「種子島時尭」または時堯(たねがしま・ときたか 1528 ~ 1579)とは、戦国時代に種子島の鉄砲伝来イベントに遭遇して以来のガンマニアな武将一族・種子島家の14代当主(島主)であり、当時の鉄砲先進国日本の開始フラグを立てた人物である。
別名は「種子島直時」
種子島恵時の子に生まれ、家督を継いで14代当主(島主)となり、主に島津と琉球の連絡役として修好に貢献して島津貴久の娘を娶る等、家中でも重臣の扱いを受けていた。
1542年頃に一度、父・種子島恵時と険悪な仲になり対立したものの、島津貴久の調停を受けて仲直りしており、その頃には家督を譲られていたものと考えられ、その後の1543年に有名な「鉄砲伝来」イベントを経験し、種子島時尭の名を日本の歴史に刻んで永く後世に伝えられる事となった。
漂着した中国船に乗っていたポルトガル商人から2丁の鉄砲を購入して1丁を分解・研究・開発・量産して島津貴久に「種子島銃」を披露し、実戦での運用を行いながら島津貴久・島津義久の2代に仕えて蒲生攻めや肝付攻めに従軍したり、長年のライバル大隅国の禰寝氏と30年に渡る抗争を続け、自慢の鉄砲の腕前を戦場で披露していた。
※島津義久に嫁いだ娘は、後にDQN島津忠恒にいびられる亀寿姫の母となった。
その後、家督を長男の種子島時次に譲るも7歳で夭折した為、一旦復帰した後、次男で南洋最強スナイパーの種子島久時に家督を譲り、52歳で没した。
※その他「種子島時尭」の詳細についてはWikipediaの該当記事
参照の事。
「信長の野望」では、鉄砲系技能を高いレベルで保有していたり、鉄砲部隊の扱いが上手く、「革新」では種子島家三代が鉄砲「S」の為、研究開発要員として重宝されている。また種子島一族を鉄砲研究に専念させられる事も島津家の強さと言われている。
1543年、私領の種子島西村浦に中国船が漂着した際に、当時16歳の新しい事に目が無い年代の種子島時尭は運命のアイテム「鉄砲(火縄銃)」と出会い、2000両を支払って2丁を購入し、ポルトガル商人から操作方法を学んだものの、製造方法は教えてもらえなかった。
そこで購入したうちの1丁を八板清定に与えて分解・研究・開発させて量産化を試みると「ねじ」の構造が解らなかった為、八板清定は娘の若狭をポルトガル商人の妻にする事で「ねじ」の構造を教えてもらい(砂浜にぐるぐるとうず巻き模様を描かれた事から理解したらしい)国産化に成功し、琉球を介した貿易も行っていた為日本ではとれない硝石を入手するルートを確保して笹川秀重に開発させていた火薬とあわせて、日本の軍事バランスに多大な影響を与えた兵器「種子島銃」が誕生した。
※もう1丁は、時の将軍・足利義晴に献上した説と、肌身離さず持っていた説がある。
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング九州編に、適正優秀者枠で登場(鉄砲「S」)
「信長の野望」(PC)シリーズにおける種子島時尭の能力一覧。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
| 武将風雲録 | 戦闘 | 61 | 政治 | 58 | 魅力 | 67 | 野望 | 48 | 教養 | 65 | ||||||
| 覇王伝 | 采配 | 67 | 戦闘 | 56 | 智謀 | 60 | 政治 | 67 | 野望 | 48 | ||||||
| 天翔記 | 戦才 | 112(B) | 智才 | 120(B) | 政才 | 134(A) | 魅力 | 67 | 野望 | 48 | ||||||
| 将星録 | 戦闘 | 50 | 智謀 | 67 | 政治 | 72 | ||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 57 | 戦闘 | 50 | 智謀 | 63 | 政治 | 66 | ||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 47 | 智謀 | 53 | 政治 | 65 | 野望 | 57 | ||||||||
| 蒼天録 | 統率 | 52 | 知略 | 55 | 政治 | 63 | ||||||||||
| 天下創世 | 統率 | 53 | 知略 | 54 | 政治 | 63 | 教養 | 57 | ||||||||
| 革新 | 統率 | 60 | 武勇 | 56 | 知略 | 61 | 政治 | 70 | ||||||||
| 天道 | 統率 | 60 | 武勇 | 56 | 知略 | 71 | 政治 | 78 | ||||||||
| 創造 | 統率 | 56 | 武勇 | 57 | 知略 | 68 | 政治 | 75 | ||||||||
| 大志 | 統率 | 54 | 武勇 | 56 | 知略 | 68 | 内政 | 74 | 外政 | 72 | ||||||
掲示板
15 ななしのよっしん
2024/09/02(月) 19:35:42 ID: 0f8ZcYitKO
鉄砲伝来時は、大百科記事のある父・種子島恵時も健在な上に、こちらも40歳の働き盛りでその後も25年以上長生きしている。当時の戦国大名としては珍しくないことだが(信長・義元・氏康も存命中に家督を信忠・氏真・氏政に譲っている)、形式的には隠居の身でも実際にはまだ若い時尭を後見して家督相続を少しずつ進めて、親子共同統治体制だった可能性が高い。
16 ななしのよっしん
2024/09/02(月) 19:55:35 ID: rYpt41sS0k
17 ななしのよっしん
2024/09/02(月) 20:36:36 ID: aXsx8A1SC5
>>15
1542~43年の種子島は、種子島恵時と種子島時尭と種子島時述が島津相州家や禰寝氏(反相州派)を巻き込んで三つ巴の抗争中なんで、親子で仲良く共同統治できるような状況じゃないと思うぞ
1542年初頭から恵時は時述・時尭らから攻撃を受けて3月には島津貴久が恵時に援軍を送ってるけど、恵時は結局翌年5月までには屋久島に逃亡してる
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最終更新:2025/12/16(火) 13:00
最終更新:2025/12/16(火) 13:00
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