蒲生氏郷(弘治2年(1556年)~文禄4年(1595年)2月7日)とは、戦国時代~安土桃山時代の武将。
祖を辿れば「俵藤太」の異名で知られる藤原秀郷に連なる、鎌倉以来の名門・蒲生氏19代当主。
初名は賦秀(やすひで)だったが、後に改名。本項では一貫して氏郷と表記する。
通称は忠三郎。「松坂少将」「松島侍従」の異名でも知られる。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。
概要
近江国守護・六角義賢に仕えていた蒲生賢秀の三男として生まれる。幼名は鶴千代。
永禄11年(1568年)に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡した後、賢秀は織田信長に臣従し、人質として当時12歳の鶴千代を差し出した。この時鶴千代と面会した信長は、
意:蒲生の息子の目つきは他と違う、普通の者ではない。我が婿にしよう
「蒲生氏郷記」より
と告げ、次女を娶らせる約束をしたと伝えられる。
その後は岐阜瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、明智光秀重臣・斎藤利三の奨めで武芸に励み、立派な若者に成長。元服は岐阜城で行われ、烏帽子親は信長直々が務めた。
永禄12年(1569年)に初陣を飾る。その後は父と共に柴田勝家の与力となり、姉川の戦い、第一次伊勢長島攻め、長篠の戦、有岡城の戦い、第二次天正伊賀の乱などに従軍。武功を上げた。
天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、安土城にいた父と連絡を取り、城内の信長の家族を速やかに保護。居城である近江日野城へと取って返し、光秀との対決姿勢を明確にした。
その後開かれた清須会議では羽柴秀吉に従い、翌天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いにおいては、羽柴秀長配下として参加。更に天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも戦功を挙げた。戦後に伊勢松ヶ島に加増・転封となり、この頃にオルガンティノ神父によって洗礼を受けたとされる。
同年の紀州征伐にも参加し、この頃賦秀から氏郷に改名。「秀吉」の一字を下に置く名を不遜であると考えての改名だった。
その後も九州征伐・小田原征伐に参戦。秀吉の天下統一事業に寄与した功績により、天正18年(1590年)、伊勢から陸奥国会津への移封・加増となった。これは臣従したとは言えいまだ奥州に影響力を持つ伊達政宗を牽制する為の配置であったとされている。
会津では重臣らを領内の支城に派遣して城代とし、自らの居城となる黒川城を改築。氏郷の幼名にちなんで「鶴ヶ城」と名を改められ、開発・整備を推進した城下町には「若松」という名がつけられた。更に商業政策を重点に置いた奨励により、江戸時代における会津藩の発展の基礎となっている。
文禄元年(1592年)の文禄の役に参加。肥前名護屋城に参陣したが、体調を崩して翌年に会津に帰国する。養生する中で秀吉から直々に医師を派遣されるなど心配されたが、文禄4年(1595年)、伏見の蒲生屋敷にて死去した。享年40、早すぎる死であった。
伊達政宗や直江兼続による毒殺説が唱えられているが、肝臓がんや直腸がんなどではなかったかと推察されている。
辞世の句は
「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」
早くに死ぬ我が身を嘆く内容となっており、苦しい胸中が察せられる。
彼にまつわる逸話や功績から、歴史好きの間では「もし氏郷がもっと長生きしていたら……」と語られる事が多い。
その他いろいろ
- 信長が一向一揆と戦っていた時、氏郷は敵中に突撃して強者の首を取ってきた。信長は大笑いして「首を取るのは大将の仕事じゃないよ」と言った。
- 仕官してきた人に「うちの家には銀の鯰尾の兜をかぶって戦っている奴がいる。そいつに遅れを取るな」と言った。なお銀の鯰尾の兜をかぶった人物とは氏郷自身のことである。
- 部下の扱いのうまさに定評がある。他の家でダメな奴だと言われた武将も、氏郷のもとで働けばあら不思議、稀代の名将に!(誇張あり)ネットではこれを評して「(再生)工場長」というあだ名で呼ばれることもある。
- 優秀な家臣には「蒲生」の名字と「郷」の一字をぽこじゃかプレゼントしていた。そのため蒲生家には一族じゃないのに「蒲生○郷」「蒲生郷○」という名前の家臣が量産されていて、非常に紛らわしい。実際、蒲生頼郷と蒲生郷舎は今でもしょっちゅう間違えられている。
- 奥州仕置によって会津を失った伊達政宗とは、あまり仲が良くなかった。天正19年(1591年)の葛西大崎一揆では政宗が一揆を扇動したと訴え出たが、政宗は書状にしたためた花押に針で穴を開けた「鶺鴒(せきれい)の目」を証拠として退けたという話が知られている。
また政宗が密かに送り込んだ小姓が氏郷暗殺を企てたとして投獄されたのを、命を捨てて主命に従おうとした忠義者として賞賛し、罪を許して伊達家に返したという話もある。 - 千利休の弟子「利休七哲」の筆頭に数えられ、利休七種茶碗の一つ・赤楽早船など貴重な茶道具を所持していた。移封先の鶴ヶ城でもたびたび茶会を催していた記録が残っている。
- 細川忠興とは数寄に対する矜持から師匠の前でも悪口を言い合う仲だったが、信長に仕えていた頃からの長いつき合いでもあり、微笑ましい逸話も残っている。
御家伝来の重宝「佐々木鐙」を忠興が所望した際に進呈したが、家臣からは「よく似たものを差し上げれば良いのでは」と反対された。しかし氏郷は「忠興が欲しいと言ったのだから」と押し通し、後になって忠興が「そんな大切なものは受け取れない」と返そうとしたのを決して受け取らなかった(氏郷の死後に息子に返還)。また小田原征伐では二人して高山右近の陣に遊びに行き見舞に尋ね、牛肉鍋を御馳走になったという話が伝わっている。 - 氏郷をキリスト教に誘ったのは高山右近で、彼の最期を看取ったのも右近だったという。なお上記の牛肉鍋には続きがあり、食事の前に右近がキリスト教の祈りを捧げるのを見て氏郷と忠興が笑ってしまい、怒った右近が牛肉鍋を引っ込めたので二人して謝り、ようやく許してもらったらしい。……想像するとちょっとかわいい。
- 外国人の武将を召し抱えていたという話がある。「御祐筆日記抄略」によると、天正5年(1577年)、ローマ人の「ロルテス」なる男が紹介状を携えて氏郷に召し抱えを求めてきた。家老会議の結果召し抱える事となり、銃・大砲などの武器製作に携わった。この時名を「山科羅久呂左衛門勝成」と改め、氏郷の下で良く働いたという。信憑性や見解はさておき、浪漫ある設定としてウィリアム・アダムス(三浦按針)や弥助と並び、創作の題材となっている。
- 氏郷が使っていたと伝わる「黒漆塗燕尾形兜」が現存。現在は岩手県立博物館に所蔵されている。
信長の野望シリーズ
シリーズを通して全く隙のないオールラウンダー。しかも義理堅く、兵科適性や特技も強力な事が多い。敢えて難点を挙げるなら寿命くらい。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 72 | 政治 | 73 | 魅力 | 71 | 野望 | 65 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 77 | 政治 | 80 | 魅力 | 73 | 野望 | 71 | 教養 | 72 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 82 | 智謀 | 69 | 政治 | 80 | 野望 | 71 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 176(A) | 智才 | 158(A) | 政才 | 172(A) | 魅力 | 88 | 野望 | 71 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 85 | 智謀 | 83 | 政治 | 89 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 80 | 政治 | 85 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 77 | 智謀 | 79 | 政治 | 81 | 野望 | 80 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 76 | 知略 | 77 | 政治 | 80 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 77 | 知略 | 75 | 政治 | 80 | 教養 | 72 | ||||||||
革新 | 統率 | 90 | 武勇 | 82 | 知略 | 84 | 政治 | 89 | ||||||||
天道 | 統率 | 85 | 武勇 | 73 | 知略 | 81 | 政治 | 83 | ||||||||
創造 | 統率 | 89 | 武勇 | 85 | 知略 | 84 | 政治 | 80 | ||||||||
大志 | 統率 | 88 | 武勇 | 89 | 知略 | 81 | 内政 | 86 | 外政 | 79 |
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