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ファン・チュー・チン、潘周楨(1872~1926)とはベトナム民族運動である。

生涯

ファン・チュー・チンはベトナム中部のクアンナムで生まれる。当時のベトナム(グエン)フランス侵略を受けており、1883年の戦争を経て全土が植民地にされる。1901年に科挙の副榜(正規合格者は進士といい、副榜はそれに準ずる補欠)に合格すると、チンは日清戦役で勝利し、その頃アジアで最も先進的だった日本へ留学し近代化を学ぶ。帰後は啓・開運動である維新(ズイタン)運動を発動し、ベトナムで初めて民主主義を提唱した。

チンはベトナム近代化をし、旧来の習、生活様式をめて実学やクォックグー国語ローマ字表記のベトナム語)や西洋の生活様式(洋装、断髪)、商工業を奨励した。各地で学会(私塾)や商会を設立し、1907年ハノイに開校された民間教育団体の東京義塾(ドンキギアトゥック)にはチンの意図に沿った教科が設けられた。彼はベトナム近代化しなければベトナム民族キン族)は滅ぼされてしまうと危機感を募らせ、革に反対する旧守を厳しく排斥した。

1908年に民衆の大衆運動である中圻(チュン)抗税デモに関与した容疑で捕らえられる。その後釈放されると1911年フランスへ留学する。第一次世界大戦終結後にパリ講和会議ホー・チ・ミンらと共に「安南人民請願書」を送った。1925年にベトナムに帰するが翌年に死去する。要著作は『佳人奇遇演歌』。これは日本人東海散士の『佳人之奇遇』を梁啓訳したものを更に翻案したものである。

ファン・ボイ・チャウとの差異とその評価

ベトナム民族運動というと日本では同時期に日本留学運動東遊(ドンズー)運動を組織したファン・ボイ・チャウが有名である。ベトナム内でもチャウとチンは二大巨頭として較されることが多い。

チャウの運動路線 チンの運動路線
フランスへの対応 暴力革命・武装闘争によるフランス排除 フランスに依拠した封建制の止、民主
近代 沢厚の評価
チン本人の評価 革命 自治党

ベトナム戦争が終わるまではフランスアメリカとの武闘争が続いていたこともありチャウの暴動路線は高く評価され、チンの良路線は低く見られていた。しかし1980年代からベトナムで刷新(ドイモイ)が始まったことによりチンの再評価が始まり、ソ連の崩壊と共にベトナム民主化を図ったチンの名はますます高まった。ファン・チュー・チン文化が設立され、2016年オバマ大統領ベトナムを訪れた際にはチャウでなくチンのみが称揚された。

チャウやチンは共に開明的儒者出身であり、日本の場合が西洋からの書物に情報を拠ったのに対してベトナムでは中国から伝来した「新書(タントゥー)」と呼ばれる本が知識人に知的刺を与えた。新書とは四書五経のような古典と対置する書籍であり、中国近代化(変法・自強)運動に携わった人々によって執筆された。籍に慣れしんで育ち、科挙出身であったチャウやチンに海外情報を与えるのはあくまで籍だったのである。

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