ファン・ボイ・チャウ、潘佩珠(1867~1940)とは、ベトナム民族運動の英雄である。
概要
生まれと育ち
1867年、貧しい儒学者の家に生まれる。当時のベトナム阮朝はフランスから侵略を受けており、儒学者層(文紳、士夫)を中心に「平西殺左(フランスを平定しカトリックを抹殺する)」をスローガンとして反仏運動を繰り広げていた。
チャウは6歳から漢学を学び、7歳で論語を理解し、8歳の時には小孝(県の科挙の予備試験)を受けるほどの神童であった。17歳の時には反フランスの檄文『平西収北』を発表するが社会から無視され、科挙に合格して己の社会的名声を高める必要性を感じたという。有言実行で科挙予備試験の孝覈に頭処(主席)合格して一躍名を馳せるも、母が亡くなると病身の父に代わって二人の妹を養うために働かなければならなくなった。
1885年、阮朝の首都フエが陥落したことにより、文紳義士が一斉に立ち上がり勤王運動が始まった。チャウも科挙の受験生を集めた試生軍を結成したが、わずか10日で解散に追い込まれる。しかし翌年『双戌録』を執筆し、文筆活動で反仏運動を支援する。
雌伏を余儀なくされたチャウは私塾を開いて糊口を凌ぐ。この塾にはグエン・アイ・クォックも通っていた。後のベトナムの偉人ホー・チ・ミンである。チャウは「新書(四書五経のような古典に対置する、新規の漢籍)」を読み漁り、近代化のためには清でなく当時東夷と蔑まれていた日本を見習うべきであるという主張を汲み取っていった。
30歳を超えて再び科挙を受験するチャウであるが不正行為が疑われ、科挙から永久追放を食らってしまう。しかしチャウの文才は中央官僚にまで届くほどであり、受験資格を再獲得したチャウは郷試で開元(主席)で合格する。この頃、父が死去し長年の介護から解放されたチャウは本格的に義士として働き始める。
東遊運動とその挫折
1903年に首都フエで国士監の監生(学生)となったチャウは多くの勤王人士や皇族と交流を持つ一方で、数年かけて国内情勢を実地調査した。かつての勤王運動は反キリストを掲げ、各地で別個に蜂起して失敗したためチャウは全国統一運動を画策し、カトリック教徒を味方につけようとした。
培った人脈と見識を活かし、チャウは1904年に皇族のクオン・デを会主に維新会を設立する。会のメンバーは「ベトナムを救うためには同文同種(漢字圏の黄色人種)の国の援助が必要である。だが清はベトナムをフランスに売り渡し自国の独立すら覚束ない状態である。それに比べ日本は黄色人種で唯一の新進国であり、ロシアをも打ち破っている。助けを求めるなら日本しかない」と考え、チャウは日本へ派遣されることとなる。
中国人になりすまして神戸に密入国したチャウは、中国の改革派で当時日本に亡命していた梁啓超と接触する。さらにチャウは梁啓超のコネで日本の有力者の大隈重信と犬養毅との会談を実現させる。大隈と犬養はベトナムへの軍事支援は不可能としたが、政党として革命組織の支援を約束した。
軍事的な「救援」を得るのは失敗したが、チャウはベトナム人を日本に留学させ優れた知識を学ばせる「救学」を目指していく。帰国したチャウは1906年にクオン・デとファン・チュー・チンを引き連れ再来日する。チンはチャウと並ぶ、現在でもベトナムで著名な義士である。ベトナム人留学生らは犬養の世話を受けながら日本語や日本の先進知識を学んでいった。これが有名な東遊運動であるが、この留学運動は実は非合法であった。そのため留学生は中国人を名乗り、多数の偽名を使用していた。そのせいで東遊運動の全体数は現在でも不明である。
チャウのベトナム解放運動は教育(和平派、明社)と暴動(激烈派、暗社)の両軸で進められた。前者の路線として1907年にハノイで東京義塾が設立される。この塾は科挙のための古い学問を批判し、実業を振興する啓蒙運動の舞台となった。また後者の路線として同年に「亜洲和親会」が東京で設立される。これは中国、朝鮮、インドなど東アジアの被抑圧民族の連帯組織であったが、帝国主義的傾向を強めていた日本政府により弾圧され1年で消滅する。
大国ロシアに勝利し歓喜に湧く日本は明治維新以来のスローガンである「脱亜入欧」の下に、「日本人は遅れたアジア人でなく進んだ欧米人である」と自負していた[1]。アジア人蔑視も手伝って、フランスとの日仏協約により日本はベトナム留日学生団への取り締まりを強化する。この時、留学生達は帰国の旅費が不足するが犬養毅から香港までの切符100枚を寄贈されことなきをえる。また医者の浅羽佐喜太郎から1700円(現在の価値で約250万円)の寄付も受けている。
日本政府は1909年にクオン・デを国外追放したためチャウは小村寿太郎に抗議文を送った。ここでチャウは日本がフランスに屈服し、ベトナム民族解放運動を安売りしたことを批判している。こうして東遊運動の挫折と共に維新会は事実上崩壊する。以降チャウは漢字圏で最も先進的であった日本を「黄色人の兄」だとする姿勢(同文・同種・同州)を捨て、同じく植民地支配を受けて苦しむ(同病)中国との紐帯を強くしていく。だがチャウは日本と中国が同盟することで欧州列強の侵略を防ぎ、ひいてはアジア各国の独立運動の成功に繋がるとする中日合作論も保持し続けていた。
ベトナム独立を目指して
1911年に中国で辛亥革命が勃発すると、これを奇貨としてチャウは中国に向かい陳其美や孫文ら中国の革命党と合流する。チャウは日本時代に犬養毅の紹介で孫文と顔を合わせており旧知の仲であった。チャウは陳其美の経済援助を受け、維新会に代わるベトナム光復会を設立する。東遊運動の頃は、阮朝を戴く立憲君主制を支持していたチャウだが光復会では多数決で民主共和制を目指すこととなった。会長には引き続きクオン・デが就任した。光復会は行政機関と軍隊を持つ臨時政府的性格を備えていたが、フランス植民地当局の取り締まりは厳しく、地下に潜る革命テロ組織として暗躍することとなる。
光復会は数件の暗殺テロを企てたため、1914年にチャウは逮捕される。有力軍閥の段祺瑞の働きかけによって死刑を免れたチャウは釈放後に第一次世界大戦のどさくさに紛れて排仏を狙うが大戦がフランスの勝利に終わったため頓挫する。しかし欧州大戦はフランスのベトナム統治方針を大きく転換することになり、同時にチャウの思想もそれに応じて変化していく。
1919年、ウィルソンの民族自決の影響を受けたチャウは『仏越提携政見書』を公表し「フランス人はベトナム人を牛馬と見なすことを避けて然るべく扱う。一方のベトナム人もフランス人を敵視せず師や友として振る舞うべきだ」とそれまでの排仏姿勢を180°変換した。この裏には大日本帝国の伸長がある。帝国主義国として本格的に大陸に侵略を進める日本への不信感[2]からチャウは「インドシナにいるフランス軍だけでは日本軍に勝つことはできず、インドシナが日本に征服されればベトナム民族も滅亡する。それを防ぐためにフランス人とベトナム人は手を取り合わなければいけない」として日本脅威論を唱え、これ以降文明革命と呼ばれる改良主義へと考えが傾倒していく。だが20年代には暴力革命路線に戻ったり晩年に再び仏越提携論を唱えたりと以後のチャウには思想的動揺が見られる。チャウが本心からフランス人と協力しようとしていたのか否かは彼が国の英雄であるだけに現在のベトナムでも政治問題になる歴史論争である。
1922年ごろチャウの影響から離れようとする青年組織、心心社が結成された。この組織はグエン・アイ・クォック(ホー・チ・ミン)の説得の下で共産団→ベトナム青年革命同士会となり、やがてベトナム共産党へと向かっていく。チャウもロシア革命に感銘を受け、社会主義を学びつつ[3]再びテロ路線へ思想的回帰を進めていたところ、1924年フランス当局に逮捕されてしまう。チャウは死刑判決を受けたものの全国から助命嘆願書が寄せられ、終身刑に減刑されフエに軟禁された。この頃にはもう一人のベトナムの英雄ファン・チュー・チンも死去しており、ベトナム民族運動の一つの時代が終わったと言える。チャウやチンは儒学者であったが、これ以降は植民地体制下で生まれフランスに留学し近代的教育を受けた新学知識人が次々と台頭した。彼らの建てた政党はホー・チ・ミンの下で統合され1930年にベトナム共産党(後にインドシナ共産党)となり、以降のベトナム民族運動を牽引していった。
フエ軟禁時代のチャウは反植民地運動の最前線からは退いたが多くの著作を著し続け隠然たる影響力を備えていた。ヴォー・グエン・ザップやレ・ズアンなど後のベトナム独立の立役者たちはこぞってチャウの下を訪れてその薫陶を受けた。1940年10月29日、死去。大日本帝国が北ベトナムに進駐して1ヶ月後のことであった。不幸なことにフランスの唱えた日本脅威論は現実のものとなってしまう。
関連動画
関連商品
参考文献
関連項目
脚注
- *アジア人であることをやめ欧米人の仲間を目指していた大日本帝国であるが、世界大戦終結後のパリ講和会議で人種差別撤廃提案は却下され、アメリカは排日移民法で日本人を中国人と同じように差別した。当時の日本人からすると「遅れた中国人」と一緒にされることは相当に屈辱的だった。結局日本人は「欧米人」にはなれず、やがて大東亜共栄圏というアジアの盟主を目指していくこととなる。
- *チャウと日本の関係は東遊運動失敗後も完全に断絶したわけではない。チャウの革命運動の背後にはタイや中国に在住していた日本人の支援があった。また東遊運動を支援していた柏原文太郎とは何度も手紙のやりとりをしており、1918年にチャウが日本を訪れた際には先述の浅羽佐喜太郎への感謝の碑文を建立している。
- *チャウはカール・マルクスを家族主義、資本主義、国家主義を乗り越えるものとして歓迎したが、同時にマルクス思想は孔子の思想を発展させたにすぎないと見た。
- 3
- 0pt