ゴヤ(貨物船)とは、ノルウェーが建造していた貨物船である。第二次世界大戦中の1940年4月4日に進水するも、ヴェーゼル演習作戦で侵攻してきたドイツ軍に拿捕され、1942年1月6日に完成。バルト海でUボートの標的艦を務めた。1945年4月16日、避難民を満載している時にソ連潜水艦L-3の雷撃を受けて沈没。
元々はノルウェー向けの貨物船として建造されていたものを、ドイツ海軍が拿捕したもの。工事を引き継いだドイツの手で1942年1月6日に完成した。戦争末期まではバルト海でUボート戦隊の補助輸送船を務めた。ゴヤの名前を飛躍的に高めたのが1945年4月16日の沈没であろう。ソ連潜水艦L-3の雷撃を受け、乗客約6000名が死亡。これはヴィルヘルム・グストロフに次ぐ2番目に犠牲者が多い海難事故であった。
要目は排水量5230トン、全長146m、全幅17.4m、出力7600馬力、最大速力18ノット(33km/h)、載荷重量7500トン。
1940年、ノルウェーのベルゲンに拠点を置く海運会社J・ルートヴィヒ・モウィンケルス・レデリ向けの貨物船として、オスロのアーケルス・メカニスケ・ヴェルクテッドの第479造船所で起工。4月4日に進水式を迎えた。
ところがその僅か5日後、ドイツ軍がヴェーゼル演習作戦を発動しノルウェーへの侵攻を開始。オスロは首都だったため降下猟兵による電撃的な制圧を受けてしまった。そして6月10日にノルウェー政府が降伏。ヒトラー総統は軍の輸送手段とすべく拿捕を命じ、オスロにて建造途中だったゴヤはドイツ軍に接収、ドイツの手で工事を再開した。
1942年1月6日に竣工。ドイツの国旗を掲げてバルト海で活動するUボート戦隊の補助輸送船となる(850名の兵員を載せられる兵員輸送船に改装されたとも)。
1943年8月1日からメーメルに移動し、現地で第24潜水隊群の雷撃標的艦を務めた。
1944年6月22日より始まったソ連軍の一大反攻作戦ことバグラチオン作戦により東部戦線が崩壊。全てを呑み込む赤き津波に追われ、壊走する部隊と難民が一斉に西方へと逃げ始めた。12月に入るとメーメル、ダンツィヒ、ゴーテンハーフェンといった沿岸部の都市にドイツ軍50万人とドイツ系避難民150万人が孤立。既に陸路は寸断されて帰国の手段は海路のみに限定されていた。海軍船舶部門長コンラー・エンゲルハルト少将は22隻の客船からなる艦隊を編制して来るべき撤退作戦に備える。
1945年1月13日、ソ連軍第3ベラルーシ方面軍による東プロイセン攻勢が開始され、間もなく東プロイセンとの連絡が途絶えた。1月23日、完全包囲された東プロイセンの住民及び兵士ら数十万を救出するため、カール・デーニッツ元帥は「ソ連軍の作戦地域外への港への撤退を開始せよ」と指示し、ダイナモ作戦を上回るハンニバル作戦が開始。作戦全体の責任はオットー・クメッツ提督が負った。大型客船は勿論の事、100トンに満たない水雷艇やはしけに至るまで、今すぐ動ける船舶約1000隻が東プロイセン唯一の良港ゴーテンハーフェンにかき集められた。その中にはゴヤも含まれ、船長プルンネケ大佐の指揮を受けながら難民輸送に従事する。動けない重傷の兵士のために1000床以上の病床が装備されていたようで病院船の役割も担っていた。ただし赤十字の塗装といった病院船の装いをしていなかった事から常にソ連の潜水艦や魚雷艇の標的になったという。
撤退作戦における最大の脅威は、バルト海西部からポンメルン海域に至るまでの海域に敷設されたイギリス軍の機雷であった。このため航路の強制封鎖が度々発生。その他の海域ではソ連軍が地上作戦の支援に注力していた影響で空からの妨害は比較的弱かったものの、代わりにダンツィヒ湾とポンメルン湾の奥深くに潜水艦を忍ばせ、少なくない被害を出している。
1月30日、バルト海に侵入していたソ連潜水艦S-13の雷撃により避難民を満載したヴィルヘルム・グストロフが沈没。死者は9500名以上に上るという史上最悪の海難事故を引き起こした。2月9日には同じS-13の雷撃でジェネラル・フォン・シュトイベンが撃沈されて推定4500名が死亡。加えて3月23日よりソ連軍が潜水艦の増援を派遣。そしてこれらの出来事はゴヤに降りかかる災厄の前兆となるのだった。
4月15日朝、掃海艇M356とM358に護衛されたゴヤはクローネンフェルス、メルカトルとともに2万人以上の兵士や難民を乗せてヘラ港を出港。行き先はドイツ本国であった。ゴヤには定員オーバーを承知で負傷兵と難民を乗せており、記録では6100名の乗客がいたとされるが実際はそれ以上乗せていたと思われる。
出港から4時間後、ヘラ半島の南端に近づいた時、船団はソ連軍のイリューシンIL-2から爆撃を受けた。護衛艦艇の対空砲火により1機を撃墜したものの航空機修理船ボエルケが大破炎上して脱落(翌日沈没)。ゴヤには1発の爆弾が命中したものの被害は最小限に抑えられた。半島を回ってダンツィヒ湾に出た後、ロゼウィエ岬北方沖で機雷敷設任務に就いていたソ連軍潜水艦L-3に発見されてしまう。
当時船団はL-3から離れており、速力も速かったのだが、クローネンフェルスのエンジントラブルが原因で船団は速力を下げざるを得ず、また修理の目的で20分間洋上停止。これが雷撃を容易なものにしてしまった。
1945年4月16日23時52分、L-3は4本の魚雷を扇状に発射し、このうち2本がゴヤに命中、1本目は船体中央部に、2本目は船尾に直撃した。被雷の衝撃は凄まじく、折れたマストが最上階で眠っていた難民を圧し潰し、巨大な火柱と煙が立ち上り、船体が真っ二つに折れた。
被雷から僅か4分でゴヤは沈没。旅客船としての安全装置を持っていなかった事、あまりにも沈没が早かった事から大半の乗客が脱出する間もなく溺死したか、バルト海の冷たい海水により低体温症で死亡したと見られる。乗船者数が判然としていないため犠牲者の数は不明だが、最低でも6000名が犠牲になったとされ、ヴィルヘルム・グストロフに次ぐ最悪の海難事故となってしまった。およそ182名(兵士176名、民間人6名)が掃海艇に救助されている。
ちなみに戦後の1946年、賠償船としてJ・ルートヴィヒ・モウィンケルス・レデリ社に引き渡されたドイツ船舶カメルーンを、翌年ゴヤに改名し、1949年から1952年にかけて移民輸送に使われた。
ゴヤの沈没地点は前々からポーランドの漁師に知られていたが、詳しい調査はされず、ポーランド海軍の地図に「沈没船No.88」と記されているだけだった。沈没から58年が経過した2003年4月16日、ウルリッヒ・レストマイヤー率いる国際探検隊がバルト海の海底76mに横たわるゴヤの残骸を発見。驚くほど良好な状態を保っており周辺には人骨が散らばっていた。ここで命を落とした約6000名に哀悼の意を示すため、水面に花束が投じられた。発見後間もなくしてポーランド海事局が正式に戦没者墓地と認定。沈没船から500m以内の潜水は違法となった。
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最終更新:2025/12/17(水) 23:00
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