アレックス・ブリッグス(Alex Briggs)
とは、MotoGPの車両整備員である。
オーストラリアの首都キャンベラ
出身で、1993年からMotoGP最大排気量クラスでメカニックとして働き始めた。ミック・ドゥーハンやヴァレンティーノ・ロッシのメカニックとして有名である。
奥さんはエレン・ブリッグス
という人で、オーストラリアのコメディアン。
1969年、オーストラリアの首都キャンベラ
で生まれた。
少年時代はホッケーやクリケットやBMX(自転車競技)
で遊んでいた。高校ではホッケーのクラブに入った。
デニリクイン
という内陸の田舎町で、色んな高校が集まって行われるホッケーの大会が開催されたのでそれに参加したが、そのとき広大な農場を持つ農家にホームステイさせてもらった。その農家には少年がいて、カワサキのKX80
というオフロードバイクを持っており、オフロード車の乗り方などを教えてくれた。ちなみに、その農家の少年には綺麗なお姉さんがいたのだが、アレックスにとっては残念なことながら、アレックスにあまり興味を持ってくれなかった。
ホームステイから帰った後にもバイクに夢中になったので、父親が家業の手伝いに対するお駄賃としてバイク購入を手助けしてくれた。それで、カワサキのKX80の中古車を手にすることができた。
そのカワサキのKX80には、キックスターター(足けり式始動ペダル)が付いていなかった。それゆえ、まずはキックスターターを買って、バイクに取り付けなければならなかった。キックスターターを取り付けた後も、バイクに対する愛着があるので、バイクをしょっちゅう整備するようになった。
父親は手先が器用なのだが、エンジンとかバイクをいじったことはそれまで無かった。それにも関わらず、父親はアレックスのバイク整備を手伝ってくれたので、親子そろってバイクについて学ぶようになった。父親は元・地球物理学者というインテリだったので、学習能力も高かったようである。
しばらくすると、もう1台のバイクを購入した。そのバイクで、モトクロス(起伏がある土の路面をジャンプしながら走っていく競技)のレースに出るようになった。
高校の職業体験で、「Action
」という首都キャンベラの公営バス企業の仕事をさせてもらった。そのため、Action社の公募に申し込みをした。3回の面接を突破して、応募者1,000人の中から選ばれる10人の中に割り込むことができた。最初の仕事は、スプレーで塗装する仕事や、板金工の仕事だった。次第に、80人乗りバスの整備をするようになった。
バス企業での車体整備の仕事をするようになっても、モトクロスのレースは続けていた。そのときも「夢は世界チャンピオン」と思っていた。モトクロスのレーサーとしては「まあまあ、良い感じ」といったレベルで、タイヤ企業や衣服企業や石油化学企業からの支援を受けることができたほどだった。オーストラリア全土をレースで転戦しており、その遠征の時はトヨタのハイエースを使ってバイクなどを運んでいた。
レースの次の日は職場を欠勤することもあり、そのときは同僚たちがアレックスの穴埋めをしてくれた。クイーンズランド州
から首都キャンベラに戻るだとか、南オーストラリア州
から首都キャンベラに戻るといった長距離移動することもあったことを、同僚達が知っていたのである。
アレックスのレース仲間には、オーストラリアのモトクロス王者になった者もいるし、モトクロス王者の座を争うレベルの者もいる。そういうライダーの手伝いとしてバイクの整備をすることがあった。
そうしていると、ヤマハ・オーストラリア直営のモトクロスチーム(メインスポンサーはタバコ企業のPeter Jackson
)に誘われた。アレックスはその誘いに応じ、首都キャンベラのバス会社を退職し、モトクロス王者になるという夢をキッパリ諦めてバイクを売り、シドニーへ行って、チーム監督から部屋を借りて、引っ越した。これが、1990~1991年頃の出来事だという。
ヤマハ・オーストラリア直営のモトクロスチームでメカニックの仕事をしている最中に、日本のヤマハワークス勤務の人達がsafari(野生動物見学ツアー)をしにオーストラリアへ来たことがある。そのとき、アレックスが案内役になり、キャンプを設営したりしてあげた。そのお返しとして、磐田市のヤマハの工場に招待されるなどしている。
オーストラリアで働いているとアレックスは「ヨーロッパのモトクロス・チームで働きたい、モトクロス世界選手権に関わりたい」と思うようになり、ヨーロッパに渡ることにした。
すると、MotoGPのホンダワークスで働いているジェレミー・バージェスに声を掛けられ「MotoGPで働かないか。ダリル・ビーティー
(オーストラリア人ライダー)のチームに空きがあるんだ」と誘われたので、1993年はホンダワークスのダリル・ビーティー・チームに所属することになった。
ダリル・ビーティーは1993年をもってホンダ陣営から離れたので、1994年初頭のアレックスは同じホンダワークスのミック・ドゥーハン・チーム(クルーチーフはジェレミー・バージェス)に転籍することになった。
1994年から1999年までミック・ドゥーハンのメカニックを務めた。ちなみに、1994年から1998年までミックは最大排気量クラスを5連覇している。
ミックは1999年5月のスペインGPで大転倒を喫して重傷を負い、シーズン終了まで出場できず、1999年をもって現役引退することになった。
このため、1999年のアレックスは、セテ・ジベルナウのメカニックを務めるなどしている。
1999年の暮れに、ヴァレンティーノ・ロッシがレプソルホンダにやってきた。ヴァレンティーノは「ジェレミー・バージェスをクルーチーフに迎え入れたい」と希望しており、ホンダやジェレミー・バージェスもそれを了承した。
ジェレミー・バージェスの部下であるアレックスも、ヴァレンティーノ・ロッシのチームに入ることが決まった。
2000年から2019年現在に至るまで、ずっとヴァレンティーノ・ロッシのメカニックを務めている。ヴァレンティーノがホンダからヤマハへ移籍した時も、ヤマハからドゥカティへ移籍した時も、ドゥカティからヤマハに出戻りしたときも、ヴァレンティーノとともに移籍している。
奥さんはエレン・ブリッグス(Ellen Briggs)という
。
アレックスと同い年で、アレックスと同じ首都キャンベラ出身で、住んでいる地区も同じで、しかも同じ高校に通っていた。ところが若い頃は付き合いが無かった。1993年、24歳の時、友達同士のパーティー(要するに合コン)で知り合い、交際を始めた。
既にその頃、アレックスはMotoGP最大排気量クラスのホンダワークスに所属していて世界中を飛び回る生活に突入していたので、エレンとアレックスはなかなか会えない。そのため文通をしていたという。
2017年の時点でも、MotoGPのシーズン中はなかなかアレックスと会えない。「アレックスは今どこにいるんですか」と尋ねられたら「スペインにいるんじゃない?」と適当に答えることにしている(スペインでは1年に4回MotoGPが開催され、世界中で最も開催数が多い)
アレックスは1年のなかで7~8ヶ月ほど家を離れる生活を送っている。このためエレンと息子2人は、食卓にiPadを置き、そのiPadでアレックスと通話しつつ一家団欒の食事をするという。このためアレックスは「iPadお父さん」と家の中で呼ばれている。
エレンはコメディアンで、検索すると動画が出てくる
。(動画1
、動画2
)
喋りが達者な人であるようだ。
エレンはたまにMotoGPにやってくることがある。2012年アメリカGPにもやってきていたのだが、そのときベン・スピーズの所属するヤマハワークスのピットのすぐそばにいた。そのピットでは、ベン・スピーズの母親のマリー・スピーズさん
が、ヤマハワークスのメカニックに激怒して怒鳴り散らしていた。このことをエレンはTwitterで取り上げている
。これは「マリー・スピーズ激怒事件」として有名である。
ちなみに、このレースのベン・スピーズは、レース中にスイングアームが破損するというとんでもない理由で転倒しており、100%チーム側が悪かったので、マリー・スピーズが激怒するのも無理はなかった、と言える。
アレックスとエレンには息子が2人いて、双子である。2000年8月に生まれた。出産の時のアレックスは職場を離れ、エレンのところに駆けつけている。エレンによると、アレックスが職場を欠勤したのは1993年以降で唯一のことだという。
ブリッグス家はマランビンビー
に住んでいる。エレンは芸能人なので大都市に住んだ方が都合良さそうなのだが、あえてここに住んでいる。
敷地面積は40エーカーで、東京ドーム3.5個分、サッカー場22面分。そこで牛を飼っている。エレン夫人は芝刈り機に乗って芝刈りしている。
アレックス・ブリッグスはwrench racer.com
という名前のウェブサイトを持っている。そのサイトで、帽子
やTシャツ
や栓抜き
やゴルフボール
などを販売している。その収益で、オーストラリアの若手モトクロスライダーを支援している。
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最終更新:2025/12/06(土) 03:00
最終更新:2025/12/06(土) 02:00
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