フェラーリ(Ferrari)とは、フィアット社傘下の、イタリアの高級スポーツカーを製造している自動車メーカーである。
現在のCEOはルイス・キャリー・カミレッリ。会長はジョン・エルカーン(フィアット社会長を兼任)。
概要
他の自動車メーカーとは異なり、創業者のエンツォ・フェラーリが自身のレース活動を運営する為に設立(スクーデリア・フェラーリ)、1950年から行われているF1世界選手権に、初年度から現在まで参戦してる唯一のコンストラクターである。
また、様々な名車を製造し、自動車の歴史に伝説を築いている。これもレース資金を得るためにレース用車両をロードカー用に再調整されたもので、当初は性能に比べて品質の悪さもあった。
しかしレースでの活躍がフェラーリのブランドイメージを向上させ、高価であったものの、世界中のセレブリティに愛用されるようになった。
1960年代に経営危機に陥ったが、同じイタリアのフィアットが買収、エンツォはレース活動に専念し、市販車部門はフィアットの下で整理されて自動車メーカーらしくなっていった。
1988年にエンツォが亡くなると、彼の自社株をフィアットが買い取り、全部門がフィアットの管理下となった。
1991年にルカ・ディ・モンテゼーモロが社長に就任すると、リストラを含む改革を行った。その結果、市販車は大幅な品質向上に成功させ、売り上げにもつながった。さらにレース部門では、F1で1999年から2004年までコンストラクターズタイトルを手にするなど、最古の参加チームながらもトップクラスを維持し続けた。
しかし2007年のタイトルを最後にF1ではチャンピオン獲得には至らず、依然と300億円以上を予算としてかける状況に、フィアットCEOのセルジオ・マルキオンネと対立構造が生まれ、ついに2014年にモンテゼーモロが更迭され、マルキオンネが新社長となった。
マルキオンネは2018年に健康を害し、同年に亡くなったため、CEOにはカミレッリが、会長にはジョン・エルカーンが就任した。
2009年3月9日に自動車業界初のニコニコチャンネル「Ferrari チャンネル 」が開設された。
現行車種
12気筒モデル
- F12ベルリネッタ - フラグシップモデル。下記365GTB/4の系譜であるFRグランツーリスモ。
- F12tdf - F12ベルリネッタをサーキットレベルまで強化した799台限定モデル。
- 812スーパーファスト - フェラーリ史上初の800馬力超えを果たした怪物2シーター。F12tdfに採用された四輪操舵システムを更に改良し、コーナリングもこなす。デザインは往年のグランツーリスモ、356GTB/4をオマージュしたもの。
- GTC4ルッソ - フェラーリ・FFの後継車たる4WD4シーター。ちなみにルッソとは「贅沢」(英語で言うLuxury)のこと。こちらにも四輪操舵システムを搭載。
8気筒モデル
- 488GTB - 458の改良型。カリフォルニアTに次ぐ2台目のターボ搭載モデル。
- 488GTBスパイダー - 488GTBのオープンカーモデル。
- カリフォルニアT - フェラーリ初のカブリオレである「カリフォルニア」をターボ化したモデル。
- GTC4ルッソT - GTC4ルッソのエンジンをカリフォルニアTのV8ターボにし、後輪駆動にしたもの。V8搭載フェラーリ初の4シーター。
スペシャルモデル
- ラ・フェラーリ - F12ベルリネッタ用のV12をチューンしたエンジンに、F1をフィードバックした「HY-KERS」と呼ばれる回生システムを組み合わせたフェラーリ初のハイブリッドモデル。499台限定で生産することが発表されているが、すでに注文は終了している。
- ラ・フェラーリアペルタ - ラ・フェラーリのオープンカーモデル。
過去車種
- 166 - フェラーリ初のプロダクションモデル。ル・マン24時間レースやミッレ・ミリアでの活躍でフェラーリの名を挙げることになる。
- 250GT - フェラーリ初期の傑作にして屋台骨となったモデル。レースバージョンの205TRは紅いカバーのV12エンジンを搭載し、下記テスタロッサ(紅い頭)のネーミングの始まりとなった。
- 250GTO - スポーツカー世界選手権が主催者の嫌がらせでGTクラスの名で年100台以上生産を条件とすることになり、250シリーズを空力的に改良した上で、「エボリューションモデル」だと言い張って主催者側に認めさせた(実際は39台しか作ってない)。つまり、ランエボのようなやり方のはしりである。GTOのOとは、Omologeto(イタリア語で言うレース車両としての認証)の頭文字である。現在では残存車は完全にお宝と化し、「世界一高い車」として知られる。といっても実際の販売価格ではなく後年にオークションで公式には最高約3811万ドル、非公式には約5200万ドルで落札されたとされるため。
- 250LM - 本来は上記GTOの後継としてGTクラスにエントリーする予定だったが、生産数が規定に足りずプロトタイプ扱いとなってしまった(この時も250の発展型だと主張したがさすがにバレバレだった)。ミッドシップV12エンジンという、スーパーカーのご先祖様と言える車。
- ディーノ - エンツォが早世した息子を悼んでその愛称をつけた車種。厳密にはフェラーリブランドではない。
- 308GTB - 現在も続く、V8ミッドシップモデルの始まりとなった。
- 288GTO - 308GTBのイメージに似せて作った、グループB用のレーシングベース車。上記250GTOから名を受け継いだ。V8ツインターボエンジンのおかげでラフなアクセル操作は厳禁のハードな車である。
- 365GTB/4 - 通称デイトナ。上記812スーパーファストへ続く、FRグランツーリスモの系譜の始まりのモデル。
- 365BB - BBとは「ベルリネッタ・ボクサー」のイニシャルで、水平対向12気筒エンジンをミッドシップに搭載している。あのランボルギーニ・カウンタックと共にスーパーカーブームの双璧となった。カタログスペックの最高速度が302Km/hとなっているのはカウンタックの300Km/hに対する小学生の喧嘩レベルの意趣返しである。後に512BB、512BBiとマイナーチェンジを受けることになる。
- テスタロッサ - 80年代を代表するフラッグシップ車。サイドのルーバー状の空気取入口が印象的。この大百科読者的には、某高速接近戦型魔法少女の元ネタといったほうがピンとくるかもしれない。V12ミッドシップモデルはこの後の512TR、そしてF512Mをもってスペシャルモデルを除いて途切れている。
- F40 - 創立40周年を記念した、エンツォ・フェラーリ最後の作品。その姿は「公道を走れるグループCカー」そのもの。
- F50 - F40に続く限定モデル。こっちは「公道を走れる二人乗りのF1カー」である。
- エンツォ/FXX - F50に続き、F1の最新メカニズムと空力設計を取り入れた399台限定モデル。FXXはこれのエクストラモデルで、メーカーのサポートによってサーキットを走行するためだけに購入しなければならなかった。つまり、公道は走れないし、レースに使うことも出来ない。自動車における究極の贅沢である。
- 458イタリア - いわゆるV8系「廉価版」モデル(つっても、2,830万だけど)の488の一世代前。今なら買い得かもれませんよ?中古探してみては?
- 599GTB/599XX - FRグランツーリスモの一世代前。599XXはFXXと同じサーキット専用モデル。
- FF(フェラーリ・フォー) - 4人座れて荷物が積めて、それでいて660馬力の4WDという、レガシィが裸足で逃げ出すような究極のワゴン車。名前がFFなのに4WDとはこれいかに。
スクーデリア・フェラーリ
ここでは、フェラーリのレース部門であるスクーデリア・フェラーリの歴史を挙げていく。あまりにも膨大なので、エンツォ・フェラーリが存命中の時代を中心に、主要な出来事を書くに留める。詳しく知りたければ、専門的な書物やサイトが山のようにあるのでその辺は苦労しないはずである。
黎明期~戦前
エンツォ・フェラーリのレース活動は、当時のイタリア自動車メーカーにレーシングドライバーとして参加することから始まる。やがて、名門アルファロメオに所属、1923年にラベンナ市のグランプリレースで初優勝を遂げる。この時の縁で、地元の名士バラッカ氏の息子である第1次世界大戦でのイタリア空軍の撃墜王、フランチェスコ・バラッカのトレードマークである「キャバリーノ・ランパンテ(跳ね馬)」の紋章を譲られる。これが今に続く「赤い跳ね馬」伝説の始まりであった。
やがて、アルファロメオはムッソリーニ政権による自由への抑圧の中でグランプリレースから一時撤退を余儀なくされるが、スポーツカーに舵を切ることになる。この中で、エンツォは1929年にアルファロメオのセミワークスチーム「スクーデリア・フェラーリ」を結成した。長男ディーノが生まれたことでレーサーとしては身を引いたエンツォだったが、彼のエントリーさせたマシンはミッレ・ミリア、タルガ・フローリオ、ル・マン24時間レースといったクラシックイベントで暴れまわった。しかしやがてナチス・ドイツの国威発揚を目的に台頭してきたメルセデスやアウトウニオンを相手に苦戦するようになり、業を煮やしたアルファロメオ本社がスクーデリア・フェラーリを解散することを命じ、やがて対立したエンツォを追放してしまう。
この時の契約で、4年間フェラーリの名を使えなくなったエンツォは、ティーポ815を製作し、戦争前の最後のレースとなったミッレ・ミリアに参戦。これが、フェラーリ初のオリジナルカーであった。
戦後~1950年代
第2次世界大戦が終わり、再びスクーデリア・フェラーリを名乗れることになった上で、初のフェラーリの名を冠したマシン、ティーポ125を完成させた。これのグランプリカーバージョンである125F-1が記念すべきフェラーリ初のF1マシンとなった。
1950年からF1グランプリが開始され、エンツォの目標はかつて自分を袖にしたアルファロメオを打ち破ることとなった。この年は、直接対決での勝利は果たせなかったものの彼らの欠場したレースで勝利し、手応えを掴んだ。翌年、シルバーストンサーキットで行われたイギリスGPで、遂にアルファロメオを打ち破ることに成功。狂喜したエンツォはアルファロメオ首脳に対して「今もアルファロメオは私の初恋の相手だ」と賞賛なのか煽りなのかわからないメッセージを送る。後に、エンツォはこの時の気持ちをこう語っている。
「私は嬉しくて泣いたが、悲しくもあった、なぜなら自分の母親を殺してしまったのだから…」
この年のイタリアGPで、フェラーリはまたも1-2フィニッシュでアルファロメオを破り、観客たちは新たなグランプリの主役誕生に「これからはフェラーリの時代だ!」と熱狂した。現在まで続くフェラーリファン「ティフォシ」の始まりである。もっとも、結局タイトルはアルファロメオにさらわれてしまったのだが。
翌1952年、フェラーリは圧倒的な強さで初のワールドチャンピオンを獲得する。(当時はドライバーズチャンピオンのみ)
その後は1953年も制して連覇し、その後やや低迷するが1956年、1958年とドライバーズタイトルを獲得。しかし1958年はミッドシップマシンが現れ、FRフォーミュラカーは時代遅れになりつつあった上、この年から始まったコンストラクターズチャンピオンシップの初代タイトルを獲り損ねてしまう。翌年もミッドシップマシンに歯が立たなかったフェラーリは、いよいよ自らもミッドシップマシンを作る必要に迫られていた。
1960年代
1960年、初めてミッドシップマシンを投入したがさすがに熟成不足で、いきなり勝てるわけもなかった。しかし、翌年にマシンの性能を下げるためにレギュレーションが改定され、それまでのF2相当の1500ccエンジンと定められた。これが有利に働いた。すでにフェラーリは優秀なF2用エンジンをもっており、これをそのまま新開発のミッドシップマシンに搭載すればよかったのだ。こうして、1961年シーズンはフェラーリのものとなり、初めてのドライバーズ、コンスラクターズのダブルタイトルを獲得した。しかし、その後はまた低迷。1964年に新型エンジンを開発してダブルタイトルを取り返したが、これも一年限りだった。
1966年にF1は3000ccとなる。これは1980年代半ばまで長らく続く規格となるのだが、これの対応でフェラーリはつまづいてしまう。ティーポ312V12エンジンのパワーで圧倒する作戦に出たのだが、信頼性やバランスで勝負してきたブラバム、ロータスといった英国勢相手に決め手を欠く展開が続いてしまう。そこにフォード・コスワースDFVという極めて汎用性に優れるエンジンが出現。結局タイトルから遠ざかったまま60年代を終えることになったのである。
スポーツカーレースでのフェラーリ
さて、ここでスポーツカーレースでの活躍にも軽く触れておこう。
上記125を改良した166で、1949年に再開されたル・マン24時間レースを制したフェラーリは、この166のロードカーを販売。自動車メーカーとしての一歩を踏み出す。
1952年には250シリーズがデビュー。これをベースにひたすら排気量アップ&パワーアップを図り、1954年には375プラスで2度目のル・マン24時間制覇を果たす。しかし、パワーでゴリ押しする戦略には限界が来ており、安全性も含めて問題が深刻になりつつあった。ル・マンではジャガーに三連覇を許し、地元の有利さで戦えたミッレ・ミリアでも観客を巻き込む大事故を起こしてしまう。これによってスポーツカーレースは排気量が3000ccに制限される。
だが、これですでに熟成された250エンジンを再び活かすことが出来、赤いカムカバーを付けたテスタロッサエンジンの250TRは1958年、1960~1961年をル・マン24時間のみならず、スポーツカーレースのメイクスタイトルをも圧勝した。
あまりに250TRが強すぎたので、今度は年間100台以上の生産を条件とするGTクラスにメイクスタイトルを移し、250TRを含むプロトタイプカーを閉めだしにかかるレギュレーションとなった。だがフェラーリはGTクラスを上記の250GTOで対応しつつ、チャンピオンシップとは関係なくなった代わりに制限も無くなったプロトタイプカーでは、250TRのパワーアップ版330TR/LMでまたも1962年のル・マン24時間を制する。
翌年、いよいよスポーツカーにもミッドシップ化の波が押し寄せる。250エンジンを積んだ250Pはル・マン24時間の優勝でスポーツカーレースの新時代を告げた。だが、海の向こうからフォードがGT40を引っさげてスポーツカーレースの制覇に乗り出してきた。しかし、まだギアボックスなどの信頼性に問題を抱えたフォードに対し、熟成されたフェラーリのマシンは1964~1965年と防衛を果たしてみせた。もっとも、1965年はフェラーリのワークス、330P2もトラブルで潰れてプライベーターの2線級マシンである250LMがフォローした結果だったが。これは、1960年以来の6連覇という見事なものであり、フェラーリのスポーツカーの黄金期と言えた。
ついに翌1966年は改良なったフォードの圧勝に終わり、これ以降フェラーリはル・マンの優勝から現在(2021年)まで遠ざかってしまう。新型の330P3、330P4、412Pといったマシンは素晴らしいスタイリングを誇り、現在ももっとも美しいレーシングカーの一つと賞賛されている。これらはフォードやポルシェを向こうに回して大活躍したが、肝心のル・マンだけは勝てなかった。
1968年には3000ccの排気量制限と引き換えに、チャンピオンシップをプロトタイプカーに掛けることが認められた。これはフォードを初めとするアメリカのマッスルカー勢を排除するためだったが、フェラーリも巻き添えを食う形になり、この年の参戦を断念する。翌1969年は312Pで戦ったがやはりフォードGT40に敗れた。フォードは年間50台生産を条件とした5000ccクラスの公認を受けていたのである…。
1970年に、5000ccクラスの条件が年間25台生産に緩和され、これに対応したニューマシン512Sを製作するが、今度はポルシェが917で立ち塞がった。翌年の改良版512Mでも勝てず、再び3000cc制限に戻った1972年は312Pで戦うもル・マンは欠場。しかし他のレースは圧倒してタイトルを獲得。翌73年も312Pで戦ったがついにタイトルもフランスのマトラに奪われた。この時、親会社であるフィアットからレース予算の削減を求められたフェラーリは、ワークス活動をF1一本に絞ることを決定。この後、現在(2023年)に至るまでスクーデリア・フェラーリのワークスがスポーツカーレースに現れたことは無い。
WECなどにはAFコルセと言うチームからGTクラスにフェラーリのマシンが参戦しているものの、あくまでセミワークスであり、スクーデリア・フェラーリとは別組織である。2023年にはル・マン・ハイパーカー(LMH)クラスにフェラーリが参戦することが決定していたが、これもAFコルセによるセミワークス扱いとなることが発表されており、スクーデリア・フェラーリによるワークス参戦ではない。しかし、この参戦でフェラーリが製作したハイパーカー499PがトヨタGR010との激闘の末に勝利を掴み、実に58年ぶりのフェラーリにとってのル・マン総合優勝となったのである。
1970年代
1970年。コスワースDFVはカスタマー販売され、プライベーターでも一定の資金力さえあれば一線級の性能のエンジンを手に入れることが出来るようになっていた。実際、フェラーリを含む一部のエンジンを自製するチーム以外は、事実上DFVエンジンのワンメイク状態だったのである。
もちろん、レースとしてはチーム間の格差が少なくなって盛り上がるが、フェラーリにとっては強力なライバルが幾つもいることにほかならない。技術陣はこれまでのV12エンジンに代わって、水平対向の312Bを開発。より低重心とすることでDFVに対抗しようとした。
ドライバーも才気あふれるベルギー人のジャッキー・イクスと、スイス人のクレイ・レガッツォーニのコンビとなる。1970年こそかなりの戦闘力を見せるも、その後はやはりジリ貧に陥り、特に1973年は312B3の開発が完全に迷走。途中休場してまで改良をしたが、成果はさっぱり上がらなかった。このとき、ボツったマシンの中には「雪かき車」と呼ばれる程の不格好なものもあった。現在もフェラーリの黒歴史として現物をみることが可能である。
1974年、チームはルカ・ディ・モンテツェモーロの元に改革を断行。オーストリア人のニキ・ラウダといったんチームを放逐されるも呼び戻されたレガッツォーニの二人によって、急速に312B3は一線級のマシンとなっていった。チームに加わったばかりのラウダが、マシンに初めて乗るなりその出来を酷評し、エンツォを怒らせた。エンツォは、ラウダの指摘するマシンの改善点をその通りにするからタイムを1秒以上縮めてみせろと要求。ラウダは見事にそれに応えたという逸話は有名である。
翌年、重心の集中を狙った横置きギヤボックスを採用し、312TとなったマシンはついにDFV勢を圧倒する性能を発揮。ラウダの初チャンピオンと共に11年ぶりのダブルタイトルを獲得した。
この後、1976年にはラウダが大事故で瀕死の重傷となるが、彼は不屈の魂で復活。1977年もチャンピオンを獲る。チームもコンストラクターズ3連覇を成し遂げた。第1次黄金期とも呼ぶべき全盛時代の到来であった。
ラウダは77年からチームとの関係が悪化して、チャンピオンを決めた時点で一方的に離脱してしまった。さらに、ロータスがウィングカーを導入したことで312Tシリーズの優位にも陰りが見える。1978年はひとまずミシュランの開発したラジアルタイヤで対抗するも、タイトルには届かなかった。
翌1979年にはかなり強引にウィングカーに改造した312T4を開発。ジル・ヴィルヌーヴとジョディ・シェクターのコンビも良好で、シェクターとチームはダブルタイトルを獲る。しかし、ここから20年以上もの間、チームが長いトンネルに入るとは誰も予想していなかったに違いない。
1980年代
1980年は、いきなり最悪の事態で幕を開けた。昨年の「改良」型である312T5が全くの「改悪」になってしまい、表彰台にも乗れずに終わったのである。予選落ちすら喫したシェクターは引退。チームはすでにルノーが実績を上げつつあった1500ccターボエンジンへの移行を図る。
翌年に実戦投入なったターボマシン126CKはしかし、パワーこそ素晴らしかったが旧態依然のシャシーが完全に負けており、「コーナーではまともに曲がらない。ストレートでもどこにすっ飛んでいくかわからない。」というトンデモなマシンであった。新たに加入したディディエ・ピローニは普通に走らせるのがやっと。モナコ・スペインでの勝利はヴィルヌーヴのドライビングテクニックがもたらした奇跡に近いものであり、未だに語りぐさとなっている。
1982年には遥かに洗練された126C2となり、タイトル奪還に期待が集まった。だが、サンマリノGPに端を発するヴィルヌーヴとピローニの確執が、次戦ベルギーGPでのヴィルヌーヴの死という悲劇を呼んでしまう。
エンツォはヴィルヌーヴを溺愛しており、その死を悲しみこう語ったという。
「私がこれまで失ってきた人々の顔が浮かんでくる。その中にヴィルヌーヴの顔が加わってしまった」
これでピローニがチャンピオンシップをリードするが、彼もドイツGPで再起不能の重傷を負って戦線離脱。代役となったパトリック・タンベイらの奮闘もあってチームはターボマシン初のコンストラクターズタイトルを手にするが、大した慰めにもならなかった。
1983年はタンベイとルノーから移籍してきたルネ・アルヌーのフランス人コンビとなった。昨年の悲劇を受けての対策としてウィングカーが廃止されたなか、チームはコンストラクターズタイトルを連覇するも、ドライバーズタイトルはブラバムのネルソン・ピケにさらわれてしまった。
翌年からはイタリア人のミケーレ・アルボレートが加入。「ティフォシ」たちは絶えて久しいイタリア人のワールドチャンピオン誕生への期待に心躍らせた。しかし、これ以降マクラーレン・TAGポルシェやホンダが立ちふさがることになる。
1984年~1985年もタイトルはならず、あまつさえ1986年は未勝利に終わってしまう。
1987年にはオーストリア人のゲルハルト・ベルガーが加入し、新型F187はライバルに負けぬ洗練されたマシンとなった。シーズン終盤の日本GP。最大のライバル、ホンダの地元でのブッチギリの勝利を挙げたベルガーは、
次の最終戦オーストラリアも制し、来年こそはの思いがあった。しかし、これがエンツォにとっての最後の勝利となってしまう。
翌年1988年はターボエンジン最後の年となり、様々な制限がターボエンジンに課された。しかし、これはフェラーリをも巻き込んでしまい、燃費対策のためにペースを落とさざるを得ない中、ホンダはそれらのハードルを難なく超えていく。マクラーレン・ホンダに開幕から圧倒され、苦闘するチームに有ってはならない知らせがもたらされた。エンツォ・フェラーリがその生涯を閉じたのである。
それから間もないイタリアGP。なんとホンダエンジン勢がレース中に全滅。「ティフォシ」たちが熱狂する中ベルガーとアルボレートが1-2フィニッシュし、エンツォへのこれ以上ない手向けとなったのである。
1989年に向けて、チームは全くの新型マシンを開発していた。3500ccV12エンジンを搭載した流麗なマシンは640と呼ばれ、ウィリアムズから移籍してきたナイジェル・マンセルとベルガーのコンビは相変わらず強力なマクラーレン・ホンダに果敢に立ち向かう。新機軸の多いマシンゆえにリタイアも多かったが、シーズン3勝は上出来といえるもので、来る1990年代に期待は大いに高まった。だが、まだトンネルは抜けるどころか半ばも行ってないことを誰も知らなかった。
1990年代
1990年、アラン・プロストを新たに迎えたフェラーリは、昨年の進化型のマシン641及び641/2でもってマクラーレン・ホンダをあと一歩まで追い詰めるがタイトルは惜しくも逃した。
そして、翌年からはなんとこれまでにない長いスランプにおちいることになる。3年間にもわたって1勝も出来ず、その後も年1、2度勝つかどうかであった。
フェラーリの新社長となったルカ・ディ・モンテツェモーロは、チーム監督にジャン・トッドを招聘。そしてすでに2度のチャンピオンを取っていた最強のドイツ人ミハエル・シューマッハを迎え入れた。シューマッハとトッドはチームを常勝軍団へと引き上げることに成功。1997年~1999年は常にチャンピオン争いをするところまで行き、1999年に久方ぶりのコンストラクターズタイトルを取ることになった。
2000年代
2000年、ついにトップレベルのマシン、F1-2000を作ることに成功。マクラーレン・メルセデスのミカ・ハッキネンとの激闘の末、チームは実に1979年以来21年ぶりのダブルタイトルを獲得。とうとう長いトンネルを抜け出すことができたのである。
この後、シューマッハは2004年に至るまで5年連続のドライバーズチャンピオンとなり、チームもコンスラクターズ5連覇。まさに第2次黄金期の到来となった。
だが、諸行無常は避けられぬこと。フェルナンド・アロンソとルノーの台頭を前に、2005年、2006年は続けて惜敗することになり、シューマッハも引退。2007年はシューマッハに代わって加入したキミ・ライコネンによってかろうじてダブルタイトルを獲るものの、黄金期を支えたもう一人、ジャン・トッドもこの年限りで去る。これ以降またもスクーデリアは黄昏の時代を迎えることになる。
2008年、コンストラクターズタイトルは獲ったものの、フェリペ・マッサがマクラーレンのルイス・ハミルトンと激戦の末に1ポイント差で敗れる。
続く2009年は大幅に変更された空力のレギュレーションに対応できず苦戦を強いられる。更にマッサがハンガリーGPで負傷し以降のレースを欠場。代役のバドエルとフィジケラはポイントを稼ぐことができず、孤軍奮闘したライコネンが1勝するだけに留まる。コンストラクターズランキングも4位にまで落ちぶれてしまうのである。
2010年代
2010年、ライコネンに代わってかつて敵として立ち塞がったアロンソが加わる。捲土重来が期されたが、時代は新勢力のレッドブル・レーシングのもとに移ろうとしていた。セカンドドライバーのマッサが不調に陥ったままの中、ドライバーズタイトルを狙い続けるアロンソだが、セバスチャン・ベッテルの前に跳ね返され続けた。
2014年にはエンジンが複雑な回生システムを持つPU(パワーユニット)となる新レギュレーションとなり、これの対応にも失敗。メルセデスが悠々とダブルタイトルを取るのを許すばかりか、1993年シーズン以来の未勝利に終わってしまう。マッサは前年限りでウィリアムズへ去っており、ライコネンが復帰した。
2015年、アロンソがマクラーレン・ホンダに去り、今度はベッテルが跳ね馬のエースに座る。ニューマシンのSF15-Tは前年車両の弱点を克服するべく、PUに大きな改良を加えられていた。新たにチームの代表となったマウリツィオ・アリバベーネは「最低でも2勝する。」ことを目標に掲げる。ベッテルは移籍初年度にして3勝を挙げ、目標を達成。ベッテルはメルセデス二人に次ぐドライバーズランキング3位、ライコネンが4位、フェラーリもメルセデスに次ぐコンストラクターズランキング2位に入り、復調をアピールした。
翌2016年は本格的にチャンピオン争いに食い込むことを期待されていたが、メルセデスの勢いは衰えず、更に後半にはレッドブルにも押されまたもや未勝利。コンストラクターズランキングは3位、ドライバーズランキングもベッテルが4位、ライコネンが6位と前年を下回る結果となってしまう。
2017年は空力に関するレギュレーションが大幅に変更され、空力に優れるレッドブルがメルセデスにどこまでチャレンジできるかが、シーズン前の一番の話題であり、フェラーリの優位を予想する者は多くなかった。しかし、ベッテルは開幕戦でメルセデスのハミルトンと真っ向勝負の末これを下して優勝。幸先良くシーズンのスタートを切った。ベッテルがドライバーズランキングを前半にリードするが、後半戦に入ってからは、マシントラブルやクラッシュによってノーポイントに終わったレースが多かったことによって失速してしまう。最終的にベッテルはランキング2位、ライコネンがランキング4位に入り、フェラーリもパワーユニットのレギュレーションが施行された2014年以降のシーズンで、最多のポイントを稼いでランキング2位となった。しかしながら、ダブルタイトルの可能性が十分ありながらメルセデスの独走を許してしまったため、素直に喜べる結果ではなかった。
2018年はパワーユニットの強化に注力して開幕ダッシュに成功、前半戦をリードするという去年と同じような展開に。しかし、やはり後半戦でジリ貧となり、結局はメルセデスのハミルトンのチャンピオン獲得を許してしまう。チームは全レースでポイントを獲得するという安定性はあったが、コンストラクターズタイトルも取れなかった。ベッテルは昨年同様ランキング2位、ライコネンはアメリカGPで久々の勝利を挙げてランキング3位に入った。
2019年はアルファロメオ(旧ザウバー)に去ったライコネンとトレードの形で、新進気鋭のモナコ人ドライバー、シャルル・ルクレールが加入した。また、スポンサーであるフィリップ・モリスのイメージロゴ「ミッション・ウィノウ」の文字がマシンに描かれるようになった。しかし、これは「禁止されているはずのタバコの隠れ広告」だとの指摘があったのかシーズン本番では結局剥がされている。ちなみに2輪のMotoGPでは同じイタリアチームのドゥカティに同様のロゴが表示され、こちらはシーズン本番でも採用され続けている。これまでの2年間とは逆に、開幕時点ではメルセデス勢が圧倒的優位な状況となり、前半戦は3位争いに終止する有様だった。数少ないチャンスもトラブルやペナルティで逃し、おまけにメルセデスを止める役目をレッドブル・ホンダに取られてしまう。後半戦になってようやく盛り返し、ルクレールがベルギーGPでF2レースで事故死したカート時代からの友人アントワーヌ・ユベールの弔い合戦を勝ち抜き、初優勝を果たしたのをはじめ、イタリアでは9年ぶりの地元優勝を成し遂げた。最終的にはルクレールは3勝をあげてランキング4位、ベッテルはランキング5位となった。コンストラクターズランキングは2位。
2020年代
2020年はルクレールとベッテルのコンビが継続。だが、PUの技術開発においてフェラーリが燃料流量規制におけるグレーゾーンを突いて、性能面で優位に立っていたのではないかという疑惑が昨年から噴出していた。FIAは調査を行い、フェラーリとの間で「違反はなかった」とする合意がなされたが、これが疑惑の払拭に値しない秘密合意だとしてフェラーリPUを使う他のチームも含めての合同声明で抗議されるに及んだ。これらのせいもあってフェラーリPUは開発が進まず、メルセデス勢・ホンダ勢・ルノー勢に比べて出遅れることになった。さらに新型マシンのSF1000も空力的問題を抱え、新型コロナによるイタリア全土のロックダウンの影響をもろに受けてしまったこともあって、チームはまたしても優勝から遠ざかってしまった。シーズンを通して表彰台3回にとどまり、コンストラクターズランキングは6位。コンストラクターズで5位以下に落ちるのは、1980年の大低迷以来のことであった。
歴代所属ドライバー(F1)
- アルベルト・アスカリ
- ファン・マヌエル・ファンジオ
- ジュゼッペ・ファリーナ
- ピエロ・タルッフィ
- マイク・ホーソーン
- フィル・ヒル
- リッチー・ギンサー
- ロレンツォ・バンディーニ
- ジョン・サーティース
- ペドロ・ロドリゲス
- クリス・エイモン
- ジャッキー・イクス
- デレック・ベル
- クレイ・レガツォーニ
- マリオ・アンドレッティ
- アルトゥーロ・メルツァリ
- ニキ・ラウダ
- カルロス・ロイテマン
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