シルヴァーノ・ガルブゼラ(Silvano Galbusera)とは、MotoGPの車両整備員である。
1956年生まれ。
2014年からヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフを務めている。
1979年からバイクレース業界で働き始めた。最初に所属したのはジレラ(イタリアのバイクメーカー)で、MotoGP250ccクラスやダカール・ラリー(オフロード車でアフリカ大陸を横断するレース)を経験した。ダカール・ラリーで組んだライダーは、ミケーレ・リナルディである。
ジレラ時代最終年となった1993年は、MotoGP250ccクラスでパオロ・カゾーリやアレッサンドロ・グラミーニを助けた。クルーチーフよりも1つ格上の存在になり、チーム全体の技術指導をした。
1994年はMotoGP最大排気量クラスの、チーム・アゴスティーニに入った。同チームはジャコモ・アゴスティーニが率いるチームで、カジヴァ(イタリアのバイクメーカー)の支援を受ける実質的なワークスチームだった。そのチームで、ジョン・コシンスキーのクルーチーフとなった。
1994年のジョン・コシンスキーは優勝1回を含む表彰台7回でランキング3位に入る大躍進を果たした。この時代の最大排気量クラスはホンダ・ヤマハ・スズキといった日本車が他を圧倒していたので、カジヴァの活躍は驚くべき戦果だった。
1994年に好成績を残したチーム・アゴスティーニ(カジヴァワークス)だったが、なんとカジヴァが1994年限りでMotoGPから撤退してしまった。
このため、シルヴァーノ・ガルブゼラも転職することになった。行き先は、ヤマハ・イタリアだった。1995年の初頭に、ヤマハ・イタリアが主導してスーパーバイク世界選手権用ワークスチームを作り上げることになり、チーム監督をダヴィデ・ブリヴィオが務めることになっていたのだが、そのチームにシルヴァーノ・ガルブゼラも参加したのである。
スーパーバイク世界選手権におけるヤマハワークスのチームに在籍したのは1995年から2011年までである。この間、芳賀紀行、トロイ・コーサー(2007~2008年)、ベン・スピーズ(2009年)、カル・クラッチロー(2010年)、マルコ・メランドリ(2011年)と一緒に仕事をした。この中で特筆すべきはベン・スピーズで、2009年はルーキーイヤーでありながらいきなりスーパーバイク世界選手権のチャンピオンを獲得している。
2011年シーズンはヤマハワークスでマルコ・メランドリとスーパーバイクを戦った。2011年シーズン末にヤマハがスーパーバイクから撤退したので、マルコ・メランドリと共にスーパーバイクのBMWワークスに移籍している。
2013年11月に、ヴァレンティーノ・ロッシは環境を変えることを決意し、クルーチーフのジェレミー・バージェスを電撃的に解任した。
その後釜として指名されたのは、シルヴァーノ・ガルブゼラだった。いきなり指名されたシルヴァーノはびっくりしたという。
ヴァレンティーノとシルヴァーノの間には面識があった。ヴァレンティーノは2010年6月のイタリアGPで大転倒して足を骨折し、自宅で療養することになった。骨折の治りを把握するため、ヤマハに対して「スーパーバイクのマシンでミサノサーキット(ヴァレンティーノ邸の近所)を走りたい」と要望した。そこでヤマハはスーパーバイクのマシンとメカニックたちをミサノサーキットに派遣したが、このときのクルーチーフがシルヴァーノ・ガルブゼラだった。
2012年と2013年のシルヴァーノ・ガルブゼラは、マルコ・メランドリとともにスーパーバイク世界選手権のBMWワークスに所属していたが、2013年を限りにBMWがスーパーバイク世界選手権から撤退することが決まっていた。そのため、シルヴァーノ・ガルブゼラも路頭に迷う寸前であり、移籍先を探していたのである。ヴァレンティーノからの指名は、まさしく渡りに船だった。
2013年末のシルヴァーノ・ガルブゼラは、マルコ・メランドリとともにアプリリアのスーパーバイクのアプリリアワークスへ行くことを検討していた。ところが、その当時はジジ・ダッリーニャがアプリリアを退職してドゥカティワークスへ移籍するんじゃないかという噂が流れていた。「ジジ・ダッリーニャが抜けるとアプリリアはゴタゴタするだろう。アプリリアに行くのは、どうしようかな・・・」と考えていたらしい。そういう風に考えていたら、ヴァレンティーノからの連絡が来たのである。(この記事が資料)
ジェレミー・バージェスは1953年4月生まれでこの当時60歳。シルヴァーノ・ガルブゼラは1956年生まれでこの当時57歳ぐらい。それゆえ、若返りという感じの人事刷新ではなかった。
この当時のシルヴァーノ・ガルブゼラはMotoGP最大排気量クラスの経験が極めて少なかった。57歳の大ベテランが、職場環境を大きく変えられ、難しい職場に放り込まれるのである。シルヴァーノ・ガルブゼラの能力を疑うものもいた。
しかしながら、シルヴァーノ・ガルブゼラは、移籍初年度の2014年から腕前を遺憾なく発揮した。
2013年のヴァレンティーノ・ロッシ(34歳)の成績は次の通り。237ポイントを獲得し、ランキング4位。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
2 | 6 | 4 | 12 | re | 4 | 1 | 3 | 3 | 4 | 4 | 4 | 4 | 3 | 4 | 3 | 6 | 4 |
2014年のヴァレンティーノ・ロッシ(35歳)の成績はこうなった。295ポイントを獲得し、ランキング2位になった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
2 | 8 | 4 | 2 | 2 | 3 | 2 | 5 | 4 | 3 | 3 | 3 | 1 | re | 3 | 1 | 2 | 2 |
35歳で伸びしろがないはずなのに、獲得ポイントを58ポイントも増やし、ランキングを2つも上げた。人々は、「シルヴァーノ・ガルブゼラの能力のおかげである」と噂した。
2015年のヴァレンティーノ(36歳)はさらに成績を伸ばして、次のようになった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
1 | 3 | 1 | 3 | 2 | 3 | 2 | 1 | 3 | 3 | 3 | 1 | 5 | 3 | 2 | 4 | 3 | 4 |
36歳で325ポイントを稼ぎ、チャンピオン争いして、わずか5ポイント差のランキング2位になった。こうした躍進は、シルヴァーノ・ガルブゼラの能力のおかげであると、誰もが認識するようになった。
2018年中頃には、ヴァレンティーノ・ロッシの成績が伸び悩むようになった。このためヴァレンティーノは環境を変えようと思ったらしく、ラモン・フォルカダ(ホルヘ・ロレンソやマーヴェリック・ヴィニャーレスのクルーチーフを務めた人物)へ声を掛けていたが、ラモンには断わられている。(記事1、記事2、ライディングスポーツ2018年9月号63ページ)
2019年現在も、シルヴァーノ・ガルブゼラはヴァレンティーノのクルーチーフを務めている。
ヤマハワークスに入ってから、蛍光黄色の眼鏡を付けるようになった。(ヴァレンティーノ・ロッシが連れてきたスポンサーに付けられたのだろうか)
2010年暮れに心臓疾患の手術をしている。
ジェレミー・バージェスはオーストラリア人で、終始一貫、英語だけを話していた。「私もイタリア語を学ぶとするかな」と言ってはいたが、結局そんなことはなかった(ヴァレンティーノ・ロッシ自叙伝177ページ)このため、ヴァレンティーノはシルヴァーノを迎え入れたときに「イタリア語を話す環境に戻ることは、とても良いことだ」と述べている。
2009年のシーズン末に、ミハエル・シューマッハがヤマハのスーパーバイク世界選手権用マシン(YZF-R1)に試乗した。このときに、シルヴァーノ・ガルブゼラがメカニックとして担当している。この画像に、シルヴァーノの姿が見える。ゼッケン11番なので、ベン・スピーズが乗っていたマシンなのだろう。
シルヴァーノ・ガルブゼラは、2013年11月にヤマハワークスのヴァレンティーノ・ロッシ・チームへ加入し、クルーチーフの座に就いた。
ヴァレンティーノ・チームはオーストラリア人のジェレミー・バージェスが中心だった期間が長いので、オーストラリア人やニュージーランド人の姿が目立つ。
ヴァレンティーノ・ロッシのチームは、MotoGP公式サイトのページでもメンバーの名前を確認できる。2011年、2012年、2013年、2014年、2015年は構成スタッフが載っていて、メンバーが替わっていないことが分かる。
ヴァレンティーノ・ロッシとホルヘ・ロレンソがヤマハワークスの中で共存していた2008~2010年と2013~2016年は、ヴァレンティーノとホルヘの関係が悪化しているとたびたび報じられた。特に、2015~2016年はそういう報道が多かった。
ところが、走法のライダーに付き従うチームスタッフ同士は大変に関係良好だったという。アレックス・ブリッグスなどのスタッフがこの記事で次のように証言している。「僕たちメカニック(マシン組み立て係)は相互のピットを行き来していて、お互いにセッティング情報を喋りあっています。秘密なんて全くありません。片方のピットで問題が発生したら『あのやり方は、マズいぞ』とすぐに伝達されます。片方のライダーが転倒したら、もう片方のライダーのメカニックが修復作業を手伝ってあげたりしています」
ロッシの信頼厚い電子制御エンジニア。いつも心配そうにモニターを見つめている。
ヤマハ製作の特集動画に登場している。
2004年にヴァレンティーノがヤマハ入りしたときから電子制御スタッフになっている。ロッシがドゥカティワークスに行っていた2年間はベン・スピーズの担当だった。
テレメトリーとは、走行情報を収集して分析する技術のこと。電子制御との関連が深く、関さんと協力して仕事することが非常に多い。
レースの現場に詰めかけるようになったのは1994年で、その当時のテレメトリーはまだまだ発展途上であり、チャンネルが10ヶほどしかなかった。それから20年経った2013年の頃にはチャンネルが200ヶほどにも増えたという。テレメトリー技術の進歩を実体験している人物である。
1970年6月2日生まれ、イタリア・エミリア=ロマーニャ州ファエンツァ出身。この土地はすぐ近くにイモラサーキットやミサノサーキットがある。そして、マッテオの父親はバイクやスクーターの販売店を経営していた。そういうわけで、マッテオは父親に連れられてサーキットにレースを見に行くようになった。
一番最初にレースを観たのは6歳の頃で、イモラサーキットだった。MotoGP(1977年5月にイモラサーキットでレースを行っている)だったのか、それともイモラ200マイル(耐久レース)だったのかは憶えていない。
父親がマッテオをイモラサーキットに連れて行ったとき、ケニー・ロバーツ・シニアとランディ・マモラが来ていたことがあった。ところがランディ・マモラは若すぎるため走っていなかったという。ランディ・マモラが年齢制限のため走れないというと、1979年以前のことかと思われる。(ランディは1959年11月生まれ、1979年はまだ未成年)
15~16歳のころ、家から近くのミサノサーキットで、ホンダのVF400Fを使うレースが開催された。そこレースに友人のジョルジョ・テディオーリが優勝していた。そのレースには、ファブリツィオ・ピロヴァーノ(数年後にスーパーバイク世界選手権に参戦するようになったライダー)も参加していた。ジョルジョ・テディオーリは、モディリアーナというモトクロス愛好会にも参加していて、いかにもと言ったレース好き少年だった。
成長すると、ファエンツァからすぐ近くのボローニャのこの場所にあるオドネ・ベルッツィ工業学校へ通った。1990年から1996年までボローニャ大学に通い、電子工学を学んだ。
1994年の在学中に、ジョルジョ・テディオーリから連絡があり、「スーパーバイク世界選手権でドゥカティのマシンを使って参戦しているガットローネ・レーシングに参加しないか」と誘われた。そのチームにはマッテオ・フラミーニやジョルジョ・テディオーリと同郷のジャンマリア・リヴェラーニという選手が走っていたのである。
このときのマッテオは電気工学の課程を卒業していたが、まだ試験を受けなければいけない身分だった。勉学をせねばならない状況だったが、学業をこなしつつレースの現場に参加することを選んだ。1995年と1996年は同チームのテレメトリースタッフとして仕事をした。このチームにはピエールフランチェスコ・キリがおり、彼とも仕事をしたようである。
1997年はMotoGPに転職し、最大排気量クラスに参戦する「レッドブル・ヤマハ・WCM」に参加し、第4戦以降にルカ・カダローラとトロイ・コーサーの世話をした。この2人は第1戦から第3戦まで「ヤマハ・プロモーター・レーシング」に所属し、第4戦以降は「レッドブル・ヤマハ・WCM」に移籍している。
1998年と1999年はグレッシーニレーシングに所属した。1998年は最大排気量クラスに参加するアレックス・バロス担当。1999年は250ccクラスに参加するロリス・カピロッシ担当。
2000年にはついにMotoGP最大排気量クラスのヤマハワークスに入り、テレメトリースタッフとして貢献するようになった。2000~2002年はマックス・ビアッジ担当、2003年はマルコ・メランドリ担当。2004年にヴァレンティーノ・ロッシがヤマハにやってきたので、その年からヴァレンティーノ担当になった。2004年から2019年現在に至るまで、ずっとヴァレンティーノと仕事をしている。
趣味はサイクリング(画像1、画像2)。自転車にテレメトリー用の電子装置を付けているらしい。また、マラソンを走ることもある。
音楽や映画が好き。映画はマトリックスがお気に入り。音楽を聴くためiPodは必需品だという。また、飛行機移動の時間も長いので、ジェフリー・ディーヴァーやジョン・グリシャムの小説も読む。
顎に三角形のヒゲを生やすスタイルを長く続けている。
娘さんが2人いる。1人は2004年頃生まれ、1人は2007年頃生まれ。
ヤマハワークスは「ライダーが走っているときは全員起立だ!」という社風があるのだが、ウーチョたち部外者はその社風に従う義理がないので、椅子に座っている。マッテオ・フラミーニはウーチョと仲が良いので、ウーチョたちと一緒に座ってレースを観ている。
TwitterアカウントとInstagramアカウントがある。
ヴァレンティーノ・ロッシのチームにいると、有名人がちょくちょくやってくるので、その人と一緒の写真を撮ることができる。(画像1、画像2、画像3、画像4)
(この項の資料・・・記事1、記事2、記事3、記事4)
オーストラリア人。2000年からヴァレンティーノのメカニックになった。
ニュージーランド人。ただし、生まれはオーストラリアのブリズベン。Stephensはつい「ステフェンズ」と読みたくなるが、「スティーヴンズ」と読むのが英語圏の慣例である。
2003年以前からヤマハワークスにいた。2003年はカルロス・チェカのメカニックだった。ヴァレンティーノ・ロッシが2004年初頭に移籍してきたので、そのときからヴァレンティーノ・ロッシのチームに所属している。
長身で、国際中継にもよく映る。このレースではヴァレンティーノがアルヴァロ・バウティスタに追突されて転倒したので、アレックス・ブリッグスとともに床に座り込んでしょんぼりしている様子が映っている。
インタビューに答えている。
ベルギー人。同国はフランス語圏に入っているので、フランス語読みに「ベルナール」と読む。英語圏風に読むと「バーナード」となる。
13歳頃にバイクに乗り始めた。両親はアスファルト路面を速く走ることに反対していたので、トライアル(岩などの障害物をよじ登る競技。こんな感じの競技)を始め、2年間選手活動をした。奥さんと娘さんがいる。(この記事が出典)
天然パーマが目印。
大ベテランで、この本の86~91ページに特集が組まれているほどである。18歳でベルギーのトライアル・チャンピオンになったこともあるが、トライアル世界選手権に参戦するのは諦めてメカニックになった。
1985年からMotoGP最大排気量クラスのランディ・マモラのチームに参加した。1986年にはランディ・マモラがケニー・ロバーツ・シニア率いるチーム・ロバーツに移籍したので、ベルナールもついでに移籍した。1988年からケヴィン・マギーを担当し、1989~1993年はウェイン・レイニーを担当している。
1994年前半はダリル・ビーティーを担当し、1994年後半から1996年まで阿部典史を担当した。
1996年をもって、ケニー・ロバーツ・シニア率いるチーム・ロバーツはヤマハ陣営を離れて独自路線を突き進むことになり、モデナスの3気筒バイクにケニー・ロバーツ・ジュニアを乗せることになった。1997~1998年のベルナールはジュニアを担当した。
1998年限りでベルナールはチーム・ロバーツを離れた。ベルナールはジェレミー・バージェスに声を掛けられ、レプソルホンダのミック・ドゥーハン・チームに参加した。
2000年からヴァレンティーノ・ロッシがホンダ陣営に入ったので、ベルナールはジェレミー・バージェスとともにヴァレンティーノのチームに入った。
2000年から2019年現在までずっとヴァレンティーノ・ロッシと行動を共にしている。
オーストラリア人。この写真の一番左の白髪。愛称はGazza。
1952年頃生まれで、1993年からチーム・ロバーツに参加している。阿部典史、ケニー・ロバーツ・ジュニア、マイク・ヘイルの担当をした。
1999年末にチーム・ロバーツを離れてレプソルホンダに入りジェレミー・バージェスの部下となった。2000年から2016年までヴァレンティーノ・ロッシのチームに入った。
2016年をもってメカニックを引退したので、アレックス・ブリッグスに慰労されている。
アメリカ人で、カリフォルニア州南部生まれ。黒縁眼鏡が目印。奥さんはイタリア人で、イタリア語を流暢に喋る。
19年連続でドゥカティのメカニックだった。2011~2012年はヴァレンティーノ・ロッシのチームに参加していて、2013~2016年はアンドレア・ドヴィツィオーゾのチームにいた。
2016年になって、ゲイリー・コールマンの後任として引き抜かれた。
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最終更新:2024/04/28(日) 15:00
最終更新:2024/04/28(日) 15:00
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