古代ローマとは、一般的には紀元前から紀元後476年(ごろ)にかけて、主にイタリアのローマを中心として存在した一連の国家、ならびにその時代・地域を指す言葉である。
詳しい説明については「ローマ帝国」などの記事に掲載されているので、当記事では「王政ローマ」から「西ローマ帝国」に至る歴史を簡潔に述べる。
概要
王政ローマ(前753年?-前509年)
伝説上の王であるロムルスによって紀元前753年に建てられたとされる都市国家。王は世襲ではなく有力者の中から選ばれていた。民の身分は貴族(パトリキ)と平民(プレブス)に分かれていたほか、統治機関として元老院があり、これらは西ローマ帝国に至るまで引き継がれている。
5代目の王(タルクィニウス・プリスクス)はローマ北方にいたエトルリア人であり、ローマの湿地帯の干拓事業に力を尽くし、後のローマの発展の礎を築いた。しかし、その息子または孫で7代目の王(タルクィニウス・スペルブス)は先代の王に関わった元老院議員を殺害し、恐怖政治を行った。これに対して貴族の一人で後の初代執政官(ユニウス・ブルートゥス)が反乱を起こし、王は追放された。
ただし、王政ローマについては史料が少なく伝説的な要素も含まれるため、異説も見られる。例えば、7代目のスペルブス王については「複数の王を1人に集約したもの」という見方もある。
共和政ローマ(前509年-前27年)
エトルリア人の王が追放されたあとに成立した共和政の国家。周辺地域の征服によりイタリア半島を統一し、さらにはポエニ戦争などを経て地中海沿岸を領土とする大国家となった。一方で、国内の格差の拡大や、グラックス兄弟の反乱・剣闘士スパルタクスの反乱・同盟市戦争・アクティウム海戦…など、内乱や内戦にも悩まされる時期が多かった。
「ブルートゥスよ、お前もか」という台詞で有名な(実際に言ったかどうかは異論がある)カエサルはこの時代の末期の人物である。強大な権力で国を統治し、後のローマ帝国の基礎を作った人物とされている。
詳しい内容については、「ローマ帝国」の記事内に概略として掲載されている「共和政期」の項目を参照。
ローマ帝国/帝政ローマ(前27年-後395年)
アウグストゥス(オクタウィアヌス)から始まった皇帝がいる時代のローマと、その影響圏。実質的には帝政であるが名目上は共和制政国家である。トラヤヌス帝の時代に領土が最大となり、今のイギリス・フランス・スペイン・ルーマニア・トルコ・イスラエル・エジプト・モロッコなどにまたがる範囲を治めた。首都ローマでは1000を超える公衆浴場が造られたほか、食料(小麦粉)と闘技場等での娯楽が無料で提供され、「パンとサーカスの都」と呼ばれるほど繁栄した。
しかし、領土が広大すぎるために後半に入ると複数の皇帝による統治(テトラルキア)が行われた。また、北方からのゲルマン人の侵入にも悩まされた。コンスタンティヌス帝の時期には皇帝1人の政治に戻されるも、395年には「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」に分裂した(ただし、当時は分割統治という扱いで、別の国という意識はなかった)。
次第に領内ではキリスト教が広く信仰されるようになっていた。ネロ帝やディオクレティアヌス帝などによるキリスト教徒迫害が行われたものの、コンスタンティヌス帝の時代には公認され、さらにはテオドシウス帝の時に国教とされている。
詳しい内容については「ローマ帝国」の記事を参照。
西ローマ帝国(395年-5世紀ごろ)
395年以降のローマ帝国の西側。この時期には既にヴァンダル人などのゲルマン人に領土を奪われており、衰退の一途を辿っていた。領土内では徐々に教皇や将軍の権力が増大し、皇帝の権力は弱まっていった。
ついには476年、傭兵隊長のオドアケルが、「配下へのイタリアの土地の3分の1を与える約束」を断られたことをきっかけに将軍(フラウィウス・オレステス)を倒し、ついには皇帝(ロムルス・アウグストゥルス)を退位させて帝章を東ローマ皇帝に返上した。
これによりオドアケルがイタリアの領主とされた。オドアケルの統治には名目上の皇帝(ユリウス・ネポス)が伴っていたものの、480年にはその皇帝も暗殺され、西ローマに皇帝はいなくなった。
なお、オドアケルもしばらくは東ローマの皇帝と協力してローマの復興に努めたが、後に皇帝と対立してしまった。そして皇帝の命を受けたゴート人のテオドリックに攻め込まれ、493年に降伏後の宴の席で暗殺されている。
詳しい内容については「西ローマ帝国」の記事を参照。なお、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルを中心に15世紀まで続いているが、古代ローマとはされない中世の時期も含んでいる。
いつまで古代ローマか(西ローマの"滅亡"と関連して)
一般的には、前述の西ローマ皇帝廃位事件がヨーロッパにおける古代と中世の境界とされており、西ローマ帝国の”滅亡”や古代ローマの終焉もこのタイミングとされることが多い。中学・高校レベルであれば、現在の多くの教科書では「オドアケルの王国」が建てられた「476年」とされており、一部ではネポス帝が暗殺された「480年」とも言われる。
しかし、より専門的なレベルになると「都市ローマでの執政官や元老院などの仕組みは476年以降も維持されていたため、"滅亡"を476年/480年とするのは適切ではない」「"滅亡"といえる年は存在しない」とする意見もある。実際、オドアケルも執政官や元老院の権威を復興させて政治を行っているし、なんならロムルスやユリウス・ネポスの後には東の皇帝によって東ゴート王テオドリックやフランク王クローヴィスらが西の皇帝に任命されてさえいるのである[1]。
ただ、6世紀になると都市ローマは東ローマ帝国と東ゴート王国の戦争により大きく荒廃している。ローマの執政官の位も、戦争を進めたユスティニアヌス帝により廃されており、元老院も同時期に一部の権力をローマ教皇庁に移され弱体化した。
都市ローマの元老院が組織的な政治活動を行った最後の記録は7世紀初頭となっている。そのため、遅くともそれ以降のローマを指して「古代ローマ」と呼ぶことはあまり無いと思われる。東ローマ側でもこの時期から、食料配給や公衆浴場など、古代ローマ的な文化が消えていくことになる。
関連動画
関連静画
関連項目
脚注
- *オドアケルから東帝ゼノンへ返上された西の帝章はゼノンの後継者アナスタシウス1世によって西ローマのテオドリックへ返還されている。テオドリックは一般にカエサル(副帝)とされるが元老院が残した当時の記録ではアウグストゥス(正帝)ともされており、テオドリックの西ローマ皇帝としての側面に焦点を当てた研究や論文も少なくない。クローヴィスについては普通にアウグストゥスであり、東の都コンスタンティノープルではクローヴィス帝の即位や勝利を祝福する金貨が大量に鋳造され今に伝わっている。後世の歴史物語がネポスやテオドリックらを無視してロムルス・アウグストゥルス個人の失脚という当時は全く注目されていなかった小さな出来事を西ローマ帝国の”滅亡”とした理由の一つには、単に「ローマの歴史はロムルスに始まりロムルスに終わる」と書けるとドラマチックだからという演出上の理由もあったと思われる。
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