竹(松型駆逐艦) 単語

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竹(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦二番艦である。1944年6月16日工。小柄ながらも団護衛や多号作戦に参加し、圧倒的不利な状況下で駆逐艦クーパーを撃沈した戦果が有名。終戦まで生き残った後は復員任務を務めた。1947年7月16日イギリスへ売却。

概要

艦名の由来はイネ科の植物から。この名を冠する艦は本艦で二代となる。

ガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで駆逐艦を大量に喪失した帝國海軍は、個艦の性より生産性を重視した戦時急造駆逐艦の設計に着手し、松型駆逐艦が誕生。はその2番艦となった。

首楼を、体は普通鋼製、上甲には入手が容易な高鋼製を採用。建造の手間を省くため直線を多く使用し、甲のキャンバー止、艦尾をスケグ方式とするなど簡略化を進めたが、それでもブロック工法は採用されず電気溶接も部分的にしか使われないなど、まだ丁寧に作っているレベルであった(後にを更に簡略化した/が登場している)。今までに得られた様々な戦訓により、帝國海軍の艦艇としては初のシフト配置を導入。今までは機関を一ヵ所に集めて工期を短縮していたが、もし機関部に被弾した場合、一度に全部破壊されて航行不能に陥る危険性があった。に採用されたシフト配置は機関を左右に振り分ける事で建造の手間こそ掛かるが、被弾しても簡単には航行不能にならないメリットがあり、はこのシフト配置のおかげで大破状態に追いやられながらも一命を取り留めた。

駆逐艦設計の常套であった対艦攻撃を思い切って投げ捨て、代わりに対・対潜・輸送を強化して戦況に即した駆逐艦となった。まずを対用の12.7cm連装高に換装、簡略化のコンセプトから重量のある九四式高射装置の代わりに高測距儀や12cm双眼望遠鏡、四式射撃装置を装備。対潜装備として九三式探信儀や水中聴音機を持っていたが、こちらは性イマイチだったためでは止されてより高性な探信儀と聴音機を装備している。補給及び輸送任務を見越して後部煙突に2隻の小発(10m特運貨)を搭載。61cm四連装魚雷管を搭載しており、一応の対艦攻撃は持っていたが、装填本数は予備魚雷しの4本のみで次発装填装置も持たない大変な簡素なものだったため、あくまで自衛用に過ぎなかった。

諸元は基準排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、速27.8ノット、喫3.3m、出1万9000、乗員211名、航続距離3500km(18ノット)。排水量がぎりぎり1000トンえているためかろうじて一等駆逐艦に含まれる。武装は12.7cm単装高1門、12.7cm連装高2門、25mm連装機4門、25mm単装機12門、61cm4連装九二式魚雷発射管1門、九四式爆雷投射機2基。

余談だが先代と二代はともに終戦まで生き延びている。縁起の良い名前である事は間違いない。

戦歴

1942年6月ミッドウェー海戦で正規空母4隻を失った帝國海軍は、空母の緊急増産を企図して新たに戦時建造補充追加計画(⑤)を策定。しかし続いて生起したガダルカナル島争奪戦とソロモン諸島の戦いにより多くの駆逐艦を失ったため、損失の埋め合わせをすべく、1943年2月に量産に適した丁駆逐艦42隻の増産が組み込まれ、丁駆逐艦5482号の仮称で建造が決定する。

1943年10月15日横須賀海軍で起工、1944年1月25日駆逐艦と命名され、3月28日進水式を迎えて横須賀鎮守府に編入、4月20日装員事務所を設置。ところが工が翌日に迫った6月9日15時6分、1号及び2号に漏洩箇所が見つかったため急遽修理が必要になり、10日引き渡し予定のところを数日引き延ばさなければならなくなった。幸い修理は短期間で終了して6月16日工。初代艦長に田中少佐が着任し、軽巡洋艦長良が旗艦を務める訓練部隊の第11戦隊に編入される。こうして後の勇者が静かに産を上げた。

7月1日午前8時瀬戸内海西部にいる第11戦隊と合流するべく横須賀を出港、7月3日17時30分に徳山へ到着して燃料補給を受け、瀬戸内海西部へ到着した。だが戦局の逼迫は生まれたてのを待ってはくれなかった。マリアナ諸の失陥と硫黄島に対する敵機動部隊来襲により、連合艦隊は上陸が予想される沖縄に戦を送る事を決断。7月8日沖縄への輸送作戦こと呂号作戦の戦に選ばれ、十分な訓練を経ないまま姉妹とともににて第11戦隊と合流するよう命じられ、7月12日正午に室積を出港して同日16時30分にへ入港。翌13日19時長良とともに出発し、7月14日午前6時に出撃拠点の門港に移動した。

7月15日姉妹艦のと第43駆逐隊を編制して第11戦隊揮下に入り、大分県中津湾で陸兵と物資31トンを収容して同日18時に出港。駆逐艦冬月清霜とともに豊後を南下して翌日午前3時太平洋へ進出する。7月17日18時沖縄中城湾へ到着して陸兵と物資を揚陸したのち、冬月揮を受けながら同日23時に出港。遊する潜水艦を掻い潜りながら翌18日午前8に南大東に寄港。第28師団第36連隊の兵員を揚陸して午前10時30分に出港し、20時中城湾へと戻った。任務を終えたは現地で巡洋艦長良鹿島と合流。7月19日午前1時中城湾を出港して7月20日23時2分に八泊地へと帰投した。

7月23日冬月清霜とともに出動訓練を実施。未了だった訓練を再開させた。8月1日、第43駆逐隊は第2遊撃部隊に編入され対潜掃討の役割を担った。翌2日13時22分、第11戦隊、桑の4隻は訓練未了と判断するも、のみ特別任務を言い渡す事とし、清霜艦長の揮下に入って出撃準備が済み次第、に回航して任務に従事するよう命じられる。8月4日、柱を出発して出動訓練と対潜掃討訓練に従事。

アメリカ軍パラオ侵攻の動きが見られたため、連合艦隊パラオへの緊急輸送を命8月5日から8日までに寄港して準備を行い、25mm単装機4基及び13号電探を追加すると同時に機を扱う兵員20名を乗艦させる。8月9日に柱へ進出。8月10日駆逐艦清霜と出港し、関門海峡を抜けて8月13日午前7時50分に経由地のに寄港。現地でパラオ行きの兵員を積載した。8月14日14時を出発、2日間の航を経て8月16日午前11時にマニラへ寄港してと燃料の補給を受ける。

8月18日が所属する第43駆逐隊は第31戦隊へ転属。同日サマー東方軽巡名取潜水艦撃で沈没。これを受けてマニラ在泊中の軽巡鬼怒駆逐艦清霜時雨浦波に救援が命じられた。8月20日沈没地点へ到着したは翌日まで捜索活動を行い、生存者をセブまで送り届けた。入れ替わりにセブからパラオに避難する邦人を収容。清霜パラオへの輸送のため先行、は後から的地に向かい、8月26日パラオへと到着。物資と避難民を揚陸する途中で米軍機の襲来があったため対戦闘を行っている。今度はパラオからの引き揚げ者を収容中、付近のガルアングル南西端で駆逐艦五月雨が座礁。乗員救助のため同日に出発し、現場に向かった。ところが到着前の18時30分、潜水艦バットフィッシュ撃で五月雨体が断裂。が到着した時には放棄されており、艦長以下生存者はに収容。セブで降ろした。8月30日からは南西方面艦隊の揮下に入り、マニラ方面で団の護衛に従事する。

10月4日はマニラミリ行きのマミ11団の護衛としてマニラを出港。ここで南方がいかに危険な域であるかを嫌ほど思い知らされる。翌5日午後、ミンドロマンブラオの南西で潜水艦コッドに捕捉され、発射された6本の魚雷によって熱田丸と荒尾山丸が被。14時20分には速が落ちた配当丸が狙われ、カラビ南西50kmで4本の魚雷を撃ち込まれて撃沈される。辛くも敵潜を振り切り、10月14日ミリへ到着した。

10月20日23時40分、マニラ高雄行きのマタ30団を護衛して出港。マタ30団は12隻の輸送からなる団で、敵の襲がしいマニラから脱出して台湾南部高雄へ避難を命じられていた。護衛兵駆逐艦春風、第20号駆潜艇の計4隻。春風団とも呼ばれていた。団は三列縦隊となって8ノットの低速で春風を先頭に航行する。ところが中には45隻の潜水艦が潜んでおり、マタ30団は自ら虎口に飛び込む形となってしまった。10月23日15時38分、ルソン北端潜ソーフィッシュ団を発見して周囲の艦を集め始めた。たちまちマタ30団はドラム、ソーフィッシュアイスフィッシュ、スヌーク、シャークシードラゴンブラックフィッシュからなる2個ウルフパックに包囲される。17時30分、ソーフィッシュ団最後尾にいた特設水上機母艦丸を撃沈したのを皮切りに地獄の宴が開幕した。ここから潜が次々に襲いかかり、黒龍丸、菊丸、丸、信貴山丸、大丸、第一盛丸、口丸、里山丸の順で撃沈。あっという間に団の半数以上を失う惨状となった。が残存船舶の避難誘導を行い、春風が対潜掃討を行って反撃。シャークを撃沈して一矢報いたものの出発時には12隻いた輸送が僅か3隻にまで減ってしまう壊滅的打撃を受けた。中の10月24日高雄で撃沈された口丸と第一盛丸の乗員を救助。同日中高雄へと入港し、再びマニラに舞い戻る。

レイテ沖海戦が行われている10月25日、バシー峡で沈没した陸軍輸送団の救援のため駆逐艦3隻を率いて急行し、陸兵約540名を救助。彼らをアパリと高雄に送り届け、再び遭難現場に向かうだったが途中でマニラに向かうよう命が下る。

10月28日、マニラ入港。そこでは悪夢のオルモック湾輸送作戦が待っていた。

オルモック緊急輸送作戦

1944年10月23日に生起したレイテ沖海戦帝國海軍の大敗に終わった。しかし陸上での戦闘はこれから始まるところだった。フィリピン防衛のため大本営は増援をオルモック湾に送る事を決意。その輸送戦が抜され、謀な輸送作戦に身を投じる事になる。中にはアメリカ軍が手ぐすね引いて待ち構えており、たたでさえ希少な輸送艦駆逐艦が次々に沈められ、マニラ・オルモック湾間は艦墓場と化していた。策地となっていたマニラも制権を失い、湾内であっても安全な場所ではなかった。

10月29日、第三次輸送団への所属が決まる。全部で9回行われた多号作戦に、は3回から参加した。マニラに寄港して準備をしていたがその途中でアメリカ軍による大空襲を受ける。こので第三号輸送団の出発が遅れ、先に第四号輸送団が出発する事態になった。

11月9日、新鋭艦島風を旗艦とし、に隠れながら出撃。しかし輸送せれべす丸が座礁して任務の続行が不可能になり、また隠れ蓑としていたも上がってしまった。行きが怪しくなる中、先発していた第四号輸送団が前方に現れた。一足先に揚陸を終えてマニラへ引き返している所だったようだ。戦に数えられていなかったのか、初春は帰路の第四号輸送団に編入され、翌10日21時に分離。11月11日午前5時に第四号輸送団と合流を果たし、来たを引き返して18時30分にマニラへと帰投した。皮な事に、が離脱した後の第三号輸送団は敵の襲を受けて壊滅。旗艦の島風長波、輸送全滅し、朝霜だけが生き残った。強運に恵まれであった。

11月13日、マニラは再度アメリカ軍襲を受ける。マニラは傷ついた日本艦艇が集結しており、連合軍にとって重要標だったのだ。群がる敵機に対しては対戦闘を実施している。23時30分にマニラを出港し、駆逐艦や潮とともに11月15日に新南諸へ寄港。本土から進出してきた第四航空戦隊伊勢日向と合流したのち、マニラに引き返した。この時、潜水艦ヘイクの撃で損傷した第31戦隊旗艦の五十鈴とすれ違っている。11月21日にマニラ到着。

11月24日、第五次多号作戦に参加。今度こそオルモック湾への突入をすが、翌25日に「機動部隊接近中」の報告を受け、マリンドゥケバラカン湾に退避。しかしそこで空母イントレピッドの艦載機約50機による襲撃を受け、機掃射と至近弾を喰らう。乗員15名が死亡。負傷者は60名に上った。第6号と第10号輸送艦が撃沈され、生き残ったのはと第9号輸送艦のみだった。この襲でジャイロコンパスを破損し、第9号輸送艦は物資揚陸に必須なワイヤーが切断され、揚陸が困難となってしまった。上層部からは「オルモック湾に突入せよ」と命じられたが、那木艦長は作戦の続行困難と判断、抗命を覚悟反転を命沈没した輸送艦から乗組員を救助してマニラへ退却した。命だけは助かったものの、またしても突入はわなかった。

に背いて帰還した那木艦長は軍を携え、いざという時は自決する覚悟部に出頭。しかし部はの生還を喜んでくれた。非情なオルモック湾突入命は更に上の上級部から下されたもので、現地部にとっても不本意なものだった。また艦長が切腹覚悟部に出向いた事は、乗組員たちの士気と戦意を高めた。次こそは死んでも必ず成功させる――燃え盛る闘志をみなが一様に抱いていた。はキャビテ軍港に回航され、ドックに入渠。兼行の応急修理が施されたものの、ジャイロコンパスは直されなかった。戦闘が低下しただったが戦況が後退を許さず、再び輸送任務へと駆り立てられた。

11月29日の夕方、艦長の那木勁少佐の計らいにより乗員にビールが振る舞われた。次の出撃では沈むだろうと考えており、に飲ませるくらいならみんなで飲もうと考えたのである。各部署では宴会が開かれ、那木艦長も各所に顔を出して飲み回った。乗員の士気はまさにを突く勢いだった。負傷し、マニラ病院に収容されていた乗組員が勝手に脱走し、に戻ってきたほどである。

華奢な竹、大男を屠る

12月1日18時(異説では11月30日)、マニラを出港して駆逐艦桑や輸送団とともに第七次多号作戦に従事。野戦高射砲大隊と独立工兵大隊を輸送する。ローテーションの関係で中に敵機がおらず、幸運に恵まれ穏な航だった。しかし敵の偵察機によって輸送団の存在は通報され、アメリカ軍フリーズマン大佐率いる第60駆逐連隊から第120駆逐群を分18時29分に3隻の刺客がレイテ湾を出撃していった。そうとは知らずにと桑が護る輸送団は襲を避けるために身を隠し、オルモック湾到達の時間が間になるよう調整。狙い通り翌2日23時30分にオルモック湾へ到達し、増援部隊の揚陸を実施する。

しかし日付が変わった12月3日午前0時30分、闇に隠れて駆逐艦3隻が南側からオルモック湾へと侵入してきた。相手は第120駆逐群に所属するアレン・M・サムナー級駆逐艦アレン・M・サムナー、モールクーパーで、大かつ最新鋭の駆逐艦だった。小柄の量産型駆逐艦に過ぎないたちには荷が重過ぎる相手である。第120駆逐群のザーム中佐日本側の撃を警し、3隻を横に広げた横で突撃。全てをせんと迫り来る。ちょうど、たちの上を味方の戦闘機月光」2機(第804航空隊)が通過していった。湾内の魚雷艇狩り的だったが、接近中の第120駆逐群を発見して猛然と挑みかかった。2機の月光魚雷艇攻撃用の60kg爆弾アレン・M・サムナーに投下し、至近弾で小破させた。その後は後方から何度も機掃射を仕掛け、モールは戦死者2名と負傷者22名を出した。この戦闘によって、と桑は敵の接近を察知する。また第120駆逐群もレーダーで湾内に数隻の日本艦がいる事を知った。月光対空砲火で撃墜した後、アレン・M・サムナーとクーパーは桑に、モールに狙いを定めた。

月光2機が敵を引き付けている間に、物資や兵員の揚陸を行う。入泊直後、陸地から発進した1隻の大発が接近してに横付けする。先の11月11日の輸送で撃沈された駆逐艦島風の艦長上井中佐上村機関長、第2戦隊早川幹夫官ら8名がに収容され、入れ替わりに便乗していた陸軍の参謀が大発へ移乗。陸地に戻っていった。

いちく敵の接近に気がついた僚艦の桑が、に発信号を放ちつつ立ち向かっていった。探照灯を照射しながら撃を行うも、アレン・M・サムナーとクーパーからレーダー射撃を浴びて僅か10分で撃沈されてしまう。3隻の敵艦は、残ったに矛先を向ける。数は3対1、性も敵艦の方が上、オルモック湾は狭いため回避に向かず、闇の中では座礁の危険性もある。加えてジャイロコンパスは修復されていないので自艦の位置すら把握困難であり、全ての面でが不利という底的劣勢だった。

敵から先制攻撃を受けたは12.7cmや副で反撃を開始。24ノットの高速を発揮して敵のレーダー射撃から逃れようとする。高速運動レーダー射撃を不満足なものにしたが、側も上手く照準が合わせられず互いに決定打を欠く。そこへ前部機関室左舷に不発弾1発を浴びて、下士官1名が負傷。機関の一部が使用不能になる。だが幸いにも松型駆逐艦シフト配置を採用していたため、機関停止という最悪の事態は避けられた。交戦しているうちに敵艦との距離はグングンと縮まり、12.7cm射撃になっていた。

絶望的状況に立たされたの切り札は、3本の魚雷のみ。本来は4本装備していたのだが、1本は事前の整備で誤投棄してしまっていた。狭い湾内を逃げ回りながら、10km先の敵艦へ向けて2本の魚雷を発射。もが祈る思いで魚雷の行く先を見つめた。その間にも敵艦から弾が飛んでくる。を漂う桑の乗員からは「頑張れ!」という悲愴な叫びが聞こえてきた。彼らにとっては最後に残った希望なのだ。

放った2本の魚雷のうち、1本が駆逐艦クーパー(DD-695)に直撃。体をっ二つにし、わずか36で沈んでいった。まさに奇跡の一撃だった。士官10名、兵181名が戦死したと伝わる。残った敵艦は怒ったように集中攻撃を浴びせ、は次第に満身創痍となっていく。徐々に体が傾斜していき、最大30度まで傾いたという。だが団を守るため、必死に反撃を続けた。高を撃ちまくり、敵艦モールに複数の命中弾を与えて小破させた。獅子奮の活躍を見せるに、駆逐艦2隻はとうとう戦意喪失。諦めて南に離脱していった(撃を潜水艦のものと勘違いしたとも)。たった1隻で、見事優位な3隻の敵艦を撃退したのである。駆逐艦1隻撃沈、1隻撃破。この戦果が、帝國海軍最後の水上戦闘における敵艦撃沈だった。

敵を退けたとはいえ、はマニラに帰れるかどうか怪しいほど満身創痍であった。一時は陸上に乗り上げ、防台とする考えも浮かんだ。損傷もさる事ながら、艦の航行に不可欠なも不足していたのだ。苦慮する那木艦長に、航長が「艦長、大丈夫です!最後にはを焚いてでも4時間や5時間は航してみせます!」と言い放った。これに勇気付けられ、考えを保留。最悪の場合は味方がいるセブに乗り上げようと考えていると、第9号輸送艦から発信号で「揚陸了」と知らせてきた。すると艦かが「9号にがあるんじゃないか」といた。啓だった。すぐに第9号輸送艦に横付けする。最初は要領が分からなかった乗員であったが、すぐに理解すると上甲ポンプを持ってきて、必死を補給してくれた。こうしては命からがら助かった。第140号と第159号輸送艦も揚陸を了させ、合いに出てきた。これで輸送団は揚陸を了した事になる。

揚陸が了したのも束の間、輸送団にはもう一つの脅威が迫っていた。揚陸を了させた時には既に午前3時を回っており、明けまであと2時間しかなかった。陽が昇れば再び襲が始まるので、それまでに離脱しなければ全艦の底である。このため桑の乗員救助はとても出来ず、陸地にいる友軍に要請だけして退却した。域から脱出する時、桑の乗員と思われる者から「ッ!」と叫ぶが聞こえたという。しかし味方を見捨てる事が出来なかった第140輸送艦は途中で停止し、カッターを降ろしたという。団は第140号を置いてオルモック湾から出て行った。速が低い二等輸送艦の第159号を先行させ、第9号輸送艦は後ろから追随した。南西方面艦隊やオルモック基地に直掩機の派遣を要請しつつ、中で応急修理を行った。3日の、9機の航空機が輸送団の上に現れた。では対戦闘が下され、最大戦速に増速。いよいよ年貢の納め時かと覚悟を決めた。しかし航空機は旋回するだけで攻撃してこない。よく見ると、零戦だった。要請に応じて味方機が来てくれたのだった。零戦はしばらくに留まり、基地へと帰投していった。頃にはアメリカ軍の大機が出現し、触接を開始。は高を撃って追い払ったが、撃の衝撃で何と傾斜が回復は最後まで幸運に恵まれていた。

12月4日午後、どうにかマニラまで帰投。桟には輸送戦隊の曽璽(そじ)章少将が立っていて出迎えてくれた。凄まじい戦果を挙げた那木艦長は、南西方面艦隊大川内傅七中将から賞詞を受け、差し向かいで夕食を馳走になる栄誉を賜った。那木艦長は一連の戦闘をオルモック夜戦と呼ぶ事を提唱した。翌5日にキャビデへ回航され、入渠する。しかし損傷のしさから現地では修理できず、特に機関の損傷が原因で速が上がらなかった。このため今後の作戦は全て取り消しとなり、への回航が決定する。そして第31戦隊は第5艦隊へ編入された。

失意の終戦から復員任務

12月15日満身創痍の体で単独マニラを出港する。機関は直されなかったが、それでも21ノットを発揮する事が出来た。ちょうどその頃、ルソン東方コブラ台風が発生。進路上にいた第38任務部隊が蹴散らされた。台風や波浪がを襲ったが、第四艦隊事件日本艦艇にはしっかり台風対策が施されていたので、大破状態ながら航行に支障が出る事はかった。

12月18日台湾高雄へ入港。このまま基まで回航される。22日、団を護衛して基を出港。鎮や六連を経由し、1945年1月1日に門へと帰り着いた。間もなくに回航され、4日から入渠修理を受ける。もはや内地に燃料はく、まともに動く事すらままならなかった。修理1月末に終わるだろうとされたが、資材不足のせいか3月15日まで時間が掛かった。

2月28日、スラバヤで修理中の五十鈴(軽巡洋艦)に代わって第31戦隊の旗艦に就任。鶴岡少将が座乗するも、3月15日に新鋭の大駆逐艦花月に旗艦を継承している。同日中に第31戦隊は第2艦隊に編入され、対潜掃討を担当する。3月19日を出港。そのおかげか機動部隊による軍港襲に巻き込まれずに済んだ。4月16日から26日にかけて三式探信儀を装備する工事が行われた。4月29日駆逐艦とともに回天との訓練に参加。5月から、後部甲回天を載せられるよう装を受ける。と同様に回天練習艦となったが、頻発するアメリカ軍襲を受け、部はの温存を決断。上に出る事を禁じた。これにより装工事も中止。

7月3日屋代海岸に偽装係留される。生き残っていた「槇」「榧」と横に繋がって投錨し、艦体をネットで覆って擬装。木の枝やの木を植えて陸地の一部であるかのように見せかけた。このため敵機が飛来しても全く機を撃たなかった。よほど擬装が上手かったのか、終戦まで攻撃を受けなかったとか。しかし攻撃こそ受けなかったが、眼前で漁グラマンの機掃射を受けても手が出せないゆさもあった。ちなみに擬装用の植物がちょうどカーテンとして機し、艦内はとても涼しかったという。

そしてこの状態のまま、8月15日終戦を迎えた。10月25日、除籍。

戦争は終わったが、航行可だったには出番が残っていた。南方や各戦線に取り残された将兵や邦人を引き揚げさせる復員任務である。1945年12月から任務が始まり、1回から4回ポンペイ賀を行き来。次にパラオから邦人を引き揚げ、サイパンに在住していた沖縄出身者を沖縄本島に連れ帰った。以降は上海及びコロと本土を往復して中国方面の復員任務に従事。この時に艦内でコレラが発生し、病死する引き揚げ者が出たため防疫の都合で約一ヶ隔離された事も。最後の奉を終えた1946年7月、特別保管艦の定を受けて横須賀係留される。約一年後の1947年7月16日定が解除されると、は賠償艦としてイギリスに譲渡された。しかしイギリススクラップにして売ってしまった。

こうして短いながらも波乱に満ちたの艦歴は幕を下ろした。

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