激派浪士が現れ、見つかりそうになったため納屋に隠れて命拾いするなど、潜伏先でも暗殺の危機に遭っていた。
同年8月18日の政変以後は尊攘激派勢力が大幅に後退して浪士の探索も無くなったが、翌元治元年(1864年)までほとんど記録の残らない空白期間が続いた。
慶応元年(1865年)春頃、予てから懇意だった非蔵人の松尾相永と処士の藤井九成が岩倉の元を訪れた。松尾と藤井は柳の図子党と呼ばれた志士で、藤井の手記によると8月18日の政変以前から失脚した岩倉に同情して政局の情報を密かに送っていたとされる。この2人の周旋で、かつて岩倉に敵意を持っていた人々がその政治活動に協力するようになり、本格的な地下活動が開始されていった。
岩倉は政局を見極めるため松尾、藤井らを使って中央政局や薩長の動向に関する情報収集に努め、秋頃に薩摩藩士の井上石見が訪れると、小松帯刀と大久保一蔵に宛てた書状を与えて周旋を願った。この書状は『叢裡鳴虫』(そうりめいちゅう)と呼ばれ、文久2年(1862年)の『三事策』を敷衍したものである。
この中で岩倉は「確固不抜の廟議を定めて天下の人心を収攬する」ため、和宮を江戸より二条城に迎えて将軍と共に住まわせ、日々参朝して帝に拝謁し、「君臣の間水魚の如く」交わらせ、「政令は内外を論ぜず大事は具状して宸裁を仰ぎ、万機一途に出でしむべし」とする。そして
「国是を議定するには朝廷まず幕府と施政の大綱を起案し、しかる後に諸藩主を京師に召集し勅使を以て忌憚なく是非得失を審(つまびら)かにして答議を上奏すべしと命じ、(中略)宸裁を経て以て天下に布告すべし」
と書いた。
次いで岩倉は『続叢裡鳴虫』を執筆し、これも小松、大久保に送付した。薩摩藩を勤王藩の首唱であるとし、長州藩の処分について寛大な態度を取っていることを評価して、朝廷政治を改革するために関白・二条斉敬と内大臣・近衛忠房の提携に尽力して欲しいとした。これは中御門経之を通して二条関白にも伝達された。
その他『全国合同策』『堂上諸卿を誡むる意見書』などを執筆し、朝廷政治の一貫性の無さ、主体性の無さを強く批判して、朝廷が主体性を持って幕府や諸藩を指揮しなければならないと朝廷、薩摩藩に働きかけ、孝明天皇への密奏も行ったがいずれも芳しい反応が無かった。
12月頃、廟儀にて岩倉、九条尚忠、久我建通らの赦免が議題に上がったが、尹宮朝彦親王が「岩倉は薩摩と共謀して何かしようとしている」として反対したため沙汰止みとなった。この件で岩倉は一旦薩摩藩との接触を絶ち、朝彦親王に対して強い対立意識を持つことになった。
二十二卿列参事件
慶応2年(1866年)5月、岩倉は柳の図子党を手足に再び情報収集を始めた。この時期の岩倉は一橋家の用人を呼び出し、徳川慶喜と薩摩藩の和解の周旋を請われている。岩倉もこの案に乗り気であったが、「少々子細これあり、大久保(一蔵)などには只今示談申し難く」と言い、あくまでも朝廷側から主体的に諸問題解決の発議をするとした。
7月20日、将軍・徳川家茂が病死し、第二次長州征伐も幕軍の敗退が続いた。この状況を朝廷改革の好機到来と見た岩倉は、8月朝廷に『天下一新策』を密奏し、薩摩藩の建白した長州再征反対と諸侯召集に賛同し、朝廷がこの建白を採用しなかったことを批判した。そして朝命こそが至上であり、
「方今天下の衆評姦佞と唱え、これを擯斥せんと欲する者は、朝廷に於ては尹宮(朝彦親王)、幕府に於ては一橋中納言(徳川慶喜)、会津中将(松平容保)に候」
と、尹宮朝彦親王、徳川慶喜、松平容保の3人を名指しで批判した。
この時期朝彦親王や関白・二条斉敬など朝廷の主流派であった佐幕派に対抗しようという動きが下級公卿の間に起こり、岩倉もこれを支持して安政5年(1858年)の列参運動を再び起こそうという機運が生まれた。同志の公卿たちとの調整や、薩摩藩の不同意があったため岩倉が説得し、8月30日に大原重徳、中御門経之ら22人の公卿が朝廷の人事改革、長州征伐の解兵の勅宣、岩倉ら蟄居中の公卿の赦免、諸藩召集の上表文を持って参内した。これを知った孝明天皇は激怒し、逆に22人全員に対し蟄居、謹慎などの処分を行った。
このように、潜伏生活中の岩倉は公武合体論を段階的に縮小させ、持論だった王政復古論を深化させていったが、朝廷へ働きかけるだけでは無理があり、改めて薩摩藩の力を借りる必要性を感じていた。一方薩摩藩の側でも佐幕派公卿や慶喜に押され気味で、朝廷を仕切る事ができる人材を求めていた。大久保が岩倉と再び交渉を持ったのはこの頃とされ、以後岩倉は薩摩藩との連携を深めていく。
孝明天皇崩御
11月に入ると幕府側に列参運動の首謀者が岩倉であったことが知られ、護衛と称して監視が付けられることになった。監視状況の中、岩倉はなお朝廷に働きかけを行ない、薩摩藩は徳川慶喜の将軍就任を阻止すべく朝廷で活動を続けていたが、12月5日に慶喜への将軍宣下があり、徳川幕府第15代将軍に任命された。
ところがこの直後の12日に孝明天皇が風邪気味となり、翌日には痘瘡(天然痘)であることが分かった。23日から24日頃まで高熱が続き一旦快方に向かったように見えたが、24日夜から容態が悪化。25日の午後11時頃に崩御した。
「今朝に至り主上御容態以ての外にあらせられ、仰天驚愕、実に言うところを知らず」
「臣においては進退ここに極まり血泣鳴号」
「臣の一身においても吾事終われり」
「真に樵夫(しょうふ:きこりの事)となるに決し候」
と落胆した。きこりになって隠退しようとまで思いつめたが踏み止まり、翌慶応3年(1867年)正月には王政復古に向けた政治活動を再開した。
なお、孝明天皇の死因について長く議論されるところで、岩倉が配下を使って毒殺したという説がある。毒殺説自体は崩御直後からあったが、実際に議論されるようになったのは第二次世界大戦後で、昭和29年(1954年)にねずまさしが発表後議論されるようになった。その後石井孝が急性砒素中毒特有の症状による死で、毒殺されたと主張。孝明天皇の主治医であった伊良子光順の子孫も当時の日記を公開して毒殺説を主張した。このような過程で歴史学界では一時毒殺説を有力視する学者が多かったが、原口清が平成元年(1989年)から平成2年(1990年)にかけて発表した論文で、病理学的に見て致死率の高い出血性痘瘡であると発表し、病死であるとした。その後石井と原口との間で何度か論争があったものの、この一連の論文によって病死説が有力視されるようになり、現在では病死説を採用する学者が多い。また、岩倉の研究で知られる大久保利謙や佐々木克は、岩倉の政治的立場や心境からもそのような事をするとは考えにくいと主張している。なお、伊藤博文が天皇を刺殺したといった説もあるが、学術的には論じるに値せず珍説の域を出ない。
討幕の密勅
慶応3年(1867年)1月9日、睦仁親王が践祚した。践祚に伴い15日と25日に大赦があり、8月18日の政変と禁門の変に関わった公卿達が赦免された。だが岩倉や二十二卿列参に関わった公卿達は依然として罪を被ったままであった。自身の赦免がされず焦りを感じた岩倉は幕府との協調路線も再考したが、3月29日に漸く入洛許可と月一回の帰宅許可が下りた。
4月21日、太宰府に居た三条実美からの書状を持って中岡慎太郎が岩倉村を訪れた。三条は岩倉を失脚させた張本人の1人だったが考えを改めて岩倉と連絡を取り合おうとしていた。岩倉も異論はなく、以後三条との交流が始まる。また、この時に知り合った中岡とも親しくなり、6月には中岡に連れてこられた坂本龍馬とも時勢について話し合った。
5月に入り、将軍・徳川慶喜と四賢侯(島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂)が四侯会議を開き、国政について協議したが、慶喜の強引な立ち回りに翻弄されて会議は空中分解した。中御門経之は慶喜の態度を「実に言語に絶し候次第」とし、
と檄文で岩倉へ協力を要請した。この後岩倉は中御門、そしてかつて手を組んでいたが蟄居後交流の途絶えていた中山忠能、正親町三条実愛と連携していく。
10月6日、大久保一蔵が長州藩士・品川弥二郎を伴い岩倉村を訪れた。この時大久保は岩倉から「秘中の話」を聞き、太政官の職制案や錦旗の図案を見せられその作成を依頼された。岩倉と初めて面会した品川は岩倉について
初め自分は岩倉の身体が矮小で風采が上がらないのを見ておもったことには、大久保がこのような人物と結んで天下の大事を謀ろうとするようなことはその平生に徴してはなはだ不似合いなことである、岩倉卿のために誤られたのではないだろうか、と心ひそかに憂慮した。しかるにその後、大変革に関する趣意および着手の順序方法等をこまかに示されるにおよんで、はじめて岩倉公の深謀遠慮なのに敬服した。
と回想している。
この後岩倉の書記を務めていた国学者の玉松操が起草した『討幕の密勅』が下されることになり、まず10月13日に岩倉が大久保と長州藩士・広沢真臣を呼び出して、長州藩主父子の赦免、官位復旧、上京を命じる非正規の沙汰書を広沢に渡し、密勅が明日正親町三条実愛から渡されることを伝えた。そして翌14日、正親町三条の邸にて大久保と広沢に密勅が渡された。(記載された日付は薩摩が13日、長州が14日)
詔す。源慶喜、累世の威を藉り、闔族の強を恃み、妄りに忠良を賊害し、数王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑に擠して顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。朕今民の父母たり、是のにして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報ぜんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇にして顧みざるは、万巳むべからざるなり。汝宜しく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し、以て速かに回天の偉勲を奏して、生霊を山岳の安きに措け、此れ朕の願、敢て惑懈すること無かれ
奉
「賊臣慶喜を殄戮(殺し尽くす)」とあるように極めて過激な内容で、当時はごく一部の関係者以外には知られておらず、実物の写真が公表されたのは関係者が全て世を去った昭和11年(1936年)出版の『維新資料集成』であった。
明治半ば、関わった公卿のうち唯一存命していた正親町三条はこの密勅の件について聞かれた際、
「自分と中御門が計らった」
「中山は名だけで岩倉が骨を折った」
「あれは綸旨と言っていい」
「(摂政や親王と協議したか聞かれ)いや、内々で」
「自分たち3人の他には岩倉しか知らない」
「密勅を出したのは、あれがないと方針が定まらないと言われたから」
と答えている。
この日徳川慶喜が大政奉還を発表し、翌15日には朝廷に受理された。大久保、西郷隆盛、小松帯刀の3人は藩論を統一するため密勅を持って17日に鹿児島に向けて出発した。大政奉還があったため討幕の密勅は21日に沙汰止みが出されたが、鹿児島に戻った大久保らは密勅をテコに島津久光ら藩首脳陣に出兵を認めさせた。
11月8日、岩倉は洛中居住が許された。15日には大久保が京都に到着し、翌16日岩倉を訪れる。24日には大久保に『王政復古の大号令』及び新政府の組織の草案を見せている。折しも新体制は引き続き慶喜と摂政・二条斉敬が中心となる案が浮上しており、これをそのまま受け入れる気のない岩倉と大久保は政変決行の覚悟を決めた。
政変決行について大久保が中山忠能と正親町三条実愛を説得して了解を得、12月2日に土佐藩士・後藤象二郎に対しても大久保と西郷によって説明がなされた。後藤は同意し、8日に決行と決まったが、山内容堂が遅れるため10日に伸ばして欲しいと伝えてきたため、妥協して9日と決まった。
この間後藤から松平春嶽に通報があり、春嶽を通じて慶喜にも伝わっていたが、慶喜は新政府創設は妥当な事だと言ってあえて邪魔はしなかった。この時点ではまだ政権参加の望みが失われていなかったため、一歩引いての様子見だったのではないかとされる。
8日、岩倉は薩摩・土佐・尾張・福井・芸州各藩の重臣を招き、明日王政復古があるので各藩主は参内し、藩兵は御所を守衛させるようにと通達した。この日は夜通しで朝議が開かれており、二条摂政、朝彦親王、中山、正親町三条、松平春嶽、徳川慶勝などが参加。9日午前深夜2時頃に尾張藩兵が誤って御所に入ってしまい、二条摂政に気づかれたが尾張藩側の釈明でその場は収まった。長州藩主父子の赦免と官位復旧、岩倉や三条実美などの赦免と参内許可が決定された。
9日午前、朝議が終わり、二条摂政や朝彦親王は御所を出たが、中山や正親町三条ら政変に参加する人々はそのまま残った。朝廷からの呼出を受けた岩倉は坊主頭のまま衣冠を身に付け、王政復古の文書を小函に入れて参内。その後西郷率いる諸藩兵が御所九門を封鎖。大久保らが御所に入った。
文久2年(1862年)の失脚から5年を経て、岩倉が再び歴史の表舞台に登場した。
王政復古・小御所会議
参内した岩倉は、中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛と共に明治天皇の御前にて王政復古を上奏した。次いで明治天皇が御学問所にて諸親王、諸侯に対して旧来の朝廷、幕府以下の全ての制度を廃し、総裁・議定・参与三職を新たに設置して役職の任命を行った。次に小御所に移り、新体制発足後最初の会議が始まった。
初めに中山が徳川慶喜の大政奉還について疑義を述べ、これまでの失政に対する謝罪の証が必要であると発言すると、山内容堂が大声で「この会議に慶喜公を参加させよ」「大政奉還は朝廷への忠誠心からのもので、二三の公卿はいかなる理由で慶喜公を除外する陰険な策を弄するか」「恐らく幼沖の天子を擁して権力を得ようとしているのであろう」と言い放った。これに岩倉は「今日の挙は全て宸断によって行われたものである。幼沖の天子とは無礼であろう。言葉を慎め」と反撃。そのまま舌戦が始まり、岩倉・大久保と容堂・後藤象二郎の鍔迫り合いとなった。
岩倉と大久保は謝罪と辞官納地を行わなければ慶喜は新政府に参加させないとし、これに容堂、後藤が強く反対した。休憩に入ると、西郷が「短刀一本あれば片付く」と言い、それを聞いた岩倉は「我一呼吸の間に決せん」と覚悟を示した。この発言が回りまわって容堂に伝わり、この場で抵抗することは不利と判断して抗弁しなくなったとされているが、小御所会議の逸話は伝聞が多いため本当にそのような話し合いがあったのかどうかは実際には良く分かっていない。
結局慶喜へ辞官納地を要求することが決まり、春嶽と徳川慶勝が使者として伝えに行った。この決定に旧幕府方の将兵は激昂し、このままだと京都で軍事衝突が起こると判断した慶喜は12日に将兵を連れて二条城から退去し、大坂城に移った。
新政府内部では辞官納地に関して反対論が根強く、容堂と春嶽が特に強く反対した。在京諸藩からも反対論が続出したため、23日と24日の政府会議において「領地指上(返上)」という文言を削除し、「調査後に天下の公論を以て確定」とする所まで後退し、岩倉も妥協せざるを得なくなった。
一方慶喜は16日に外国公使を引見して、王政復古の政変を「兇暴の所業」と看做して「外交権は引き続き自らにある」と宣言した。また18日には薩摩藩に対する弾劾文を熾仁親王に送ったが、これは「文字激越」と判断した岩倉により握りつぶされている。26日、春嶽と慶勝は辞官納地については天下の公論を以て行ない、負担も徳川だけでなく諸藩も相応に負うことを伝えた。
翌慶応4年(1868年)1月1日、岩倉は福井藩士・中根雪江に対し、慶喜が兵を率いずに上京して、謝罪の上辞官納地を上奏するなら議定として新政府に参加させると伝えた。だが2日夕方、旧幕軍が京都へ向けて進軍し、入京の許可を求めてきたため、旧幕軍に入京されれば新政府の瓦解につながると危機感を持った大久保は3日岩倉に対して即時開戦を求めた。悩んだ岩倉は政府会議を開くが、ここでも春嶽が錦旗節刀と征討布告に反対した。
会議が空転し続ける中、西郷が勝利の知らせをもたらすと状況が一変し、武力倒幕派の発言力が増した。岩倉はすかさず決断し、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命、錦旗節刀を賜り4日に進軍を開始した。
敗戦の知らせに動揺した慶喜は6日、将兵を激励する演説を一席ぶった後、夜間に板倉勝静、松平容保・定敬らを連れて大坂城を脱出。軍艦開陽丸に乗って江戸に逃亡してしまった。
7日、岩倉はなおも慶喜復権にこだわって裏面工作を続けていた容堂のもとを訪れ
「徳川氏朝敵と名をお下しにて御布告の御相談、もちろんこれまでのご形跡には朝敵逃れがたし」
(『維新土佐勤王史』)「かくても朝旨に御不心得とならば、速やかに下坂ありて慶喜と進退を共にせらるべし。決して御恨みは申すまじ。ただ今までの如くの御挙動にては甚だ相済まざる次第なり」
(『鯨海酔侯』)
と宣告した。他の在京諸藩に対しても徳川慶喜追討令を布告し、「朝命を奉ずるか、帰国するか、大坂に行って慶喜の味方をするか、いずれも勝手次第」と啖呵を切った。諸藩は次々と恭順の意を示し、漸く新政府が政治的な正当性を得るに至った。
明治時代
東京行幸
慶応4年(1868年)1月9日、岩倉と三条実美(前年12月27日に帰京)が議定兼副総裁に任命され、政府の実権を握った。
18日、大久保利通が岩倉に会い、「因循の腐臭」に満ちた御所から天皇を引き離すため、大阪へ遷都する必要があると告げた。政府会議でも大阪遷都は議題に上がったが、反対意見が強かったため実現しなかった。代わりに大阪行幸が計画され、3月21日から2ヶ月ほどかけて天皇の大阪行幸が行われた。
閏4月21日、政府において太政官が創設され、新たに議政官・行政官・会計官・刑法官・軍務官・外国官・神祗官の各省庁が設置された。岩倉は行政官輔相に就任し、行政の監督を司った。
6月11日、岩倉は木戸孝允の邸を訪れ、江戸への行幸について相談した。そして27日に三条、木戸、大木喬任、大久保利通、大村益次郎らとの会議にて、江戸を新たに「東京」と称する事と、天皇の行幸が決定された。7月17日、「江戸を称して東京と為すの詔書」が出され、東京奠都が宣言され、8月4日、東京への行幸が行われる事を布告した。
9月8日、明治に改元。20日に3000人余りの供を連れた東京行幸が行われ、岩倉や木戸も同行した。木戸の記録によると沿道に数十万の群衆が群がり帝の行列を見学していた。新しい時代の象徴として明治天皇を庶民に周知させ、東京遷都を視野に入れた岩倉と三条の政略であった。
東京到着後、一旦京都へ還幸するが、明治2年(1869年)3月28日に再度東京へ行幸。これをもって事実上の東京遷都となった。
続く
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