大福餅事件 単語


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ダイフクモチジケン

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医学記事 【ニコニコ大百科 : 医学記事】
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大福餅事件とは、昭和11年西暦1936年5月静岡県浜松市で発生した、サルモネラ菌による大規模な食中毒事件である。

浜松第一中学校」(2020年現在の「静岡県浜松高等学校」)の生徒やその家族を中心として2200名以上の患者が発生。同校の関係者だけでも44名が死亡(総死者数を45名あるいは46名とする資料もある。後述)する大惨事となった。

上記の学校名から「浜一中大福餅事件」「浜松一中食中毒事件」「浜松中大福もち食中毒事件」などと呼ばれることもある。

概要

昭和11年5月10日浜松第一中学校では運動会が挙行されていた。徳川家康軍と武田信玄軍が戦った「三方ヶ原の戦い」を模した「野仕合」と呼ばれる勇壮な競技なども行われ、敢闘した生徒たちは閉会式の後に毎年の恒例として紅白大福餅6つの入った包みを渡され、帰宅した。

日511日、教師生徒、そしてその家族から食中毒症状を訴えるものが出始め、その患者たちを診療した医院からの報せによって学校も集団食中毒の発生を把握した。

この食中毒患者らの症状は重篤であり、更に翌日の5月12日からは患者の中から死亡する者が相次いだ。生徒教師だけではなくそ家族患したが、家族のうちの落命者の中には幼少の者(生徒ら)や高齢の者(同じく祖父ら)が多かったようだ。

患者の中には自らは直接大福餅を食していなかった者もいたとのことで、患した家族の看病をするうちにサルモネラ菌で汚染された便から自らも感染したものと思われる。

死者数

最終的な死者は44名とされることが多い[1]ようだが、45名[2]、あるいは46名[3]などとする資料もある。

2020年現在も、浜松高等学校にはこの事件の慰霊碑が残されている。

慰霊碑

昭和十一年五月十日校内運動行す終つて恒例に依り紅白六個を生徒に分つ何ぞ知らん菌を含まんとは一夜にして病床に呻吟する者二千二難に殉する者生徒二十九名家族十五名の多きに及ぶに未曾有の悲惨事たり
保護者校友相謀りて資を集め本教育其他篤志の浄財を加へ茲に碑を建て以てを弔ふ

昭和十二年五月建之

中島
松下[4]

この慰霊碑には「生徒29名家族15名」と明記してあるため、浜松第一中学校の死者は合計44名で間違いないのではないかと思われる。

この事件に際して、実は浜松市内では浜松第一中学校以外でもサルモネラ菌による食中毒患者が同時期に発生していた。問題の大福餅を作った菓子店が、余った大福餅店舗にて販売したり、経営する食堂にて提供したりしていたためであると言われる。それら「浜松第一中学校関係者以外の患者」の中で1~2名が死亡していて、それを合わせると45~46名になる、ということであろうか。

44名~46名のいずれであっても、単独の細菌食中毒事件で生じた死者としては、おそらく内の記録に残る上で最多のものであったかと思われる(2020年現在)。単独の事件や細菌性という条件に限らなければ、1942年から1950年にかけて浜名湖で散発的に発生し続けたアサリカキ貝毒による集団食中毒でこれをえる死者が出ていた(死亡者数126[5]など、こちらも諸説あり)ようだ。奇しくも本事件と発生場所や時代が近い。

原因

この運動会提供された大福餅が原因であったことはくから判明したようだが、では大福餅の中の何が食中毒の原因となったのかについては当初は意見が分かれていたようだ。

砒素と言った物によるものという説、さらにはそういった物が意図的に混入されたのではないかという犯罪説もあったらしい。この大福餅を納入した菓子店に恨を持つとみられた者が、警察に事情聴取されたりしたという。もし意図的な犯罪であれば、日本犯罪史上類を見ない大量殺人事件であり、津山事件(いわゆる「津山三十人殺し」)の死者30名や京都アニメーション放火事件の死者36名すらも駕してしまう。

しかし、この菓子店の製造所の不良な衛生状況、患者の便から検出したゲルトネル氏菌(サルモネラ菌の一種。現代で言うサルモネラ・エンテリティディス(Salmonella enteritidis)にあたる)、浜松市内から捕獲したネズミからもゲルトネル氏菌が検出されたことなどから最終的には、製造過程において大福餅に混入してしまっていたゲルトネル氏菌による細菌食中毒であったと結論付けられた。

また、元々の製造過程の衛生管理に問題があったこともさることながら、6000個以上の大福餅と言う大量の注文を単独の菓子店が受注してしまったこともこの事件につながったものと思われる。この菓子店はこの大量受注に応えるため、数日間かけて大福餅を製造していた。つまり古いものは製造されてから数日間経過していたのである。この間に、ゲルトネル氏菌が大福餅の中で増殖していたものと考えられる。

また生徒らが運動会で奮闘し、疲労困憊して抵抗力が落ちていた状態であったことも死者数が多くなったことに関連したかもしれない。

古い時代の事件ではあるが、食中毒の発生とその被害の極端な拡大につながったそれぞれの要素は、気を許せば現代でも再現されかねないものも少なくない。食中毒予防において重要な教訓をのこした事件であったといえよう。

陸軍

前述のとおり、この事件においてはこの浜松第一中学校生徒職員やその家族だけではなく、浜松市内の様々な場所で問題の菓子店に由来する食中毒が同時多発的に発生していた。そして浜松市内に存在する陸軍部隊の隊員の中にも42名の食中毒患者が発生していた。運動会の開催日と同じ5月10日に外出して、その途中に問題の菓子店が製造した菓子を口にした陸軍軍人らがおり、彼らが発症したようだ。

そのこともあってか、東京陸軍医学校の防疫研究室からは、「北野政次」を含む複数の軍医が浜松に出向。血清などを用いて原因菌がゲルトネル氏菌である事の明などに貢献したという。さらにその後、防疫研究室の幹であった軍医「石井四郎」も浜松市入りし、原因の究明に協力している。[6]

(なお、この陸軍医学校防疫研究室に所属する軍医「北野政次」および「石井四郎」はどちらも、後に「関東軍防疫給水部本部」、通称号満洲七三一部隊」、すなわちいわゆる「731部隊」の部隊長を務めることになる人物である。)

ちなみに浜松市内の陸軍部隊では、同年の8月にも同じくゲルトネル氏菌による集団食中毒が発生している。その調においては5月の大福餅事件との関わりの有も調べられたようだが結局関連はかったようだ。こちらの8月の事件の原因食品は、「茄子糠漬け」であったとのことである。当時の資料では5月の事件を「第一次」、8月の事件を「第二次」と位置付けているものもある。[7]

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *辺野喜 正夫, 細菌性食中毒, 昭和医学会雑誌, 1963-1964, 23 巻, 8 号, p. 330-339exitなど
  2. *下條 久馬一, 今日ノ「パラチフス」論Salmonella菌簇論 (其十一), 日本傳染病學會雜誌, 1936-1937, 11 巻, 10 号, p. 1203-1213exitなど
  3. *静岡警察生課, ヲ中心トシセル食中毒事件ニスル状況報告書(ただしウェブサイト浜松一中現北高校の毒大福餅事件の慰霊碑|かたむき通信exit」が引用したものの孫引き)、および常石敬一, 戦場の疫学, 海鳴社, 2005年exit
  4. *ウェブサイト浜松一中現北高校の毒大福餅事件の慰霊碑|かたむき通信exit」より転載
  5. *服部 安藏, 秋葉 朝一郎, アサリ毒に関する研究 (第2報), YAKUGAKU ZASSHI, 1952, 72 巻, 4 号, p. 572-577exit、および、野口 玉雄, マリントキシン, 日本水産學會誌, 2003, 69 巻, 6 号, p. 895-909exit
  6. *常石敬一, 戦場の疫学, 海鳴社, 2005年exit
  7. *平野 林, 陸軍部隊ニ發生セルゲルトネル氏腸炎菌ニ依ル食中毒, 日本傳染病學會雜誌, 1936-1937, 11 巻, 2 号, p. 125-140exit、および平野 林, 陸軍部隊ニ發生セルゲルトネル氏腸炎菌ニ依ル食中毒 (承前), 日本傳染病學會雜誌, 1936-1937, 11 巻, 3 号, p. 247-269exit
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