ファン・マヌエル・ファンジオ(Juan Manuel Fangio Déramo, 1911年6月24日 - 1995年7月17日)とは、アルゼンチン出身の元レーシングドライバーのことである。
概要
アルゼンチンのブエノスアイレスにて、6人兄弟の4番目の子としてこの世に誕生した。
決して裕福な家庭というわけではない家庭で育ち、13歳のときに自動車修理工として働き始める。兵役の後に独立し、自ら自動車を改造しレースに参加し始める。
主にロードレースの世界で活躍し、第二次世界大戦で一時活動を中断したものの、1947年からレース活動を再開。
1948年からヨーロッパに活動の場を移す。38歳にしてF1世界選手権の前身であるグランプリ・レースに参戦し好走を続け名を挙げた。この活躍により、1950年の第一回F1世界選手権にアルファロメオから参戦することが決まった。
F1デビュー後
1950年、デビュー戦イギリスGPではリタイアとなったものの、続く第2戦モナコGPではポール・トゥ・ウィンを決め初優勝、第5戦ベルギーGP、第6戦フランスGPで連勝。ポイントリーダーとして迎えた最終戦イタリアGPはリタイアに終わり、初代王者は同僚のジュゼッペ・ファリーナに譲った(ランキング2位、27P)。
1951年、開幕戦スイスGP、第4戦フランスGPで勝利し、選手権をリード。後半戦はフェラーリの台頭もあり混戦模様になったものの、2戦連続2位とポイントを重ね、最終戦のスペインGPで勝利し見事2代目ワールドチャンピオンとなった(31P)。
1952年はアルファロメオが撤退し前年度王者ながらシートを喪失。さらに、モンツァでのレースでクラッシュした際に負傷、半年間の療養と不運が重なったシーズンとなってしまった。
第5戦フランスGPで2位表彰台に立ち復帰後初ポイントを獲得。その後2戦連続2位、最終戦のイタリアGPで復帰後初優勝を挙げ、ランキングは2位(28P)。
1954年、開幕2連勝の後、マセラティからメルセデスへ移籍。
移籍後最初のフランスGPでポール・トゥ・ウィンで勝利すると、その後も5戦で3勝を挙げるなど絶好調。
シーズン9戦で6勝を挙げる圧倒的な走りで2度目のワールドチャンピオンとなった(42P)。
1955年、全7戦中4戦で勝利を挙げるなど前年に引き続き好調をキープ。
ランキング2位のスターリング・モスに2倍近いポイント差をつけ連覇を達成(40P)。
しかしこの年、ル・マン24時間耐久レースに参戦した際、モータースポーツ史上最悪のクラッシュに遭遇。ドライバーや観客80名以上が亡くなる大惨事だったもののファンジオは間一髪のところで危機を免れた。
この事故によりメルセデスがレース活動休止。フェラーリへ移籍することとなった。
1956年、フェラーリのマシンも難なく乗りこなし7戦で3勝を挙げランキングトップ。最終戦であるイタリアGP(ヨーロッパGP)を前に、チャンピオンの可能性はファンジオと同僚のピーター・コリンズに絞られた。
迎えた最終戦決勝、レース中盤激しい順位争いの中、ファンジオのマシンが故障しリタイア。そこにピットインしてきたコリンズがマシンの交代を申し出、残りの周回をファンジオがドライブし2位でフィニッシュ。
当時のルールでは、同じチームであればドライバーの交代が認められてた(入賞した場合はポイントを二人で折半)。レース後、コリンズは「自分は若いからまたチャンスはある、ファンジオこそが今年の王者を奪うにふさわしい」とファンジオを讃えた。
このコリンズのサポートもありグランプリ3連覇を達成した(30P)。
ただ、チームのボスであるエンツォ・フェラーリとは反りが合わず決別、翌シーズンはマセラティに復帰。
第6戦ドイツGPでは巧みなレース運びでフェラーリ陣営を混乱させ、残り2周で2台を交わしトップに躍り出る神業を見せた。
残り2戦も2着2回と見事な走りをを見せ、グランプリ4連覇、通算5度目ワールドチャンピオン獲得の偉業を達成してみせた(40P)。
1958年、マセラティのワークス活動休止に伴いレギュラー参戦ではなくスポット参戦
第6戦フランスGPで4位入賞。これがキャリア最後の入賞となった。
この年は3戦のみの参戦で4着2回、ランキングは14位に終わった(7P)。
F1引退、その後
F1引退後は、実業家としても活躍。メルセデス・ベンツ・アルゼンチンの名誉会長なども歴任。
1995年7月17日、ブエノスアイレスにて84歳で死去。アルゼンチンの英雄として国葬、多くの国民に見守られながら手厚く葬られた。
人物・エピソード
- 危険を犯してでも速さを追い求めるレーサーが多数を占めていた時代に、巧みなレース運びやミスの少ないドライビングを持ち味としていた。
- 当時のドライバーとしてはリタイアが少なく、リタイアした際の原因もマシントラブルが大半であった。
- F1草創期とはいえ、通算勝利24勝やワールドチャンピオン5度獲得などは当初の歴代最高記録であった。
- 言動は穏やかで紳士的であったと言われており、多くのドライバーたちから尊敬を集めていた。
- 愛称は「エル・チュエコ(スペイン語でがに股)」。特技であったサッカーのプレースタイルやずんぐりむっくりな体格が由来。
- レーサーとしての活動歴が映画化されている。邦題は「グレート・ドライバー」(原題はFangio)。
- 1958年に、レースで訪れていたキューバにてキューバ革命に巻き込まれ誘拐された経験がある。
- 甥っ子がファン・マヌエル・ファンジオ2世の名前でレーサーとして活動していた。
関連動画
関連リンク
関連項目
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