夜のヒットスタジオとは、昭和を代表する伝説の歌番組である。通称「夜ヒット」「ヒットスタジオ」。
概要
「ザ・ベストテン」(TBSテレビ)と並ぶ、テレビの歌番組における最高峰のひとつ。
1968年、フジテレビ系で放送開始。初代司会は芳村真理と前田武彦。
編成の都合上穴の開いてしまった月曜夜22時という時間に差し込まれたつなぎ番組として始まり、番組スタッフや関係者以外にはまったく期待されていなかった。当時の22時台はまだ深夜に近いイメージが残っており、現在で言うところの23時~24時台の番組のような扱いであった。番組開始当初のネット局はフジテレビ、東海テレビ、関西テレビ、テレビ西日本のわずか4局ネットで、当時としても時代遅れのモノクロ放送でのスタートである。
当初は歌謡バラエティ番組と位置づけられた。それまで歌番組と言えば歌謡ショーの延長的な存在だった時代に、バラエティ番組的な要素の強いテレビならではの、「歌謡ドラマ」や「コンピューター恋人選び」などの演出を行い、歌手の人間としての素顔を見せることに成功。一躍人気番組の仲間入りをする。
番組名物であったオープニングの出演歌手による他人の歌メドレーはこの頃から存在している。
しかし、最初の人気絶頂期に番組を揺るがす事件が起こる。
前田武彦が共産党から立候補した候補者の選挙応援演説において、「彼が当選したらテレビ番組で万歳三唱する」と公言。この候補が当選したため、生放送番組であった夜ヒットで「共産党バンザイ!」とアドリブで万歳三唱を実行した。これが当時のフジテレビ社長(反共主義者)の逆鱗に触れ、前田は強制降板させられることに。これを契機に、当時人気司会者であった前田は他の番組からも干されることなり、しばらくテレビから消えてしまう事態になった。
この「共産党バンザイ事件」から夜ヒットもしばらくの間迷走をする。1970年代半ばにようやく芳村真理を軸にした番組として落ち着きを取り戻し、フレンドリーながらも本格的な歌謡番組に変貌していった。
アイドルや歌謡曲系の歌手以外にもロックやフォーク系のミュージシャン、外国人ミュージシャンも多く出演するようになり、また中期以降は出演歌手を7~8組程度に絞る代わりにフルコーラス歌唱を原則とするなど(テレビの音楽番組は都合2コーラス目を省略することが多い)、ヒットチャートを主軸にした「ベストテン」とは一線を画す音楽番組として1970年代~1980年代に再び人気を博し、1985年からは水曜夜9時からのゴールデンタイム2時間枠の大型歌番組にリニューアルされた。
前田武彦降板以降、男性司会者は三波伸介、井上順、古舘伊知郎と変わり続けたが、女性司会者は芳村真理にほぼ固定され、「夜ヒット=芳村真理の番組」として広く認知された。
1988年、番組放送1000回記念特番をもって、開始以来から司会者として番組の顔であり続けた芳村真理が勇退。
その頃から徐々に番組の迷走が始まる。古館が以降番組の顔となり、柴俊夫や加賀まりこも起用されたが、「真理さんだから出ていた」という歌手やアーティストが徐々に出演しなくなり、89年秋には再びプライムタイム枠のみの1時間番組に縮小。度重なるリニューアルの弊害で次第に番組の権威が失墜していった。特に出演者に対して暴言を連発する加賀まりこの司会ぶりには視聴者からの抗議も多数寄せられ、より一層の視聴者離れを引き起こしてしまった。
またヒットチャートの劇的な変遷(ロックの急伸、演歌の急落)に代表されるように子供からお年寄りまで歌える歌謡曲が衰退し、それぞれの世代によってそれぞれの歌が存在する多様化の時代に突入したことで、一つの番組ですべての世代をカバーしようとした同番組のコンセプトが受け入れられにくくなっていった。その対策として番組は演歌やロックなど特定ジャンルに絞った派生番組を誕生させるが、どれも短命に終わっている。
派生番組のひとつであるヒットスタジオR&Nにて、忌野清志郎(覆面バンドタイマーズとして出演)が引き起こした事件はあまりにも有名である。自分たちの曲を流すことを拒否したFM東京を非難し、放送禁止用語を連呼する歌唱をしたことで大問題となった。
1990年に22年に及ぶ長い歴史に幕を閉じた。現在でもフジテレビにおける重要な映像資産として同番組の映像が使用されている。
関連動画
関連項目
- 広瀬健次郎(番組初期~中期のテーマ曲を作曲)
- スターどっきり(秘)報告(2代目男性司会者の三波伸介が番組降板と同時に代替番組として与えられたのが発端)
- とくダネ!(パロディコーナー「朝のヒットスタジオ」がある)
- ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! (パロディ企画「夜の口ぱくヒットスタジオ」がある)
- テレビ番組の一覧
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