春の目覚め作戦(フリューリングス・エルヴァッヘン)とは、第二次世界大戦末期の1945年3月6日から3月15日にかけて、ハンガリー西部で行われたドイツ軍最後の攻勢作戦である。ベルリンに割くべき貴重な機甲兵力を失い、ドイツ軍が敗退した。
東部戦線が崩壊して以降、ソ連軍は津波のように進撃を続けていた。既に東プロイセンやポーランドは飲み込まれ、ソ連軍の最前線は首都ベルリンから約80kmにあるオーデル川にまで達していた。首都に危機が迫っていたが、ヒトラー総統の双眸は眼前の危機より攻勢作戦を注視していた。1945年2月13日、ソ連軍によってハンガリー首都ブタペストが陥落。ドイツ軍が保有する産油地域はツッステルドルフ(オーストリア北部)とバラトン湖南部だけになってしまった。ヒトラー総統は戦争継続には石油が不可欠だと確信しており、何としても奪われた油田を攻勢作戦を以って奪還したいと思っていたのだ。
2月21日、南方軍集団司令ヴェラー将軍、第6軍司令官ヘルマン・バルク大将、SS第6機甲軍司令ディートリヒ将軍が会談。翌日ヒトラー総統に4つの攻勢計画案を提示した。2月25日にヴェラー将軍がベルリンに赴くと、ヒトラー総統は攻勢計画にすっかり夢中になっていた。総統は攻撃を認可し、攻撃の重点をドナウ川に置く事に決めた。ちょうど春の雪解けによってソ連軍機甲師団の強圧が弱まっており、今ならブダペストを奪回しつつナジカニジャ油田を確保。ソ連軍を分断してドナウ川の対岸側へ追いやり、東部戦線の南翼を粉砕できるチャンスがあった。作戦が成功すればハンガリーからソ連第3ウクライナ方面軍を駆逐し、なおかつ石油も確保できて一石二鳥。ヒトラー総統は陸軍参謀本部の反対を押し切って作戦準備を命じた。彼は秘匿と称して事前偵察を禁じたため、ソ連軍側の配置や戦場の状況が分からなかった。
ところが攻勢に出るには明らかに兵力不足であった。機甲戦力の大半はバルジの戦いで損耗した、あるいはハンガリー国内で再編成を行ったものであり、ヒムラー長官の権限で優先的に武器が与えられていたSSすら武器の定数が満たせないほどだった。兵力不足を補うべくドイツ海軍の水兵に即席の訓練を施して歩兵にしたり、本来占領地域の治安維持が主任務のE軍集団まで投入。更にベルリンの防衛戦力からも抽出したという。こうして、かろうじて約14万の兵力が集められた。作戦は2月末までに整えられ、攻勢作戦は「春の目覚め」と名付けられた。かつて精強を誇ったドイツ機甲師団が春ですよーとソ連軍に春を告げに行くのである。銃弾と鉄拳によって。
しかしドイツ軍の不自然な動きと諜報活動によって、ソ連軍司令部に攻勢を察知される。ソ連軍はウィーン攻勢を一旦中止し、第6親衛戦車軍を含む増援部隊を第3ウクライナ方面軍に派遣。ベレンツェ湖の北区に布陣し、ブタペストに向かうドイツ軍を南東から挟撃できるよう整えた。またドイツSS機甲軍は新鋭のティーゲルⅡ戦車を初めて東部戦線に持ち込んだため、対策に自走砲を配置。ドナウ川の先にいる部隊に円滑な補給ができるよう、凍結した川の上に道路を作る荒業で補給路を確保。
2月末から作戦開始前夜の3月5日まで、天候は荒れに荒れた。ひどい降雪があったかと思えば、急激に気温が上昇して道路がデコボコになった。3月5日には天候が急変して大荒れとなり、ヴェラー将軍は作戦の延期さえ考えたが、ディートリヒ将軍の「攻撃準備完了、翌朝に攻撃できる」との報告を受けて決行を決意。
ハンガリー国内に入るには、西部に位置する巨大な湖「バラトン湖」を突破しなければならない。その東岸に進出するのは主力のSS第6装甲軍、それを左翼から第6軍(スターリングラードの戦いのものと同一)が支援。南岸へ進出するのはSS第2装甲軍の役割だった。
3月5日夜、ドラバ川南方のドイツE軍集団第91軍団が攻撃を開始。速やかにドニミホジャッツとバルボポを占領した。しかしSS第2機甲軍の戦闘準備が出来ておらず、いきなり歩調が乱れた。やむなく攻撃を翌日に延期したが、その間にソ連軍から猛烈な砲撃を受けた。道路にはいつの間にか地雷が敷設されていた。ソ連軍の素早い対応に、ドイツ軍情報部は「ソ連軍は明らかにこの攻勢を察知していた」とヒトラー総統に報告した。
ベルリンが包囲されつつある状況でまさか攻勢に出るとは思っておらず、一部のソ連軍は虚を突かれた。そこへドイツ第6機甲軍が襲い掛かり、戦線を押し戻す。8個師団中7個師団が機甲師団という恐るべき充足率を持っており、ソ連軍戦車と激突した。だが、あらかじめ準備をしていたソ連軍は対戦車縦深陣地(パックフロント)を用意していて頑強に抵抗。また雪解けによる泥濘は戦車の足をすくった。それでも進撃は続けられ、3月7日と8日の戦闘でSS第1機甲軍はサルビッツ運河西方のソ連軍陣地を突破して30km前進。シモントルニャまで進出した。防衛線を崩されたソ連軍は焦燥し、第27軍とその予備隊を全て前線に投入した。3月11日夜、ドイツ軍は運河南方に2つの橋頭堡を確保した。一方の第2機甲軍はソ連軍の猛攻にさらされ、わずか8km前進できたに過ぎなかった。
3月13日、45万の兵力を持つソ連第3ウクライナ方面軍が反攻開始。最も進出していた第1機甲軍がその矢面に立たされた。シオ運河の南では雪解けで地形がデコボコになっており、これまでになく戦車の移動に不適当だった。バラトン湖西岸の部隊と南方のE軍集団はソ連軍の攻撃により前進困難となった。さらに3月16日、ソ連軍はハンガリー国境を越えてオーストリア側からドイツ軍の背後を突こうとした。同時に総攻撃が開始され、各部隊は分断。各個撃破されていく。このままではバラトン湖西岸にいる部隊が包囲殲滅されるとして、18日にヴェラー将軍はついに作戦の中止を命令。ヒトラー総統からは死守命令が出されたが、それを無視して西方への退却を始めた。
3月20日、SS第6機甲軍の最後の部隊がバラトン湖から撤退。その直後にソ連軍第6親衛戦車軍が到達し、間一髪のところで虎口から脱した。しかし逃げ遅れたバルク大将の部隊はソ連軍に包囲され、一日半の間身動きが取れなくなってしまった。残存部隊はハンガリーを越えてオーストリアまで後退、作戦開始時より戦線が100kmも後退し、春の目覚め作戦は失敗に終わった。バルク大将はこのような報告を行っている。「軍隊の戦いぶりは、もはや本来あるべき姿ではない。兵士達はとにかく戦争に負けたといい、終戦直前に死ぬのはまっぴらごめんだと思っている。誰もが包囲される事を恐れ、その恐怖は高級司令部も冒し始めている」と。
ドイツ軍の損害は戦死約2万名、捕虜13万8000名にのぼった。この敗北でドイツの滅亡は避けられないと悟ったヒトラー総統は3月19日に焦土命令(ネロ指令)を出した。
掲示板
2 ななしのよっしん
2020/09/15(火) 23:22:22 ID: Zas1PYW0zh
すまない、ネロ指令はドイツ国民には自殺しろとは言っていなかったね
3 ななしのよっしん
2021/11/20(土) 00:11:42 ID: xKSAU3138P
4 ななしのよっしん
2023/09/09(土) 22:44:56 ID: cbuxnNS16Y
末期ドイツ特有のクソ適当ワンチャン狙い作戦のうちの一つなんだけど、その中でも特別にひどい 完全にヒトちゃんの気まぐれという時点でアレなのに成功してもリターンがこの上なく貧しい、もっと他に賭けるべきところがあったはずなんですがね
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/09(火) 06:00
最終更新:2025/12/09(火) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。