1970年代とは、1970年から1979年のこと、またその時期を代表する事柄である。
概要
ある時代が終わり、次代の始まりを見せる時代である。世界的に見ても、冷戦が米ソデタントを見せる、第二次世界大戦後の世界経済成長がオイルショックにより終わりを告げ、環境問題の時代を見せる、アメリカの軍事力がベトナム戦争で限界を見せたり、中華人民共和国が代表権を得る、イラン革命、朴正熙暗殺など多極化の萌芽を見せる、ニクソン・ショックによりアメリカのドル支配に陰りを見せる、コンピュータの世界にアップルコンピュータを始めとしたパーソナルコンピューターが登場するなどがある。日本では高度経済成長期が終わり安定成長期に移行した時期にあたる。戦後からポスト戦後へと日本を始め世界が少しずつだが動き始めていた。
それぞれの年の記事も参照。1970年 - 1971年 - 1972年 - 1973年 - 1974年 - 1975年 - 1976年 - 1977年 - 1978年 - 1979年。
日本における1970年代
政治面
政治面では、1960年代はまだ中国、東南アジア、キューバ危機と世界が政治の季節である中日本は1960年の安保闘争以後、政治の季節といえるほど大衆的な政治運動は盛り上がりを欠いていた。基本的に日本は池田勇人=所得倍増計画=高度経済成長の時代であった。労働運動も60年代には早々と労使協調路線を取り、政治運動からは引き始めている。ただし、日本共産党など既存の左翼政党に反感を持っていた1948年成立の全日本学生自治会総連合(通称:全学連)を始めとした新左翼達は、分裂を繰り返しながらも政治的象徴主義の下で街頭行動主義を繰り返していた。
70年代で象徴的な政治運動は日米安全保障条約とベトナム戦争への反対運動、環境問題、そしてウーマン・リブである。一方で同時代は消費主義、科学文明への期待など明るい希望の中で生まれた世代でもあり、反面しらけ世代と揶揄されながらも、後に文化的に担う人物たちが青春時代を過ごしてもいる。政治主義を取る側の若者たちは、ベトナム戦争の北ベトナム兵士や中国の文化大革命に心情的共感をしていた。但し具体的な連帯相手はアメリカの若者たちであった。それは1950年代を通して日本共産党が取ったスターリニズム的な支配に日本の学生運動も辟易していたからである。自ら行動することを旨とした学生運動は、アメリカの反体制運動やヒッピーなどカウンター・カルチャーにより希望を見出していた。社会主義の立場から資本主義を打つより、資本主義内部から資本主義に抵抗する事を選んだ。しかし、そんな彼らも沖縄の基地問題や出入国管理法制定に端を発した華青闘告発については、視点を欠いていてた。1970年の日米安全保障条約更新(「70年安保」)を意識した学生運動が前年・1969年の東大安田講堂占拠事件の失敗による敗北から急速に衰え、政治的無風を意味する「シラケ」の時代となる。60年代を通して多くの学生運動が瓦解する中、革共同全国委が生き残りのちに革マル派と中核派に分派した。立花隆の『中核vs革マル』は「総括」と「自己否定」を繰り返した若者たちの過激主義化を緻密に書き取っている。よど号ハイジャック事件(1970 年)やあさま山荘事件(1972年)、三菱重工爆破事件(1973年)、北海道庁爆破事件(1976年)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)、成田空港管制塔占拠事件(1978年)など数々の過激な事件は、同時代の人々に衝撃を与えたが、そもそも事件の動機が大衆からの遊離を感じての行動だったので、政治的影響は皆無であった。
一方で、ベトナムに平和を!市民連合(通称:ベ平連)や田中美津が始めたウーマン・リブ運動は、普通の市民がやる普通の運動としての流れを示していた。特に田中美津が、革命運動を男の論理と見なして、女性性の否定から女性の解放へと転換を目指していたのは、象徴的である。革命が抑圧の論理なら、フェミニズム運動は解放の論理、これは同時代の消費主義や資本主義とも矛盾しないものでもあった。
1970年の「公害国会」は、1967年の公害対策基本法に連なる関連法が続々と制定された。水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、新潟水俣病など四大公害病に代表される公害の賠償訴訟は政治に変革を求め、環境庁設立(1971年)や革新自治体による公害防止条例制定に繋がっている。
沖縄の本土復帰は1972年5月15日であるが、これもベトナム戦争と関係している。それは米兵による暴行や事件が沖縄の基地としての重要性が増すのと比例して増加していたからである。沖縄では「反基地」と「祖国復帰」がスローガンとなっていたが、「日本復帰すれば、基地もなくなリ、生活も豊かになる」という意識による。しかし沖縄と本土でギャップは埋まらないまま、佐藤栄作総理によって沖縄返還協定が結ばれた。しかし、戦後本土から集中的に移設された沖縄の米軍基地は現在まで残る結果となった。1973年には当時皇太子であった明仁親王が火炎瓶投げの被害に遭い、歴史の分断が起きている象徴的事件として刻まれている。1975年に開かれた沖縄海洋博覧会(通称:海洋博)も、実質的な産業政策というよりも、公共事業依存型経済をもたらし、現在まで続く「経済的包摂/軍事的委託」を決定づけている。田中角栄が引き継いだ新全国総合開発計画(通称:新全総)は、沖縄では沖縄開発庁が主導する「沖縄振興開発計画」として結実していった。
国土開発は、地方分散/格差是正の下に進められた。しかしながら苫小牧、むつ小川原、志布志といった大規模工業基地建設は成功とはいえない結果を残した。その後も東京一極集中を止めるには至らず、補完的な役割に終始している。農村から集票していた自民党は、国庫補助金による福祉国家的政策を取ったが、農業の自立を阻むことになり、より一層の第二次産業、第三次産業化を促した。またこの時期の乱開発は神戸市といった都市部でもあり、阪神淡路大震災発災時に、70年代に作られた高速道路や人工島がそれ以前に建設された在来線や名神高速道路より激しく損傷したことにより、当時の建設事業のお粗末さを露わにしている。一方で、大分県由布市の「猪の瀬戸」の事例のようにまちづくりを住民主体で行う取り組みが起きるなど、新しい流れも起きている。
佐藤栄作のあとを引き継いだ田中角栄も日中共同声明によって、長い間横たわっていた日中国交正常化を果たした。ソ連とも鳩山一郎以来初めて会談を行ない、中ソ共に融和路線を歩んでいる。国内的には列島改造論による高速道路、整備新幹線計画、電源三法による原子力発電の推進など、現在まで続く日本の基軸が打ち出されている。同時に首相在任中から「田中金脈問題」が浮上。首相退陣後の1976年には元総理だった田中角栄が逮捕される一大汚職事件・ロッキード事件が発生。戦後最大の政治スキャンダルとなり、金権政治、「記憶にございません」が流行語になった。田中派支配の政治的影響力は田中角栄逮捕では終わらず、その後のリクルート事件まで尾を引いた。
国会では自民党が1972年末の衆議院議員総選挙で16議席減らすといった敗北を喫する一方、左翼政党の社会党は議席を28増やすものの、118議席と控えめな数字に留まっている。この頃には、保革対立から利益分配型政治が既定路線化され、革新政党もその都度国民サービスを要求する路線へと転化している。革新政党、革新自治体を支える労働組合自体も労働者がサラリーマン化する中で、政治力を徐々に失っていく。
1970年代は、赤字国債の発行による景気対策と大平正芳内閣による新自由主義的政策提言が同時的に並存していた時代でもある。しかし、赤字国債の裏付けとしての一般消費税導入は失敗し、財政削減もなされないまま、中曽根康弘以降の行財政改革へと引き継がれていく。
国鉄もまた政府と歩調を合わせて新幹線を中心に大規模な建設計画を進めていった。度重なる再建計画も失敗しながら、30兆円の累積債務を抱えることになる。他方、国鉄の労組では国鉄が導入を図った生産性向上運動が不当労働行為であると公共事業対労働委員会が出した結果、スト権ストが多発した。しかし政府からは反対され、スト権ストへの国民の理解も得られないまま、政府の労組潰しが行われることになる。結果として中曽根内閣による国鉄民営化となっていく。
経済面
経済面では、1960年代から続いていたいざなぎ景気とも呼ばれる高度経済成長が1973年のニクソンショックと第1次石油ショックで終わりを告げている。
同時代の政治家、田中角栄以前/以後を分けるとすれば、重厚長大と軽薄短小である。池田勇人によって始められた経済開発主義は、田中角栄の列島改造でピークに達した。道路、港湾、工業用地、用水の不足が決定的だった日本にインフラが整う中、ニクソン・ショックというドルペッグ制の崩壊、石油ショックという国際的変化は、日本経済に否応なしに変革を迫るものになった。現実的には石油輸入量は2%しか減らなかったものの、石油化学製品は軒並み値上げされ、トイレットペーパーが店頭から無くなる事が生じた。円高不況と列島改造ブームによる土地投機バブルは、不安をもたらし高度成長の終焉を印象づけた。
円高による影響を回避しようと企業は海外投資を増やした。折しも日米貿易摩擦が激化する中、日本企業は家電業界から現地法人設立を始めた。ソニー、松下電器、三洋電機、東芝、シャープといったところは軒並みアメリカに現地工場を持った。また同じ頃アジアにも現地工場を増やしている。1970年代まで年間10億ドルにも満たなかった直接投資は、1973年には35億ドルに激増している。台湾、韓国、フィリピン、マレーシア、タイなど現地の政府が工業団地を設立し、商社主導で工場建設、合弁会社設立がなされた。
大阪万博のスローガン「人類の進歩と調和」は、未来世界と科学技術として表象された。ここに展示されたものの一部、携帯電話や海底油田開発、動く歩道などは現在実現してインフラとなっている。大阪万博は産業の展覧会でもあり、当時国や自治体と広告代理店、マスコミが企業の宣伝を挙国一致してあたった。連日新聞、テレビは特集記事や番組を組み、万博には人が溢れることになった。
マスコミ、特にテレビが果たした役割は大きく、お茶の間文化をもたらした。家電やマイカーが家庭に浸透し、国民の間に中流意識が芽生えた。1973年の総理府による世論調査では、所得にかかわらず自らを「中」だと答える割合が90%になり、「一億総中流化」が意識の面では完成した。
ホワイトカラー層の増大、農村地域から都市への人口流入、核家族化の進展は決定的となり、日本全体が現代以前へと後戻り出来ないところとなった。三種の神器(白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)はあって当たり前、3C(カラーテレビ、カー、クーラー)が必需品となった。自動車の保有台数は5人に1人まで高まっている。住宅も郊外新興住宅地や団地など今に至る標準が生まれた。プレハブ住宅が本格化していき、大和ハウスや積水ハウス、ナショナル住宅(現:パナホーム)が一万戸を越えるなどしている。
可処分所得も増え、新幹線や高速道路が後押ししてレジャー文化が生まれた。当時の国鉄が1970年10月「ディスカバー・ジャパン」と銘打って、日本テレビの「遠くへ行きたい」や山口百恵の「いい日旅立ち」をメディアミックスの形でプロデュースしている。1966年に一部自由化が始まった海外旅行は、飛行機の大型化や円高も後押しし1972年には年間100万人を越え一般化した。
道路整備は生活も変え、「すかいらーく」(1970年)や「ロイヤルホスト」(1971年)、「デニーズ」(1974年)といったファミリーレストラン、中古自動車(オートバックス、1974年)、家具、紳士服(洋服の青山、1974年)、メガネ、パチンコ店といったロードサイド店舗が続々と登場した。この流れは、ホームセンター、靴、書籍まで広がり、郊外型ショッピングセンターと共に「街」のあり方を道路中心に変化させた。
流通面
流通の面では、大正時代から続いた百貨店の王様としての地位が、大型スーパーに取って代わられた時代でもある。1972年には三越百貨店がダイエーに初めて売上で首位の座を明け渡している。この頃までに、西友、ジャスコ、ユニーなどが出揃っている。
一方で、堤清二率いる西武百貨店はイメージ戦略、専門店化、差別化で勝負を図っている。傘下のパルコでもって渋谷の風景を一変させた。この戦略は単なる経済的成功のみならず、記号化、メディア化、情報化といったその後の消費を決定づけるトレンドを生み出している。1972年創刊の雑誌『ぴあ』も、今でいうGoogleのような総合メディアとして誕生した。都市が積極的にイメージを創り出し、その記号を消費するという事が定着した。
文化面
文化面では、映像産業のメインが映画からテレビに移行している。それまでの花形産業だった映画業界は1960年代後半から急速に衰退し、1971年には大映が倒産、日活もポルノ映画メインの製作に移行する。この業界不況は1990年代半ば以降のシネマコンプレックスの普及とテレビ局などとの共同製作による映画作品のヒットによる復活まで続いた。
一方のテレビ業界は黄金時代に突入していく。テレビ受信契約率は1960年は34.5%程度だったのが1970年には84.3%となっている。特にTBSが黄金時代を迎え、「8時だョ!全員集合」「クイズダービー」「Gメン'75」「ザ・ベストテン」など数々のヒット番組を世に放った。それに次ぐ形で日本テレビが追いかけ、巨人戦や全日本プロレスなどのスポーツ中継や「太陽にほえろ!」などのヒット番組で対抗した。テレビドラマとしては「家庭」が主人公となった。国民意識としても性的役割意識から夫婦協力が増え家父長主義が減衰する中、それまでの夫唱婦随といった古風なものから、現代的な中流家庭を描くという事が流行った。特に、山田太一の『岸辺のアルバム』は現代的核家族が舞台でありながらその崩壊を描くという、ドラマ史でも決定的なものである。
音楽産業では歌謡曲の黄金時代である。阿久悠がピンクレディーや沢田研二など数多くの歌手に作詞曲を提供して隆盛に貢献した。一方でフォークソングやニューミュージックが若者達を中心に支持を集め、吉田拓郎、井上陽水、松任谷由実、中島みゆきといった自分で作詞・作曲・編曲・歌唱する「シンガーソングライター」が人気となって一般化していった。音楽の消費の仕方もウォークマンの誕生により、今までの「場」込みのものから、「個」による消費へと転換づけられた。
漫画業界では、それまで子供の読むものだった漫画を団塊世代以降の若者がそのまま読み続けるようになり、一気に読者層が広がった。以前は軽蔑的な偏見を持たれることもあった少女漫画も作品的に評価されるようになり認知されるようになった。1975年にはコミックマーケットが始まり、同人誌の流通環境が開拓され始めている。
戦後まもなくに生まれた団塊世代が続々と結婚して子供を生むようになり、70年代前半に団塊ジュニアが生まれた。彼らが消費の中心層となり、70年代後半から80年代における子供~若者文化の隆盛に大きな影響を与えることとなった。
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