概要
1951年6月、相馬郡中村町(当時)原釜の味噌屋の次男として生まれる。1978年、福島県立医科大卒業後、医師となり公立相馬病院に勤務。3年ほどして独立し、1983年に立谷内科医院設立。新しく出来たばかりだったので往診も積極的に行っていたそうな。そうして程なく規模は拡大し立谷病院となった自らの病院の院長ならびに理事長となる。ちなみに弟は獣医でありこちらも相馬市内にて開業している。
平成に入り政治家への道を歩む。1995年に福島県議会議員を1期4年間務め、2001年、30年近く現職だった当時の今野繁を破り市長に当選。2002年1月に第13代相馬市長に就任。以後も14代・15代の選挙戦を凌ぎ、3期目に突入。前市長の放漫財政で疲弊していた相馬市の経済を工場誘致や経費削減によりなんとか立て直した。さすが商売人の息子。
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東日本大震災
人件費削減の一環として大洲公園の管理を解雇されたと言う人の言いがかり抗議に遭ったり、市役所の金庫に入れていた大金を盗まれるといったハプニングはあったものの、おおむね平穏に市長を務めていた立谷てんてーであったが、2011年3月11日、東日本大震災発生。原釜・岩子・磯辺地区壊滅。実家も流されるという今までの不幸が平穏であったかのような大惨事が起こる。行方不明者の捜索と並行して生存者の支援が必要と判断。コンビニやスーパーは軒並み店を閉め、断水が続き停電する場所もあったが、市役所職員の不眠不休の活動により避難民はなんとか餓えずに済んだ。
翌3月12日、福島第一原子力発電所事故発生。すぐさま空間放射線量を測定した公立病院相馬病院からの報告を聞き、この値(毎時2.0マイクロシーベルト前後)ならすぐさま退避の必要は無いと判断。かと言って自主避難の為に市外へと脱出する市民を引き止めるようなことはせず、国が退避命令を出すまで残った市民のために「ろう城」することを決める。「最低、米と味噌と梅干しがあれば、生きてはいける」との発言は流された実家が味噌屋だから上手いこと言ったつもりか。
それからというもの、大津波で親を亡くした子供たちの学業・生活義援金を募ったり、仮設住宅の建設を進めて被災者を入居させ2011年6月17日には福島県内で一番早く避難所を全て閉鎖したり、他にもいろいろ休みも取らず奔走した結果、多少白髪が増えたりしたのだった。
現在も復興に向けてやっぱりいろいろと奔走しているのであった。
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関連項目
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