日章丸事件 単語

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ニッショウマルジケン

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日章丸事件とは、1953年に発生した際的事件である。イギリス艦隊包囲下のイランから日本の日章丸が石油を直接買い付けた事でイギリスとの国際問題に発展した。

概要

時に1950年代初頭。中東イラン独立ながら、その実態はイギリスの半植民地状態であった。内には世界最大と言われた石油資産があったが、イギリス資本が介入した田は全てイギリス石油メジャーアングロ・イラニアン社」に押さえられてしまい、勝手に売買出来ないようにされていた。また当時アングロ・イラニアン社はイギリス政府を後ろに据えた、世界中の原油を支配するスーパー大企業。産出した石油はことごとくイギリスに搾取され、せっかく石油というの生る木を持っていながらイラン政府民ともに十分な利益を得られず、塗炭の苦しみに喘ぐ。民のうち80栄養失調で苦しんでいたのである。このような背景からイラン内ではイギリスへの反発が強まりつつあった。1951年、自石油利権が物とするイギリスに業を煮やしたイランは、民を養うために田の有化を宣言。イギリスの手から田を奪取する。

当然イギリスイランの行為に激怒イラン田の所有権はイギリスにあるとし、他の買い付けを全面的に禁止。七つのを支配する自慢のロイヤルネイビー、つまりイギリス海軍を出動させてペルシャ湾を上封鎖、実行使でイラン社会から締め出そうと画策した。実際イタリアスイス共同資産のタンカーアラビア英海軍に拿捕される事件が起きている。この事件を機にイギリスの態度はエスカレート。「イラン石油を買った者は如何なる処置も辞さない」と、撃沈すら示唆した。脅迫にも近いイギリスの発表に各イランから手を引き、日に日に孤立を深めていく。更に当時の英外相ハーバードモリソンはイランの政権を転覆させるための策略を検討し始め、戦争の兆だとして全世界が注。一連の出来事は田がある地名から取って「アーバーダーン危機」と呼称される。

そんな中、日本出光興産社長出光佐三は強権をかざすイギリスに疑念を抱き、加えて上封鎖に国際法上の正当性がいと摘。イギリス海軍の封鎖を掻い潜ってイランから石油を買い付けようと決意した。その前準備として、第三を経由するというカムフラージュを施した上で専務イラン派遣、交渉に入った。イラン側は驚愕しながらも、「航路をサウジアラビアへ向かうよう偽装」「日本政府外交上不利益を与えないよう綿密な計画」「航中の危険回避」「際世論の動向」「国際法の調」など様々な取り決めを行って交渉は成功。そしてイランに向かう選ばれたのは1952年12月22日工したばかりの新日章丸(2代目)であった。元々はチャーターしたタンカーを使用する予定だったものの寸前でキャンセルされたため日章丸の使用に踏み切ったという。

1953年3月23日、行き先を偽装した上で日章丸は神戸港を出港。位置を特定されないよう線封鎖をしながらイギリス海軍の厳重な上封鎖を突破し、4月10日イランのアーバーダーン港へ事到着した。現地ではイラン民から熱な歓迎を受け、翌日の新聞には「イラン経済希望を与えるもの」だとして日章丸の姿を大々的に報道、また日本中小企業が大イギリスに挑戦したという事で世界中の新聞もこの事を報じ、出光の本社には記者団が詰め掛けた。「もう隠す必要はい」と考えた佐三は記者会見を開き、日章丸のアーバーダーン到着を正式発表した。日章丸は5日間ほどで石油2万2000キロリットルを積載して出港。機イギリス海軍の封鎖を突破し、5月9日神戸へ入港する。この痛快劇は敗戦で落ち込んでいた日本国民の心を奮起させたと言われている。

その後

を丸潰れにされたイギリス日本に矛先を向ける。「イラン石油アングロ・イラニアン社の所有物である」と東京地裁に提訴して差し押さえをめるとともに、日本政府に圧をかけて出光に対する処分を促し、駐英大使を呼び出して厳重注意を行った。一方、出光行動は隠密に行われたものだったため日本外務省イギリスからの抗議を受けて初めて事態を知ったとか。

日英が大いに揉めている間、日章丸は再びイラン石油の買い付けに向かい、6月7日にアーバーダーン港へ到着。イラン側は「ジャポン、ジャポン」と歓迎しながら石油価格を大幅に減額して日章丸を労った。イギリスの追及はであったが、世界中では出光行動を支持するが多数上がり、更に元々イギリス石油独占を快く思っていなかったアメリカ日本政府の肩を持って日章丸事件を黙認。裁判の方でも「イランアングロ・イラニアン社の契約は私的契約であり、イラン民法に従うべきである。よってイラン有化は正当」とし、訴えを退けた事でイギリスの全面敗北が決まった。アングロ・イラニアン社は控訴したものの2日後に取り下げ、1956年出光側の勝利で終結。

この一件により、イランの対日感情は良好なものになり、現在に至るまで友好関係が結ばれた。また日章丸事件は産と直接交渉した最初の例で、日本企業中東進出の第一歩となるとともに、石油メジャー市場独占を揺るがした。日章丸事件はイランで綿々とり継がれ、現代においても政府高官や最高導者ハメネイ師が日本外交する際に時々口にして謝意を述べる事があるという。

当初は日本の肩を持ったアメリカであったが、政権交代でドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任すると態度を一変し、CIAイランの政権転覆を命アジャックス作戦と呼ばれるクーデターを引き起こして出光との交渉に応じたモハンマド・モサッデク首相を失脚させ、皇帝ハンマド・レザー・パフラヴィ2世に実権を握らせた。

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