「内田有作」(うちだ・ゆうさく)とは、「仮面ライダー」等の東映特撮TV番組を世に送り出し、千年王国を夢見た生田スタジオ所長である。
父は映画監督「内田吐夢」。兄は東映の特撮TV番組を数多く手がけた監督「内田一作」。
1934(昭和9)年生まれ。東映京都撮影所を経て東映東京撮影所の制作主任・助監督となり、父「内田吐夢」監督の映画「飢餓海峡」や「大菩薩峠」、高倉健主演の映画「暴力街」や三國連太郎主演の「無法松の一生」といった映画を手がけ、その後は、「柔道一直線」の制作担当を務めた。
1971年頃、組合との労使紛争により撮影時間が限られていた東映東京撮影所で、毎日放送と組んでのヒーローもののTV番組の企画が立ち上がるも満足に撮影できる状況ではなかった為、当時は新宿東映の支配人をしていた内田有作が、組合に見つからない場所で番組を制作する為に、折田至とともに探しあてた場所が神奈川県川崎市多摩区細山にあった貸しスタジオだった。
スタジオを借り上げて東映生田スタジオと名付けた内田有作は、組合に見つからないように自らの人脈を駆使してスタッフを集めて機材を調達し、造形はエキス・プロに、アクションは大野剣友会に依頼した毎日放送とのヒーローものの企画を制作した。これこそウルトラマンと共に日本二大特撮ヒーロー番組に数え上げられる「仮面ライダー」である。
第1話放映前に主役の藤岡弘が事故により複雑骨折した事で暗雲が垂れ込めたかにみえたが、柔道一直線に出演していた佐々木剛を抜擢して制作を続け、毎日放送側にも1年以上秘匿した設備のオンボロさや、スタッフに福屋の赤弁当を毎日支給した程周囲に何もない僻地にあった生田スタジオは、恵まれた環境とは言えない様な状況だったが、内田有作に率いられたスタッフの情熱により、仮面ライダーは空前の大ヒット作となった。
仮面ライダーのヒット後も奇跡的に組合に見つかる事はなく、内田有作はプロデューサーの「平山亨」や「阿部征司」らと共に
しかし、潤沢とは言えない制作費もあって赤字が続き、生田スタジオ設立から4年後、累積赤字の責任をとって内田有作は東映を辞した。退職に際しては、他の生田スタジオスタッフに責任が及ばぬように手配し、生田スタジオで飼われていた犬のシロを退職金がわりに連れて行った。
その後は東北新社でアニメ映画「はだしのゲン」の制作に携わったものの、晩年は警備員やシルバー人材センターで働く等、映像業界とは疎遠になっていたが、当時のスタッフや役者陣たちとの交流は続き、2011年7月には悲願であった「仮面ライダー40周年記念 ライダー大集合!!」と言う仮面ライダー1号から仮面ライダーBLACKRXまでを演じた俳優陣やスタッフを招いての一大同窓会イベント開催に尽力した。
イベント開催中に、点滴の管をつけたまま車椅子にのって現れる等、体調面の問題を抱えていたものの、
「今度は藤岡弘、が監督、佐々木剛がチーフ助監督で新作の「仮面ライダー」を撮ってほしい。アクション監督は宮内洋、アクション助手に千葉治郎だ」
とぶちかます等、生田スタジオのボスにかげりは見えないかに思われたが、イベント終了後の2011年12月7日、仮面ライダーの原作を手がけた石ノ森章太郎・仮面ライダーのアクションを任せた大野幸太郎と高橋一俊・仮面ライダーを演じた中村文弥らの元へと旅立った。77歳没。
内田有作が夢見た生田スタジオ千年王国はかなわなかったが、内田有作が世に送り出した仮面ライダーは、40年の時を超えて新たな世代へと受け継がれている。
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最終更新:2025/12/11(木) 03:00
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