加藤一二三とは、猫とうなぎをこよなく愛する将棋棋士である。第40期名人。棋士番号64。
四段であった頃は、『一二三四段』という愛称が付いていた。12310段だった事や1232冠王だったこともある。現在は1239段。
敬虔なクリスチャンでもあり、聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。棋士で騎士。2000年4月29日には紫綬褒章を、2018年4月29日には旭日小綬章を受章した。
概要 - 棋士として
1940年1月1日生まれ。福岡県嘉麻市(旧嘉穂郡稲築村)出身。近年のメディア出演増加により「なんか面白い将棋のおじいちゃん」扱いされることも多いが、打ち立てた記録の数々は「レジェンド」と呼ばれるにふさわしい大棋士である。
通称は「神武以来の天才」。(読み方は「じんむこのかた」、「じんむいらい」どちらでも正しいが、近年では「じんむこのかた」と読む人が多い。)
ちなみに本人はこの呼び名をあまり好きではないとかにゃんとか。
- 1954年、14歳7ヶ月で四段昇段(プロ入り)
2016年に藤井聡太が14歳2ヶ月で四段昇段を果たすまで、62年間破られなかった大記録。 - 18歳でA級八段に到達(C2からA級到達まで、全て1期抜け達成。現行制度では他に中原誠のみ)
- 20歳で名人挑戦。こちらは最年少記録として未だ破られていない。
- タイトル獲得は名人1期の他、王将1期、十段3期、王位1期、棋王2期の計8期。
- トップ10人しか在籍できない順位戦A級は計36期在籍、歴代2位の記録。還暦過ぎてもA級にいました。
- 2017年1月3日に丸田祐三九段の持っていた現役最年長記録(77歳1日)を更新。
- 2017年1月20日、B級1組に所属する飯島栄治七段を撃破し最年長勝利記録も更新。しかもこの時、前日に順位戦の規定による引退が決定していた。
- 前述した藤井聡太四段の公式戦デビュー戦(竜王戦6組トーナメント戦)の対局相手となり、2016年のクリスマスイブに藤井と史上最大年齢差・62歳差の対局が実現した。
通算成績は2505戦・1324勝1180敗1持将棋。2017年6月20日、竜王戦6組トーナメント戦・高野智史四段戦で敗北し、62年10ヶ月に渡ったプロ生活に終止符を打った。勝ち数は大山十五世名人、羽生善治三冠に次ぐ歴代3位、対局数・通算敗北数・勤続年数は2017年現在、歴代1位。
何より特筆すべきは「1180敗」と言う最多敗北記録である。強くなければ対局数は増えず、さりとて負け続ければ早々に引退の憂き目にも遭うプロの世界で、1000回を超える敗北に63年間も立ち向かい続けた凄まじさこそ語り継がれるべきであろう。
引退後も人間将棋などの将棋のイベント参加、講演会の参加などの将棋普及活動を精力的に行っている。
また、注目棋士の活躍時にはTwitterでコメントすることも多く、引退後も将棋に対する情熱の強さを見受けられる。
生涯
神武以来の天才
1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれる。この一月一日(紀元二千六百年)に生まれた三男であったことから、一二三と名付けられる。
将棋の出会いは、当時の子供たちと同じく近所の子供がやっているのを見て覚えた。その後、子供たち相手には常勝となり、関西奨励会へと入会する。入会以前に、升田幸三からは板谷四郎との対局を見られ、「この子、凡ならず」と言われたらしい。升田との交流はそのまま続き、結婚式では仲人も務めてもらっている。
1954年8月1日付で四段に昇段。当時にして、14歳7ヶ月で史上最年少プロ棋士[1]、史上初の中学生棋士[2]だったが、大きな反響はなかった模様[3]。然し、11勝1敗でC級1組昇級を決めて15歳3か月で最年少五段昇段以後、C級1組を10勝3敗、B級2組を9勝2敗、B級1組を10勝2敗でいずれも1期抜けをすると最年少18歳A級八段を達成[4][5][6]。ここに至り、加藤は「神武以来(じんむこのかた)の天才」と呼ばれ、大きな反響を得る。
この間、新人棋戦である第1回六、五、四段戦で優勝し15歳10か月で最年少棋戦優勝記録、1956年度には16歳で王将戦リーグ入り、1957年には高松宮賞争奪選手権戦で優勝して新人棋戦以外の公式棋戦優勝最年少記録を樹立している[7]。
大山との激突
A級入りして2年目の第14期(1960年度)には、当時の名人である大山康晴への挑戦権を得ている。なお、20歳3ヶ月13日は当時の他のタイトルも含めた最年少挑戦記録であった。名人戦の記録としては今なお最年少記録である。[8]
然し、名人戦での対局は時の覇者、大山康晴に対し、1勝4敗で敗北。A級も翌年陥落[9](翌々年に再昇格[10])。以後、1961年度王将戦、1963年度王位戦、1966年度王将戦、1967年度王将戦で敗北。1968年度の十段戦で、フルセットの末、遂に大山からタイトルを奪い、29歳にして初タイトルを得るも、翌年度の1969年度には大山の挑戦を受けて敗北する。
頂点へ
1970年代の将棋界は、大山が持っていたタイトルを新鋭の中原誠が奪い、「大山時代」から「中原時代」となった時期だった。特に、1972年の名人戦で中原が、大山から名人位を奪って、最年少名人(当時)、最多の三冠となると、将棋界は「棋界の太陽」中原を中心に回り始める。そして、加藤にとってもタイトル戦で戦う相手が中原へと変わることとなった。
他の棋士同様、当初は加藤も1勝20敗と中原に対して大敗北を喫していた。1973年の名人戦でも、2度目の挑戦ながら加藤は0勝4敗で中原に惨敗する。しかし、1970年代後半になると、徐々に中原との対戦成績を五分に戻していく。1976年、1977年の十段戦ではともに敗北ながら、フルセットの3勝4敗。また、1975年にタイトル戦に昇格した棋王戦では、1976年に大内延助から奪うと、1977年に全冠をかけて挑戦してきた中原を3勝0敗で負かして防衛した。翌年に、棋王は米長邦雄に奪われるも、同年には中原から王将位を奪っており僅かの期間ながら2冠を達成。王将位も翌年には大山に奪われるが、1979年には中原から十段位を奪って、1980年に米長相手に防衛。また、ここまででNHK杯でも大山に次ぐ6度の優勝をした。
第40期順位戦(1982年度)では、8勝1敗の成績を上げて、3度目の名人位挑戦権を得る。1持将棋2千日手含めた事実上の十番勝負となった総計1230手の大熱戦に勝ち、中原を無冠に追い込むとともに、加藤は悲願の名人位を獲得。プロ入り28年目、初挑戦から22年目の42歳であった。因みに、この時、加藤は名人と第2位のタイトルである十段の2冠を保持し、更に加藤以外の複数冠のタイトルを持つ者はおらず、堂々の序列1位となった。
キャリア後半
将棋界の頂点に立った加藤だったが、頂点にいた期間は短かった。名人戦終了してすぐの十段戦では、中原に敗北。
更に、翌年度の名人戦では、同じく中学生棋士で20歳での挑戦権獲得をした谷川浩司に最年少名人記録を許してしまう。
その後、タイトル戦では1984年度に高橋道雄から王位を奪うも、翌年に奪還され以後登場しなかった。とはいえ、一般棋戦では1993年にNHK杯を優勝し、同年の順位戦では羽生善治と共にA級に再昇級。還暦でA級を迎えるなどトップ棋士の一人ではあったといえる。また、順位戦A級以上での在位は、連続は19期であるが、通算36期であり、谷川の32期を越え、大山の44期に次ぐ。
棋士の最終盤
第60期順位戦(2002年度)にて62歳2ヶ月でのA級陥落以後は、徐々に成績は下降していった。然し、最年少プロ棋士という、早期から戦っていたこととその息の長いキャリアによって、年長記録含む新たな記録が出来ていった。2016年には、将棋プロ入りの最年少記録を更新した藤井聡太との対局によって、公式戦で最も年齢が離れた対局(62歳6か月差)を実現。また、19世紀(村上真一、1897年生まれ)、20世紀(多数)、21世紀(藤井聡太、2002年生まれ)生まれの棋士と唯一対局した棋士という記録を達成。2017年には、順位戦の敗北により引退が決定する[11]も、その翌日に飯島栄治に勝利を挙げ、最年長勝利を更新(77歳0ヶ月)。2017年6月20日の対高野智史戦で、敗北し、最年長対局、最年長敗北(ともに77歳6か月)、棋士歴(62年10か月)を更新するとともに引退が決定した。
なお、後日行われた記者会見では、制度により引退となったが、将棋の情熱は失われておらず、制度が無ければ戦い続けただろうと述べている。
加藤が62年10か月の間に積み上げた対局数2,505局は大山を抑えて堂々の第1位、勝ち数も羽生、大山、谷川に次ぐ1,324勝(第4位)。負け数も1,180敗(第1位)であるが、負け続けた場合対局数は減るうえ引退に近づくため、勝ち上がっての番勝負の数の多さを示すともいえる。タイトル出場24期、内獲得数8期、一般棋戦優勝23期。A級在位36期(連続最高19期)。
その後
もともと、NHK杯やバラエティ番組などでテレビに出ることはあったが、引退後はその独特な人物像からメディアでの出演が増えている(現役棋士でないため、対局日程を気にしなくてもいいというのはあるだろうが)。更に、藤井聡太の活躍によって藤井フィーバーが巻き起こると、もともと最年少記録を保持していた加藤にも注目が集まるようになった。
棋風 - 棒銀狂
加藤は圧倒的な居飛車党。特にその中でもとにかく棒銀を多用する棋風で有名であり、プロ棋士の中でも棒銀の使用率は群を抜いている。棒銀戦法の扱い方においては日本で比肩する者無しとさえ言われる程の使い手で、棒銀と言えば加藤一二三であり、加藤一二三であれば棒銀と認知されるほどである。自身が対局に負けた際、「棒銀が弱いんじゃない、自分が弱いんです。」と発言した事がある。
将棋を始めて以来、居飛車・矢倉・棒銀一筋の姿勢を貫くその姿は一部では偏愛とさえ表現されている。加藤の棋風について羽生善治は、「あそこまで同じ戦法を貫かれると不気味ですらある。普通、研究され対策される事を考えると、一つの戦法を採用し続ける事は、一つの生き方ではあれ、現実に実行する人は殆ど居ない。しかし、加藤先生に限っては、全くそれを恐れていない様だ。」と発言している。
解説においても棒銀好きは相変わらずであり、解説中、対局している棋士が別の戦法を取ると、「何で棒銀にしないんでしょうか。」「いや、ここは棒銀ですよ。」「あれれ、棒銀にすればいいのに。」と発言する等、ひたすら棒銀をプッシュする事がある。しかし、理由無くプッシュしている様に見えても、実際に加藤がこう発言する時は、大抵棒銀が有効なケースである。
なお、加藤の棒銀は対振り飛車(とどのつまりは大山)対策としてなされたのが多く、それ以外の相居飛車戦法もかなり多く指していることは述べておく。
また棋界の中でも長考派として知られ、何でもない2手目で1時間考えたという逸話のほか、初タイトル獲得となる十段戦では、明らかな大山の封じ手に対し、記録上で1時間55分の思考の他、1日目の中断時に5時間、合わせて7時間の大長考の末勝利を収めている。
だが、加藤の本領は長考している場合よりも、秒読みでの思考であると評されている。飯塚祐紀七段は「加藤先生は秒読みになると本当にすごい。一切間違えない」と評し、中原誠十六世名人は「長考よりもむしろ秒読みの時の方が読みが鋭い」、「加藤さんと秒読みで指す場合は、95点以上の手を常に指し続けないと勝てない。他の棋士は80点程度の手でもいいんだけど、加藤さんは一分の中で常に正しい手を指し続けてくる。」と話している。実際、早指し棋戦であるNHK杯でも7回の優勝を誇るほか、他の早指し棋戦でも活躍している。このことから、「一分将棋の神様」と称されたこともある。
また、読みの鋭さ、速さ、正確さは他の棋士からも言及されており、米長邦雄永世棋聖は「私の5倍は読む」、二上達也九段は「読みが広く深く、かつ正確であった。」と述べている。
愛すべきキャラクター
カワイイ愛称・各メディアでの活躍
棋界ではレジェンドオブレジェンドの実績を積み重ねた大棋士だが、その喋りや挙措は非常に個性的。「一二三伝説」と言われるエピソードには枚挙に暇がない。
ファンからの愛称は「ひふみん」。第45回東急東横店将棋まつり(渡辺竜王・上田女王・豊川七段のトークショー)にて、自身が「ひふみん」と呼ばれている事を知っている事が判明。その後に開設した、ご本人も自ら更新するtwitterで「ひふみん」と使ったりするなど、こちらの呼び名はいたく気に入っている模様。
古希を過ぎニコニコ生放送などでタイトル戦の解説を務めるようになったこともあってか、公式チャンネルや前述したtwitterも開設。「プロの側からは将棋のおもしろさや深さを人々との接触を多くして伝える事」の言葉通り、ネットメディアを通してファンとの交流を積極的に図っている。
最近では囲碁・将棋チャンネルなどの専門番組だけでなく、そのキャラクターを買われて「アウト×デラックス」の準レギュラーとしてバラエティに出演していたりもする。
解説役として
解説役としても活躍しており、語り口は軽妙かつ愛嬌たっぷり。思いついたことを怒涛のごとくしゃべり倒すスタイルでもあるが、ユニークな存在感で人気も高い。
特にニコニコで有名なものとして、奇跡の逆転劇が展開された羽生・中川戦の解説における珍セリフ・名台詞の数々がある。MAD素材になったり、将棋動画のお約束コメとなった「あれれ、おかしいですよぉ?」「あれ、もしかして頓死なのかな?」「これは大逆転ですねぇ!」「(΄◉◞౪◟◉‵)ひゃあ」などは将棋ファン以外にも知られるようになった。
と言ってネタまみれの解説ばかりな訳ではなく、第2回電王戦・船江恒平五段vsツツカナの対局では船江優勢のムード漂う中盤の展開において「まだこれは難しい」と指摘したり、中継の合間に数々のひふみん伝説検証や初心者向けの指し手講座を即席で開いていたりする。
ひふみんと食
ひふみんと言えばうなぎ、うなぎと言えばひふみん。「出来上がりの時間をあまり気にすることなく確実に食べられて精もつく」と言うことで、対局時のお食事はうなぎをこよなく愛する。70過ぎて食べ過ぎで病院送りになった辺りでは少しうなぎを自重したらしいが、最近ではまた時々食べるようになったらしい。
なおうなぎを自重していた頃のブームは冷やしトマトで、お昼には視聴者が絶句する程度の量をぺろりと平らげていた。他にも板チョコ(明治製菓)をバリバリと食べ、記録係が「みかん臭いんです助けて!」と泣きを入れるレベルのみかんを大食。アウト×デラックスの食生活密着リポートの際には3L以上はあるであろう物凄い量の飲料を摂取するなど、大食漢エピソードには事欠かない。
2015年2月12日、順位戦C級2組第8局での夕食休憩にてチキンカツ定食とカキフライ定食を注文。高齢であるひふみんや注文を取る将棋連盟職員のうっかりかと思いきや、両方を頼んだ。しかも、どちらかのおかずだけを食べるのではなく両方同時に食べてたとのこと。食にまつわるエピソードにまた一つ伝説が加わった瞬間である。
愛猫家として
無類の猫好きとしても知られ、近隣の野良猫に餌をやったり不妊手術を自腹で受けさせたりと、猫との関係は深い。それが高じ過ぎてか2008年12月には野良猫への餌やりを止めるようにと近隣住人から提訴されたことも。
ブロマガのタイトルも「ニャンとも言えない一二三伝説」だったり、twitter上で猫の引き取り手を探すツイートを積極的にリツイートしたり、同じく愛猫家のジャパネット浦野真彦八段と猫の話で交流したり、「ハロー、将棋が好きかい?」と猫に話しかけたり。ねこだいすきです。
数多の伝説
将棋ファンにはおなじみ、ひふみんの数多の奇行数々の珍行動・エピソード群は「一二三伝説」としてひふみんの強烈なキャラクターを彩っている。正直存在してるだけで伝説とか言わない。前述の食べ物・猫関係の逸話の他、
- 何故か妙に駒を打つ力が強いらしく、若い頃には駒を割った事がある。
- 対局場の滝がうるさいので止めさせた。
- 三浦弘行九段とエアコンの温度設定で盤外戦争。
- 神谷広志八段と対局中、「神谷さんが寒いだろう」と考え持参した電気ストーブを神谷に直射。怒られる。
- 同じく神谷八段に、自身の専門である棒銀戦法を「カニがチョキ出しててもパーを出すような戦法」と煽られ「そんなことないですー!最近新戦法開発したし」と全力で反論。この時74歳。
- ネクタイが長い。とにかく長い。座ってる時に床についても「短いなー」って言うくらい長さにこだわる。
エトセトラエトセトラ。書ききれないほどあります。いずれも強烈な印象を残すものばかりだが、将棋を愛する純粋な魂はまぎれもない…と言うことで、ファンや棋士たちにも「伝説」としておおむね好意的に受け止められている。
発言
- 「将棋は序盤が全て。序盤で有利になれば、勝てるんです。」
- 「銀は営業部長ですね。拡大して、業績を上げていくんです。」
- 「振飛車に対する矢倉囲いは、私の経験上、殆ど倒れる事は無い。」
- 「私が棒銀ばかり使うものだから、皆これを研究して対局する訳だけど、それでも私は3割方勝っている。
それだけ棒銀は優秀なんです。3割勝てる限り、私は棒銀を指し続けますよ。」 - 「羽生さんの将棋は豪華絢爛でダイナミック。彼の勝負哲学は絶品。」
- 「私から闘いを取ったら、一体何が残ると言えようか。
勝負師である限り、命が尽きるまで勝負に明け暮れるのが、棋士としての私の定めだ」 - 「神武以来の天才と言われることは、率直にいって嬉しくありません。」
10歳のとき新聞の観戦記に触れ将棋の本質を悟ったわたくしが、天職である将棋に、最善の環境の中、生涯を懸け全身全霊を傾け打ち込むことができましたのは、御支援賜りましたスポンサー、将棋ファンすべての皆様おひとりおひとりのおかげに他なりません。幸せな棋士人生をありがとうございました。
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関連項目
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脚注
- *62年後、この記録は14歳2か月で藤井聡太に更新される。
- *その後の、中学生棋士は谷川浩司、羽生善治、渡辺明、藤井聡太
- *江戸時代には、御城将棋に出るのは初段からであったため、初段で一線を引くという感覚もあったと思われる。
- *何れの昇級も最年少。また、順位戦最年少参加も藤井聡太は時期の問題から更新できなかった。
- *現行制度で全期1期抜けは他に中原誠のみ
- *段位も5段から8段まで最年少記録(当時)。なお、6段、7段、8段は藤井聡太によって更新されているが、5段は加藤の方が早い。
- *その他の最年少記録としては最年少勝利(1954年9月3日、14歳8ヶ月)、最年少敗北(1954年12月1日、14歳11ヶ月)がある。最年少勝利はともかく、最年少敗北は藤井聡太がプロ入り後、連勝を伸ばし続けた為更新されていない。
- *なお、この記録は現在でも藤井聡太(17歳10ヶ月20日、棋聖戦)、屋敷伸之(17歳10ヶ月24日、棋聖戦)、羽生善治(19歳0ヶ月22日、竜王戦)、渡辺明(19歳4ヶ月10日、竜王戦)が越えているのみであり、中原誠(20歳3ヶ月17日、棋聖戦)が4日遅い。藤井聡太七段、史上最年少でタイトル挑戦へ!|将棋ニュース|日本将棋連盟
- *当然ながら、最年少記録
- *この再昇格自体自身と谷川浩司の記録に次ぐ第3位の年少記録
- *正確には、加藤本人も述べているが、参加している全ての棋戦が終わった場合であり、棋戦で勝ち続ければその棋戦のみ参加し続けることもあり得た。
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