バシレイオス2世 単語


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バシレイオスニセイ

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バシレイオス2世は、東ローマ帝国マケドニアの第9代皇帝(バシレウス)。958年生まれ、1025年

960年から976年までは“お飾りの共同皇帝”であったが、976年以降、自身がする1025年までは単独皇帝として大権を振るい、独裁政治のもと帝国に最盛期をもたらした。大反乱の鎮圧、バルカン半島の再征、財政や社会基盤の見直し等によって、東ローマ帝国力を大いに高めた、帝国史屈の名君である。

ブルガリア人殺しを意味する「ブルガロクトノスΒουλγαροκτόνος」という渾名が有名で、「バシレイオス2世“ブルガロクトノス”Βασίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος)」と表記されることも多い。

背景

地中海内海とする大ローマ帝国も、7世紀以降はイスラーム勢力や異民族の侵攻により大幅に弱体化していった。帝国の支配力は後世東ローマ帝国ビザンツ帝国)と称されるほどに限られていき、諸勢力の動向を強く意識せざるを得ない状勢が続く。

しかし東地中海世界で衰えゆく東ローマ帝国も、10世紀後半からは攻勢に転ずるようになる。

サラセン人(イスラム教徒)も恐怖ざめて死ぬ」――マケドニア7代皇帝ニケフォロス2世フォカスは、シリアアンティオキアを300年ぶりに取り返し、かのイェルサレムや古都ローマさえ射程圏とした。続く8代皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの時代には、キエフ大公の軍隊を撃破し、さらにブルガリアを制したばかりかシリアパレスチナを部分的にではあるが占領した。東ローマ帝国黄金の繁栄を謳歌しつつあったのである。

誕生、9代目のバシレウス

958年、バシレイオスはマケドニア6代皇帝ロマノス2世長男としてコンスタンティノポリスに生まれた。

963年にロマノスが亡くなると順当に位に就くが、当時5歳のバシレイオス2世に政治を取り仕切る力などあるはずもなく、オファノが摂政という形で実権を握った。後にテオファノは政治基盤を盤石なものとすべく、大貴族将軍ニケフォロス・フォカスを重用し、皇帝ニケフォロス2世フォカスとする。この時点でバシレイオス2世はニケフォロス2世との共同皇帝となるが、いうまでもなくバシレイオス2世の方は「お飾り」に過ぎなかった。

ところが969年にもなると、バシレイオスのオファノはニケフォロス2世に代わる新たなパートナーを選ぶ。それが後にヨハネス1世となる、ヨハネス・ツィミスケスであった。事は着実に進んでいき、ヨハネスとテオファノの陰謀はニケフォロス2世の殺という形で成就。ヨハネスはそのままヨハネス1世ツィミスケスとなり、バシレイオス2世との共同統治を行った。もっとも、この段階においてもバシレイオス2世は傀儡に過ぎなかったのだが。

単独統治者(モノクラトール)へ

976年にヨハネス1世ツィミスケスがシリア遠征中にすると、晴れてバシレイオス2世は単独の皇帝となることができた(当時18歳)。しかし彼にとっての苦難はまさにここからであった。

実権は宦官が握っていたのである。また「前の二人が非血縁者なら」ということで、数々の部外者が位の簒奪を画策、反乱が相次いだ。さらにこの頃、先ヨハネスが倒したはずのブルガリア帝国復活し、再び東ローマ帝国へ圧を加えていた。

動の13年間の末、バシレイオス2世はようやく「ただ独り皇帝」となった。『年代記』を著したミカエル・プセルロスく、これより後のバシレイオスは「をも疑う傲慢秘密義的な人間」になったという。理もなかろう。幼き頃から政治具とされ、先らの装飾品となり、そのうえ多くの臣下に裏切られたのだから。

マケドニア文化色彩の強い王であった。バシレイオス2世の曽祖父であるレオーン6世は「フィロフォス哲学者)」と称され、神学に精通し、『バシリカ法典』に見られる法の編纂に尽力した。祖父コンスタンティノス7世は古典ギリシア文化を復し、学問を賑わせた文人皇帝であった。このような系の中で、ことにバシレイオス2世は学者らを侮蔑し、軍人的要素を強めていく。それもこれも先の相次ぐ反乱の故である。文化的に優れた王の中で、バシレイオス2世の存在は際立っていたことだろう。……そうした意味でも、彼は「ただ独り皇帝」であった。

ブルガロクトノス

長らく東ローマ帝国ブルガリア帝国に悩まされ続けていたが、先述の通りヨハネス1世ツィミスケスの代で一旦はなりを潜めた。しかしバシレイオス2世が内の反乱に忙殺されていた頃合いを見て、ブルガリア帝国は急速に回復、復権し、再度東ローマ帝国圧迫するようになった。985年に遠征が失敗したことは既に述べたが、反乱を鎮圧し外へを向けたバシレイオス2世が、それを放っておく理などはなかった。

速バシレイオス2世はクロアティア現在モンテネグロ付近であるディオクレア、そしてヴェネツィア共和国と協力して西方を安定化させた。また西グルジアとも同盟し、東方をも安定化させ後顧の憂いを断つ。

こうして準備を整えた彼は、990年末からブルガリア帝国に対し挙兵、戦いを開始した。991年にはマケドニアに兵を進め、優勢となるも、994年にイスラム教であるハムダーン(属)がファーティマに膝を曲げ、助力を請うた。すると、バシレイオス2世はブルガリアからは一旦離れ、26日かけて東のシリアへ横断、17,000の兵を率いてアンティオキア(シリア)へ到着この大々的な決断に脅えたファーティマが撤退したのをに、バシレイオス2世は一度都に戻る。

そうして998年には再びブルガリア遠征を開始した。かと思えば、アンティオキアに危機が訪れると、グルジアアルメニアを属としつつも今度はそちらへと向かう。999年にはシリアを、1000年には西グルジアを制し、1001年にはバルカン半島へ渡り、ブルガリア帝国を制圧していく。バシレイオス2世の軍は勢いそのままでマケドニアを奪う。

伝説

バシレイオスは他の皇帝たちのように、に出しての終わりに戻るという作戦はとらなかった。
彼にとって帰還の時期は作戦が成功したときであった。
彼は然との暑さ、の寒さに耐えた。あらゆる欲望を厳しく押さえた鋼のような男であった。

井上浩一著『生き残った帝国ビザティン』 p.179の『年代記』の引用より

1014年、ついに彼にとっての「帰還の時期」が訪れた。すなわち作戦の成功、帝国勝利である。

レディオンの戦いにおいて大勝したバシレイオス2世の軍は、そのままブルガリア兵14,000人を捕虜とした。すると彼は恐るべき行動に出る。

皇帝は捕虜としたブルガリア兵を人ずつのグループに分け、各グループのうち九十九人の両をくりぬき、残りのひとりだけは片を残して案内役をさせて、ブルガリア王のもとへ送り返したのである。
ぞろぞろやってくる盲人の列をみて王は驚きのあまり倒れ、二日後に死んでしまったという。
まもなくブルガリア全にビザンティン帝国に併合される。

井上浩一著『生き残った帝国ビザティン』 p.180より

ついにバシレイオス2世は東ローマ帝国の宿敵ブルガリア帝国を討ち滅ぼした。この脅威的な逸話から、彼は「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」と渾名されるようになるのである。1018年にはブルガリアにて抵抗があったみたいだが、もはや彼らの力ではバシレイオス2世に太刀打ちできなかった。

こうしてバシレイオス2世は、東ローマ帝国に最大級の平和と繁栄をしたのだった。

専制君主制の頂点

引き続きミカエル・プセルロス著『年代記』の言葉を借りるならば、バシレイオス2世の治世は「他人の忠告を聞かず、また法にも従わず、何もかも自分の思いつくままに決める」統治であった。これはいうまでもなく独裁政治である。まさに彼の時代に、古代ローマ帝国ディオクレティアヌスから始まる専制君主制は頂点に達したことが伺えよう。

バシレイオス2世の独自性は、ときに文化や学問においても垣間見られた。彼は歴代東ローマ皇帝とは打って変わり、儀式の類を好まず、学者に対してはある種の軽蔑をしていた。彼の帝国の版図を押し広げることに他はなく、軍事を除く学びには大した興味を示さなかったのである。

臣民に対する態度にも、その絶大なる専制君主制が有効に働いていた。

彼は農民に対して穏健に接し、大土地所有者などの大貴族には高圧的に接していた。バシレイオス2世は「東ローマ帝国の基盤は農民の税にある」という前提をよく鑑みていたし、何より青年期に貴族らに反乱を起こされていたから、なるべく大きな財を持つ諸侯が優位に立たたないよう、努力していたのである。

彼の農民に対する優遇は諸制度にも見られる。996年には貴族が貧民に償で土地を返還する法を確立し、さらにその数年以内には「税を払えない農民の責任貴族が負う」という連帯責任制度(アレレギオン制度)を立した。

バシレイオス2世はまた占領後の領地には穏健な姿勢を見せ、たとえばブルガリアに対しては元来の習慣を考慮した上で適度に自治権を与え、緩やかに統治してみせた。

帝国史の最高峰

並びない戦勝により、バシレイオス2世が統治する東ローマ帝国黄金の繁栄を謳歌した。

その版図は東はアルメニアシリアから西は南イタリアまで、北はドナウから南は地中海々にまで至る。さらに素晴らしいことに、それらはどこであろうと平和で安定しており、帝国にとって厄介な敵など周囲のどこにも存在しなかった。帝国にとっては久しい表現だが、まさにこの時代は「パックス・ロマーナ(ローマ平和)」といえよう。

かしき栄はまた内にも及ぶ。殿倉庫は数えきれないほどの財宝で埋め尽くされており、金銀煌めく物品の数々はこれでもかと積み上げられていた。これでは倉庫の容量が足らないからと、改築までしたほどである。ここに庫をにしてでも最大版図を実現した、ユスティニアヌス大帝との決定的な違いを確認できよう。

1025年、それは東ローマ帝国が最も繁栄した時期であった。そして同時に、帝国に最盛期をした大帝、バシレイオス2世の亡くなった年でもあった。偉大すぎる大帝は、シチリ遠征の準備段階でこの世を去ったのだった。

専制君主制をこれほどまでに有効に活用したローマ皇帝は、このバシレイオス2世をおいて他にいないだろう。そうした意味でも彼は「ただ独り皇帝」である。

が、もちろん初代ローマ皇帝アウグストゥス、至高の皇帝トラヤヌス、東西統一のコンスタンティヌス大帝の時代と較すれば、バシレイオス2世の治世期は領土において幾分か見劣りするだろう。だが彼の偉大なる戦勝と安定した治世、壮麗なる繁栄は、先の偉大なるローマ皇帝にも匹敵している、といっても過言ではないはずだ。

バシレイオス2世には配偶者も子もいなかった。そのような点でも彼は「ただ独り皇帝」であった。彼の一の失点があるとすれば、その優れた後継者を残さなかったという点に尽きるだろう。

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