自然率仮説(natural rate hypothesis)とは、経済学の用語である。自然失業率仮説(natural unemployment rate hypothesis)ともいう。
概要
定義
自然率仮説とは、「需要ショックを発生させると、短期において実質GDPや失業率に影響を与えるが、長期において実質GDPや失業率が自然率水準に戻っていくことを全く抑制できず物価やインフレ率を変動させるだけの結果に終わる」と考えることである。
解説
物価や名目賃金やインフレ率といった貨幣を単位として計測する名目数値と、実質GDPや失業率といった物理的な量を単位として計測する実質数値を明確に分けて考えることを古典派の二分法という[1]。自然率仮説は古典派の二分法のなかの1つである。
「短期において物価という名目数値は硬直的だが、実質GDPや失業率といった実質数値は伸縮的である。長期において物価という名目数値は伸縮的だが、実質GDPや失業率といった実質数値は硬直的である」と考えて、短期と長期を明確に分けて考える方法がある[2]。自然率仮説はそうした考えかたの1つである。
自然率仮説によって、マクロ経済学者が短期の経済発展と長期の経済発展を別々に研究することが可能になる[3]。
自然率仮説に関連する思想
ミルトン・フリードマンなどの新古典派経済学の支持者は自然率仮説を支持している。
自然率仮説からは、「政策担当者が総需要を減らしてディスインフレーションをしても長期的に実質GDPや失業率が変化しない」という考えが生まれ、ディスインフレーションを支持する考えが生まれ、インフレファイター(インフレ嫌い)で金融タカ派の中央銀行総裁を支持する考えが生まれ、緊縮財政好みで財政タカ派の国会議員を支持する考えが生まれる。
また、自然率仮説からは「政策担当者が総需要を増やして景気を刺激しても長期的に実質GDPや失業率が変化しない」という考えが生まれ、小さな政府を支持する考えが生まれる。小さな政府は株主資本主義(株主至上主義)や新自由主義といった思想において理想視されるものである。
ヒステリシス仮説
一部の経済学者はヒステリシス(経済学)の仮説を支持している。
ヒステリシス仮説からは、「政策担当者が総需要を減らしてディスインフレーションをするのは長期的に実質GDPを減らして失業率を増やす可能性がある」という考えが生まれ、ディスインフレーションを忌避する考えが生まれ、インフレ容認で金融ハト派の中央銀行総裁を支持する考えが生まれ、積極財政好みで財政ハト派の国会議員を支持する考えが生まれる。
また、ヒステリシス仮説からは「政策担当者が総需要を増やして景気を刺激するのは長期的に実質GDPを増やして失業率を減らす可能性がある」という考えが生まれ、大きな政府を支持する考えが生まれる。大きな政府はステークホルダー資本主義や修正資本主義といった思想において理想視されるものである。
自然率仮説の分析
総需要-総供給モデルを用いた分析
タテ軸物価・ヨコ軸実質GDPの総需要-総供給モデルを用いて自然率仮説を分析する。
まずは、景気刺激を行った後に実質GDPが自然率水準に戻っていく現象を分析する。
- ある時点で総需要曲線と短期総供給曲線の交点が長期総供給曲線の線上に位置していて、実質GDPが自然率水準にあるものとする。
- 政策担当者が総需要を増やす政策を実行し、正の需要ショックを起こす。そうなると総需要曲線が右に平行移動し、均衡点が短期総供給曲線に沿って右上に移動する。物価が上がり、実質GDPが増加する。これを景気刺激という。
- 物価が上がったことで期待インフレ率が上がり、「名目利子率-期待インフレ率=事前的実質利子率」で計算できる事前的実質利子率が減り、投資が増えて正の需要ショックが起きる。そうなると総需要曲線が右に平行移動し、均衡点が短期総供給曲線に沿って右上に移動する。物価が上がり、実質GDPが増加する。
- 物価が上がったことで期待インフレ率が上がり、人々は「名目賃金Wが硬直的であるなかで物価Pが速く上昇するだろうから実質賃金W/Pが速く下落するだろう」と考え、摩擦的失業を増やす。それによって「労働時間を減らす不利な供給ショック」が起き、短期総供給曲線が左に平行移動し、均衡点が総需要曲線に沿って左上に平行移動する。さらに人々の可処分所得が減り、消費や投資や純資本流出が減り、純資本流出と純輸出が等しいことから消費や投資や純輸出が減り、負の需要ショックが起こり、総需要曲線が左に平行移動し、均衡点が短期総供給曲線に沿って左下に移動する。
- 4.が続き、均衡点が「総需要曲線と長期総供給曲線が交わる点」にまで移動し、実質GDPが自然率水準に回帰する。
1.~5.を通じた長期的な視点でみると、政策担当者が景気刺激を起こしたとしても実質GDPが自然率水準から全く変わっておらず、物価だけが上がっている。
続いて、ディスインフレーションを行った後に実質GDPが自然率水準に戻っていく現象を分析する。先程の分析を正反対にしたものである。
- ある時点で総需要曲線と短期総供給曲線の交点が長期総供給曲線の線上に位置していて、実質GDPが自然率水準にあるものとする。
- 政策担当者が総需要を減らす政策を実行し、負の需要ショックを起こす。そうなると総需要曲線が左に平行移動し、均衡点が短期総供給曲線に沿って左下に移動する。物価が下がり、実質GDPが減少する。これをディスインフレーションという。
- 物価が下がったことで期待インフレ率が下がり、「名目利子率-期待インフレ率=事前的実質利子率」で計算できる事前的実質利子率が増え、投資が減って負の需要ショックが起きる。そうなると総需要曲線が左に平行移動し、均衡点が短期総供給曲線に沿って左下に移動する。物価が下がり、実質GDPが減少する。
- 物価が下がったことで期待インフレ率が下がり、人々は「名目賃金Wが硬直的であるなかで物価Pが遅く上昇するだろうから実質賃金W/Pが遅く下落するだろう」と考え、摩擦的失業を減らす。それによって「労働時間を増やす有利な供給ショック」が起き、短期総供給曲線が右に平行移動し、均衡点が総需要曲線に沿って右下に平行移動する。さらに人々の可処分所得が増え、消費や投資や純資本流出が増え、純資本流出と純輸出が等しいことから消費や投資や純輸出が増え、正の需要ショックが起こり、総需要曲線が右に平行移動し、均衡点が短期総供給曲線に沿って右上に移動する。
- 4.が続き、均衡点が「総需要曲線と長期総供給曲線が交わる点」にまで移動し、実質GDPが自然率水準に回帰する。
1.~5.を通じた長期的な視点でみると、政策担当者がディスインフレーションを起こしたとしても実質GDPが自然率水準から全く変わっておらず、物価だけが下がっている。
フィリップス曲線モデルを用いた分析
タテ軸インフレ率・ヨコ軸失業率のフィリップス曲線モデルを用いて自然率仮説を分析する。
まずは、景気刺激を行った後に失業率が自然率水準に戻っていく現象を分析する。
- ある時点で経済の状況を指し示す点が短期フィリップス曲線と自然失業率垂直線の交点に位置していて、失業率が自然率水準にあるものとする。
- 政策担当者が総需要を増やす政策を実行し、正の需要ショックを起こす。そうなるとインフレ率が上がり、実質GDPが増えて構造的失業が減って失業率が下がる。これを景気刺激という。経済の状況を指し示す点が短期フィリップス曲線に沿って左上に移動する。
- インフレ率が上がったことで人々の適応的期待が生まれ、期待インフレ率が上がり、インフレ率が上がり、実質GDPと失業率が一定のままになる。短期フィリップス曲線が上に平行移動し、経済の状況を指し示す点が上に平行移動する。この内容について詳しくはフィリップス曲線の記事の『期待インフレ率が変動するときの平行移動』の項目を参照のこと。
- 3.に引き続いて人々は期待インフレ率が上昇したことで「名目賃金Wが硬直的であるなかで物価Pが速く上昇するだろうから実質賃金W/Pが速く下落するだろう」と考え、摩擦的失業を増やし、可処分所得を減らして消費や投資や純資本流出を減少させ、純資本流出と純輸出が等しいことから消費や投資や純輸出を減少させる。インフレ率が下がり、実質GDPが減少に転じて失業率が上がり、経済の状況を指し示す点が短期フィリップス曲線に沿って右下に移動する。
- 4.が続き、失業率が自然率水準に回帰し、経済の状況を指し示す点がフィリップス曲線と自然失業率垂直線の交点にまで移動する。
1.~5.を通じた長期的な視点でみると、政策担当者が景気刺激を起こしたとしても失業率が自然率水準から全く変わっておらず、インフレ率だけが上がっている。
3.と4.が同時に起こると、経済の状況を指し示す点が右に平行移動しているかのように見える。すなわち、インフレ率が一定でありつつ失業率が上がっているように見える。
続いて、ディスインフレーションを行った後に失業率が自然率水準に戻っていく現象を分析する。先程の分析を正反対にしたものである。
- ある時点で経済の状況を指し示す点が短期フィリップス曲線と自然失業率垂直線の交点に位置していて、失業率が自然率水準にあるものとする。
- 政策担当者が総需要を減らす政策を実行し、負の需要ショックを起こす。そうなるとインフレ率が下がり、実質GDPが減って構造的失業が増えて失業率が上がる。これをディスインフレーションという。経済の状況を指し示す点が短期フィリップス曲線に沿って右下に移動する。
- インフレ率が下がったことで人々の適応的期待が生まれ、期待インフレ率が下がり、インフレ率が下がり、実質GDPと失業率が一定のままになる。短期フィリップス曲線が下に平行移動し、経済の状況を指し示す点が下に平行移動する。この内容について詳しくはフィリップス曲線の記事の『期待インフレ率が変動するときの平行移動』の項目を参照のこと。
- 3.に引き続いて人々は期待インフレ率が下落したことで「名目賃金Wが硬直的であるなかで物価Pが遅く上昇するだろうから実質賃金W/Pが遅く下落するだろう」と考え、摩擦的失業を減らし、可処分所得を増やして消費や投資や純資本流出を増加させ、純資本流出と純輸出が等しいことから消費や投資や純輸出を増加させる。インフレ率が上がり、実質GDPが増加に転じて失業率が下がり、経済の状況を指し示す点が短期フィリップス曲線に沿って左上に移動する。
- 4.が続き、失業率が自然率水準に回帰し、経済の状況を指し示す点がフィリップス曲線と自然失業率垂直線の交点にまで移動する。
1.~5.を通じた長期的な視点でみると、政策担当者がディスインフレーションを起こしたとしても失業率が自然率水準から全く変わっておらず、インフレ率だけが下がっている。
3.と4.が同時に起こると、経済の状況を指し示す点が左に平行移動しているかのように見える。すなわち、インフレ率が一定でありつつ失業率が下がっているように見える。
期待インフレ率と摩擦的失業が正の相関にあることの説明
総需要-総供給モデルを用いた分析においても、フィリップス曲線モデルを用いた分析においても、「期待インフレ率と摩擦的失業が正の相関にある」と考えている。そのことを説明すると次のようになる。
名目賃金Wと物価Pを比べたとき、名目賃金Wのほうが硬直的で物価Pのほうが伸縮的であることが多い。
名目賃金Wを決めたときに実質賃金W/Pの量が決まる。名目賃金Wが硬直的に固定され続ける間に物価Pが伸縮的に上がってインフレが進むことで実質賃金W/Pの量がじわじわと下がっていく。このためインフレ率が実質賃金W/Pの下落速度を決め、期待インフレ率が実質賃金W/Pの下落速度の予想を決める。
期待インフレ率が上がって「実質賃金W/Pの下落速度が速い」と予想されるようになると、人々は労働意欲を低めて摩擦的失業を増やす。
期待インフレ率が下がって「実質賃金W/Pの下落速度が遅い」と予想されるようになると、人々は労働意欲を高めて摩擦的失業を減らす。
関連項目
脚注
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』153~154ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』265~266ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』437ページ
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- ページ番号: 5696996
- リビジョン番号: 3293517
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