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フェラーリ
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フェラーリ(Ferrari)とは、フィアット下の、イタリアの高級スポーツカーを製造している自動車メーカーである。

現在CEOはルイスキャリー・カミレッリ。会長ジョンエルカーンフィアット社会長を兼任)。

概要

他の自動車メーカーとは異なり、創業者のエンツォ・フェラーリが自身のレース活動を運営する為に設立(スクーデリア・フェラーリ)、1950年から行われているF1世界選手権に、初年度から現在まで参戦してる一のコンストラクターである。

また、様々な名を製造し、自動車歴史伝説を築いている。これもレース資金を得るためにレース車両ロードカー用に再調整されたもので、当初は性べて品質の悪さもあった。
しかしレースでの活躍がフェラーリのブランドイメージを向上させ、高価であったものの、世界中のセレブリティ用されるようになった。

1960年代に経営危機に陥ったが、同じイタリアフィアットが買収、エンツォはレース活動に専念し、部門はフィアットの下で整理されて自動車メーカーらしくなっていった。

1988年にエンツォが亡くなると、彼の自社フィアットが買い取り、全部門がフィアットの管理下となった。

1991年ルカ・ディ・モンテゼーモロ社長に就任すると、リストラを含む改革を行った。その結果、は大幅な品質向上に成功させ、売り上げにもつながった。さらにレース部門では、F11999年から2004年までコンストラクタータイトルを手にするなど、最古の参加チームながらもトップクラスを維持し続けた。

しかし2007年タイトルを最後にF1ではチャンピオン獲得には至らず、依然と300億円以上を予算としてかける状況に、フィアットCEOのセルジオ・マルキオンネと対立構造が生まれ、ついに2014年にモンテゼーモロ更迭され、マルキオンネが新社長となった。

ルキオンネは2018年健康し、同年に亡くなったため、CEOにはカミレッリが、会長にはジョンエルカーンが就任した。

2009年3月9日自動車業界初のニコニコチャンネルFerrari チャンネルexit_nicochannel 」が開設された。

 現行車種

12気筒モデル

8気筒モデル

スペシャルモデル

過去車種

※数がものすごいので一部抜

スクーデリア・フェラーリ

ここでは、フェラーリのレース部門であるスクーデリア・フェラーリの歴史を挙げていく。あまりにも膨大なので、エンツォ・フェラーリが存命中の時代を中心に、要な出来事を書くに留める。詳しく知りたければ、専門的な書物やサイトが山のようにあるのでその辺は苦労しないはずである。

黎明期~戦前

エンツォ・フェラーリのレース活動は、当時のイタリア自動車メーカーにレーシングドライバーとして参加することから始まる。やがて、名門アルファロメオに所属、1923年にラベングランリレースで初優勝を遂げる。この時の縁で、地元の名士バラッカ氏の息子である第1次世界大戦でのイタリア空軍の撃墜王、フランチェスコ・バラッカのトレードマークである「キャバリーノ・ランパンテ(跳ね)」の紋章を譲られる。これが今に続く「い跳ね伝説の始まりであった。

やがて、アルファロメオムッソリーニ政権による自由への抑圧の中でグランリレースから一時撤退を余儀なくされるが、スポーツカーを切ることになる。この中で、エンツォは1929年アルファロメオセミワークスチームスクーデリア・フェラーリ」を結成した。長男ディーノが生まれたことでレーサーとしては身を引いたエンツォだったが、彼のエントリーさせたマシンはミッレ・ミリアタルガ・フローリオル・マン24時間レースといったクラシックイベントで暴れまわった。しかしやがてナチス・ドイツ威発揚を的に台頭してきたメルセデスアウトウニオンを相手に苦戦するようになり、業を煮やしたアルファロメオ本社がスクーデリア・フェラーリを解散することを命じ、やがて対立したエンツォを追放してしまう。
この時の契約で、4年間フェラーリの名を使えなくなったエンツォは、ティーポ815を製作し、戦争前の最後のレースとなったミッレ・ミリアに参戦。これが、フェラーリ初のオリジナルカーであった。

戦後~1950年代

第2次世界大戦が終わり、再びスクーデリア・フェラーリを名乗れることになった上で、初のフェラーリの名を冠したマシンティー125完成させた。これのグランプリカバージョンである125F-1が記念すべきフェラーリ初のF1マシンとなった。

1950年からF1グランプリが開始され、エンツォの標はかつて自分を袖にしたアルファロメオを打ち破ることとなった。この年は、直接対決での勝利は果たせなかったものの彼らの欠場したレース勝利し、手応えを掴んだ。翌年、シルバーストンサーキットで行われたイギリスGPで、遂にアルファロメオを打ち破ることに成功。狂喜したエンツォはアルファロメオに対して「今もアルファロメオは私の初恋の相手だ」と賞賛なのか煽りなのかわからないメッセージを送る。後に、エンツォはこの時の気持ちをこう語っている。

「私は嬉しくて泣いたが、悲しくもあった、なぜなら自分の母親を殺してしまったのだから…」

この年のイタリアGPで、フェラーリはまたも1-2フィニッシュでアルファロメオを破り、観客たちは新たなグランプリの役誕生に「これからはフェラーリの時代だ!」と熱狂した。現在まで続くフェラーリファンティフォシ」の始まりである。もっとも、結局タイトルアルファロメオにさらわれてしまったのだが。

1952年、フェラーリは圧倒的な強さで初のワールドチャンピオンを獲得する。(当時はドライバーチャンピオンのみ)
その後は1953年も制して連覇し、その後やや低迷するが1956年1958年ドライバータイトルを獲得。しかし1958年ミッドシップマシンが現れ、FRフォーミュラカーは時代遅れになりつつあった上、この年から始まったコンストラクターチャンピオンシップの初代タイトルを獲り損ねてしまう。翌年もミッドシップマシンが立たなかったフェラーリは、いよいよ自らもミッドシップマシンを作る必要に迫られていた。

1960年代

1960年、初めてミッドシップマシンを投入したがさすがに熟成不足で、いきなり勝てるわけもなかった。しかし、翌年にマシンの性を下げるためにレギレーションが改定され、それまでのF2相当の1500ccエンジンと定められた。これが有利に働いた。すでにフェラーリは優秀なF2エンジンをもっており、これをそのまま新開発ミッドシップマシンに搭載すればよかったのだ。こうして、1961年シーズンはフェラーリのものとなり、初めてのドライバーズ、コンスクターズのダブルタイトルを獲得した。しかし、その後はまた低迷。1964年に新エンジン開発してダブルタイトルを取り返したが、これも一年限りだった。

1966年F13000ccとなる。これは1980年代半ばまで長らく続く規格となるのだが、これの対応でフェラーリはつまづいてしまう。ティー312V12エンジンパワーで圧倒する作戦に出たのだが、信頼性やバランスで勝負してきたブラバムロータスといった英国勢相手に決め手を欠く展開が続いてしまう。そこにフォードコスワースDFVという極めて汎用性に優れるエンジンが出現。結局タイトルから遠ざかったまま60年代を終えることになったのである。

スポーツカーレースでのフェラーリ

さて、ここでスポーツカーレースでの活躍にも軽く触れておこう。

上記125を改良した166で、1949年に再開されたル・マン24時間レースを制したフェラーリは、この166のロードカーを販売。自動車メーカーとしての一歩を踏み出す。

1952年には250シリーズデビュー。これをベースにひたすら排気量アップパワーアップを図り、1954年には375プラスで2度ル・マン24時間制覇を果たす。しかし、パワーゴリ押しする戦略には限界が来ており、安全性も含めて問題が深刻になりつつあった。ル・マンではジャガーに三連覇を許し、地元の有利さで戦えたミッレ・ミリアでも観客を巻き込む大事故を起こしてしまう。これによってスポーツカーレースは排気量が3000ccに制限される。

だが、これですでに熟成された250エンジンを再び活かすことが出来、いカムカバーを付けたテスタロッサエンジン250TRは1958年、19601961年ル・マン24時間のみならず、スポーツカーレースメイクスタイトルをも圧勝した。
あまりに250TRが強すぎたので、今度は年間100台以上の生産を条件とするGTクラスメイクスタイトルを移し、250TRを含むプロトタイプカーを閉めだしにかかるレギレーションとなった。だがフェラーリはGTクラスを上記の250GTOで対応しつつ、チャンピオンシップとは関係なくなった代わりに制限もくなったプロトタイプカーでは、250TRのパワーアップ330TR/LMでまたも1962年ル・マン24時間を制する。

翌年、いよいよスポーツカーにもミッドシップ化の波が押し寄せる。250エンジンを積んだ250Pはル・マン24時間の優勝スポーツカーレースの新時代を告げた。だが、の向こうからフォードGT40を引っさげてスポーツカーレースの制覇に乗り出してきた。しかし、まだギアボックスなどの信頼性に問題を抱えたフォードに対し、熟成されたフェラーリのマシンは19641965年と防衛を果たしてみせた。もっとも、1965年はフェラーリのワークス330P2トラブルで潰れてプライベーターの2線級マシンである250LMがフォローした結果だったが。これは、1960年以来の6連覇という見事なものであり、フェラーリのスポーツカー黄金期と言えた。

ついに翌1966年は改良なったフォードの圧勝に終わり、これ以降フェラーリはル・マン優勝から現在2021年)まで遠ざかってしまう。新330P3330P4412Pといったマシン素晴らしいスタイリングを誇り、現在ももっとも美しいレーシングカーの一つと賞賛されている。これらはフォードポルシェを向こうに回して大活躍したが、肝心のル・マンだけは勝てなかった。

1968年には3000ccの排気量制限と引き換えに、チャンピオンシッププロトタイプカーに掛けることが認められた。これはフォードを初めとするアメリカのマッスルカー勢を排除するためだったが、フェラーリも巻き添えを食う形になり、この年の参戦を断念する。翌1969年312Pで戦ったがやはりフォードGT40に敗れた。フォードは年間50台生産を条件とした5000ccクラス認を受けていたのである…。

1970年に、5000ccクラスの条件が年間25台生産に緩和され、これに対応したニューマシン512Sを製作するが、今度はポルシェが917で立ち塞がった。翌年の改良版512Mでも勝てず、再び3000cc制限に戻った1972年312Pで戦うもル・マンは欠場。しかし他のレースは圧倒してタイトルを獲得。翌73年も312Pで戦ったがついにタイトルフランスマトラに奪われた。この時、会社であるフィアットからレース予算の削減をめられたフェラーリは、ワークス活動をF1一本に絞ることを決定。この後、現在2023年)に至るまでスクーデリア・フェラーリのワークススポーツカーレースに現れたことはい。

WECなどにはAFコルセと言うチームからGTクラスにフェラーリのマシンが参戦しているものの、あくまでセミワークスであり、スクーデリア・フェラーリとは別組織である。2023年にはル・マン・ハイパーカー(LMH)クラスにフェラーリが参戦することが決定していたが、これもAFコルセによるセミワークス扱いとなることが発表されており、スクーデリア・フェラーリによるワークス参戦ではない。しかし、この参戦でフェラーリが製作したハイパーカー499PトヨタGR010との闘の末に勝利を掴み、実に58年ぶりのフェラーリにとってのル・マン総合優勝となったのである。

1970年代

1970年コスワースDFVはカスタマー販売され、プライベーターでも一定の資金力さえあれば一線級の性エンジンを手に入れることが出来るようになっていた。実際、フェラーリを含む一部のエンジンを自製するチーム以外は、事実上DFVエンジンワンメイク状態だったのである。
もちろん、レースとしてはチーム間の格差が少なくなって盛り上がるが、フェラーリにとっては強力なライバルが幾つもいることにほかならない。技術はこれまでのV12エンジンに代わって、水平対向312Bを開発。より低重心とすることでDFVに対抗しようとした。
ドライバーも才気あふれるベルギー人のジャッキー・イクスと、スイス人のクレイ・レガッツォーニのコンビとなる。1970年こそかなりの戦闘力を見せるも、その後はやはりジリ貧に陥り、特に1973年312B3の開発全に迷走。途中休場してまで改良をしたが、成果はさっぱり上がらなかった。このとき、ボツったマシンの中には「雪かき」と呼ばれる程の不格好なものもあった。現在もフェラーリの黒歴史として現物をみることが可である。

1974年チームルカ・ディ・モンテツェモーロの元に改革を断行。オーストリア人のニキ・ラウダといったんチームを放逐されるも呼び戻されたレガッツォーニの二人によって、急速に312B3は一線級のマシンとなっていった。チームに加わったばかりのラウダが、マシンに初めて乗るなりその出来を酷評し、エンツォを怒らせた。エンツォは、ラウダ摘するマシンの改善点をその通りにするからタイムを1以上縮めてみせろと要ラウダは見事にそれに応えたという逸話は有名である。
翌年、重心の集中を狙った横置きギヤボックスを採用し、312TとなったマシンはついにDFV勢を圧倒する性を発揮。ラウダの初チャンピオンと共に11年ぶりのダブルタイトルを獲得した。
この後、1976年にはラウダが大事故瀕死の重傷となるが、彼は不屈の復活1977年チャンピオンを獲る。チームコンストラクターズ3連覇を成し遂げた。第1次黄金期とも呼ぶべき全盛時代の到来であった。

ラウダは77年からチームとの関係が悪化して、チャンピオンを決めた時点で一方的に離脱してしまった。さらに、ロータスウィングカーを導入したことで312Tシリーズの優位にも陰りが見える。1978年はひとまずミシュラン開発したラジアルタイヤで対抗するも、タイトルには届かなかった。
1979年にはかなり強引にウィングカー改造した312T4を開発ジル・ヴィルヌーヴとジョディ・シェクターコンビも良好で、シェクターチームダブルタイトルを獲る。しかし、ここから20年以上もの間、チームが長いトンネルに入るとはも予想していなかったに違いない。

1980年代

1980年は、いきなり最悪の事態で幕を開けた。昨年の「改良」である312T5が全くの「改悪」になってしまい、表台にも乗れずに終わったのである。予選落ちすら喫したシェクター引退チームはすでにルノーが実績を上げつつあった1500ccターボエンジンへの移行を図る。

翌年に実戦投入なったターボマシン126CKはしかし、パワーこそ素らしかったが旧態依然のシャシー全に負けており、「コーナーではまともに曲がらない。ストレートでもどこにすっ飛んでいくかわからない。」というトンデモマシンであった。新たに加入したディディエ・ピローニは普通に走らせるのがやっと。モナコスペインでの勝利ヴィルヌーヴのドライビングテクニックがもたらした奇跡に近いものであり、未だに語りぐさとなっている。
1982年にはかに洗練された126C2となり、タイトル奪還に期待が集まった。だが、サンマリノGPに端を発するヴィルヌーヴとピローニの確執が、次戦ベルギーGPでのヴィルヌーヴの死という悲劇を呼んでしまう。

エンツォはヴィルヌーヴを溺愛しており、その死を悲しみこう語ったという。

「私がこれまで失ってきた人々の顔が浮かんでくる。その中にヴィルヌーヴの顔が加わってしまった」

これでピローニがチャンピオンシップリードするが、彼もドイツGPで再起不能の重傷を負って戦線離脱。代役となったパトリック・タンベイらの奮闘もあってチームターボマシン初のコンストラクタータイトルを手にするが、大した慰めにもならなかった。

1983年はタンベイとルノーから移籍してきたルネ・アルヌーのフランスコンビとなった。昨年の悲劇を受けての対策としてウィングカー止されたなか、チームコンストラクタータイトルを連覇するも、ドライバータイトルブラバムネルソン・ピケにさらわれてしまった。
翌年からはイタリア人のミケーレ・アルボレートが加入。「ティフォシ」たちは絶えて久しいイタリア人のワールドチャンピオン誕生への期待に心躍らせた。しかし、これ以降マクラーレンTAGポルシェホンダが立ちふさがることになる。
1984年1985年タイトルはならず、あまつさえ1986年は未勝利に終わってしまう。

1987年にはオーストリア人のゲルハルト・ベルガーが加入し、新F187はライバルに負けぬ洗練されたマシンとなった。シーズン終盤の日本GP。最大のライバルホンダの地元でのブッチギリの勝利を挙げたベルガーは、

だぜ。これでエンツォの親父を高くして眠れるな」

次の最終戦オーストラリアも制し、来年こそはの思いがあった。しかし、これがエンツォにとっての最後の勝利となってしまう。

翌年1988年ターボエンジン最後の年となり、様々な制限がターボエンジンに課された。しかし、これはフェラーリをも巻き込んでしまい、燃費対策のためにペースを落とさざるを得ない中、ホンダはそれらのハードルを難なくえていく。マクラーレンホンダに開幕から圧倒され、苦闘するチームに有ってはならない知らせがもたらされた。エンツォ・フェラーリがその生涯を閉じたのである。
それから間もないイタリアGP。なんとホンダエンジン勢がレース中に全滅。「ティフォシ」たちが熱狂する中ベルガーとアルボレートが1-2フィニッシュし、エンツォへのこれ以上ない手向けとなったのである。

1989年に向けて、チームは全くの新マシン開発していた。3500ccV12エンジンを搭載した流麗なマシンは640と呼ばれ、ウィリアムズから移籍してきたナイジェル・マンセルベルガーのコンビは相変わらず強力なマクラーレンホンダに果敢に立ち向かう。新機軸の多いマシンゆえにリタイアも多かったが、シーズン3勝は上出来といえるもので、来る1990年代に期待は大いに高まった。だが、まだトンネルは抜けるどころか半ばも行ってないことをも知らなかった。

1990年代

1990年アラン・プロストを新たに迎えたフェラーリは、昨年の進化マシン641及び641/2でもってマクラーレンホンダをあと一歩まで追い詰めるがタイトルは惜しくも逃した。
そして、翌年からはなんとこれまでにない長いスランプにおちいることになる。3年間にもわたって1勝も出来ず、その後も年1、2度勝つかどうかであった。

フェラーリの新社長となったルカ・ディ・モンテツェモーロは、チーム監督ジャン・トッドを招聘。そしてすでに2度のチャンピオンを取っていた最強ドイツミハエル・シューマッハを迎え入れた。シューマッハとトッドはチーム常勝軍団へと引き上げることに成功。1997年1999年は常にチャンピオン争いをするところまで行き、1999年に久方ぶりのコンストラクタータイトルを取ることになった。

2000年代

2000年、ついにトップレベルマシンF1-2000を作ることに成功。マクラーレンメルセデスミカ・ハッキネンとの闘の末、チームは実に1979年以来21年ぶりのダブルタイトルを獲得。とうとう長いトンネルを抜け出すことができたのである。

この後、シューマッハ2004年に至るまで5年連続のドライバーチャンピオンとなり、チームコンスクターズ5連覇。まさに第2次黄金期の到来となった。

だが、諸行無常は避けられぬことフェルナンド・アロンソルノーの台頭を前に、2005年2006年は続けて惜敗することになり、シューマッハ引退2007年シューマッハに代わって加入したキミ・ライコネンによってかろうじてダブルタイトルを獲るものの、黄金期を支えたもう一人、ジャン・トッドもこの年限りで去る。これ以降またもスクーデリア黄昏の時代を迎えることになる。

2008年コンストラクタータイトルは獲ったものの、フェリペ・マッサマクラーレンルイス・ハミルトン戦の末に1ポイント差で敗れる。

続く2009年は大幅に変更された力のレギレーションに対応できず苦戦を強いられる。更にマッサハンガリーGPで負傷し以降のレースを欠場。代役のバドエルフィジケラポイントを稼ぐことができず、孤軍奮闘したライコネンが1勝するだけに留まる。コンストラクターズラキングも4位にまで落ちぶれてしまうのである。

2010年代

2010年ライコネンに代わってかつて敵として立ち塞がったアロンソが加わる。捲土重来が期されたが、時代は新勢力のレッドブル・レーシングのもとに移ろうとしていた。セカンドドライバーマッサが不調に陥ったままの中、ドライバータイトルを狙い続けるアロンソだが、セバスチャン・ベッテルの前に跳ね返され続けた。

2014年にはエンジンが複雑な回生システムを持つPUパワーユニット)となる新レギレーションとなり、これの対応にも失敗。メルセデス々とダブルタイトルを取るのを許すばかりか、1993年シーズン以来の未勝利に終わってしまう。マッサは前年限りでウィリアムズへ去っており、ライコネンが復帰した。

2015年アロンソマクラーレンホンダに去り、今度はベッテルが跳ねエースに座る。ニューマシンSF15-Tは前年車両の弱点をするべく、PUに大きな改良を加えられていた。新たにチームの代表となったマウリツィオ・アリバベーネは「最低でも2勝する。」ことを標に掲げる。ベッテルは移籍初年度にして3勝を挙げ、標を達成。ベッテルメルセデス二人に次ぐドライバーズラキング3位、ライコネンが4位、フェラーリもメルセデスに次ぐコンストラクターズラキング2位に入り、復調をアピールした。

2016年は本格的にチャンピオン争いに食い込むことを期待されていたが、メルセデスの勢いは衰えず、更に後半にはレッドブルにも押されまたもや未勝利コンストラクターズラキングは3位、ドライバーズラキングベッテルが4位、ライコネンが6位と前年を下回る結果となってしまう。

2017年力に関するレギレーションが大幅に変更され、力に優れるレッドブルメルセデスにどこまでチャレンジできるかが、シーズン前の一番の話題であり、フェラーリの優位を予想する者は多くなかった。しかし、ベッテルは開幕戦でメルセデスハミルトンっ向勝負の末これを下して優勝。幸先良くシーズンスタートを切った。ベッテルドライバーズラキングを前半にリードするが、後半戦に入ってからは、マシントラブルクラッシュによってノーポイントに終わったレースが多かったことによって失速してしまう。最終的にベッテルランキング2位ライコネンランキング4位に入り、フェラーリもパワーユニットレギレーションが施行された2014年以降のシーズンで、最多のポイントを稼いでランキング2位となった。しかしながらダブルタイトルの可性が十分ありながらメルセデスの独走を許してしまったため、素直に喜べる結果ではなかった。

2018年パワーユニットの強化に注力して開幕ダッシュに成功、前半戦をリードするという去年と同じような展開に。しかし、やはり後半戦でジリ貧となり、結局はメルセデスハミルトンチャンピオン獲得を許してしまう。チームは全レースポイントを獲得するという安定性はあったが、コンストラクタータイトルも取れなかった。ベッテルは昨年同様ランキング2位ライコネンアメリカGPで久々勝利を挙げてランキング3位に入った。

2019年アルファロメオ(旧ザウバー)に去ったライコネンとトレードの形で、新進気鋭のモナコドライバーシャルル・ルクレールが加入した。また、スポンサーであるフィリップモリスイメージロゴミッション・ウィノウ」の文字マシンに描かれるようになった。しかし、これは「禁止されているはずのタバコの隠れ広告」だとの摘があったのかシーズン本番では結局剥がされている。ちなみに2輪のMotoGPでは同じイタリアチームドゥカティに同様のロゴが表示され、こちらはシーズン本番でも採用され続けている。これまでの2年間とは逆に、開幕時点ではメルセデス勢が圧倒的優位な状況となり、前半戦は3位争いに終止する有様だった。数少ないチャンストラブルやペナルティで逃し、おまけメルセデスを止める役レッドブルホンダに取られてしまう。後半戦になってようやく盛り返し、ルクレールベルギーGPでF2レース事故死したカート時代からの友人アントワーヌ・ユベールの弔い合戦を勝ち抜き、初優勝を果たしたのをはじめ、イタリアでは9年ぶりの地元優勝を成し遂げた。最終的にはルクレールは3勝をあげてランキング4位、ベッテルランキング5位となった。コンストラクターズラキング2位

2020年代

2020年ルクレールベッテルコンビ継続。だが、PUの技術開発においてフェラーリが燃料流量規制におけるグレーゾーンを突いて、性能面で優位に立っていたのではないかという疑惑が昨年から噴出していた。FIAは調を行い、フェラーリとの間で「違反はなかった」とする合意がなされたが、これが疑惑の払拭に値しない秘密合意だとしてフェラーリPUを使う他のチームも含めての合同明で抗議されるに及んだ。これらのせいもあってフェラーリPU開発が進まず、メルセデス勢・ホンダ勢・ルノー勢にべて出遅れることになった。さらに新マシンSF1000力的問題を抱え、新型コロナによるイタリア全土のロックダウンをもろに受けてしまったこともあって、チームはまたしても優勝から遠ざかってしまった。シーズンを通して表台3回にとどまり、コンストラクターズラキングは6位。コンストラクターズで5位以下に落ちるのは、1980年の大低迷以来のことであった。

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フェラーリ

70 ななしのよっしん
2021/01/25(月) 19:18:42 ID: TzkeZ8aivY
噛ませ犬の代名詞な気がする。
そりゃいかもしれないけど毎回負けるって
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71 ななしのよっしん
2021/03/28(日) 03:14:11 ID: DH+jW7b0Y+
これまたダサいカラースキームですが昨年よりはかにいい状態みたい
でもここからグダグダになってこそ
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72 ななしのよっしん
2021/06/14(月) 00:54:03 ID: 0AtnWGKDwe
アペニンおろしに 颯爽
マラネッロ駆ける日輪の
ティフォシの罵倒麗しく
が名ぞ スクーデリアフェラーリ
ボックス ボックス ボックス ボックス
スクーデリアフェラーリ
ファック ファック ファック ファック
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73 ななしのよっしん
2022/03/26(土) 00:21:22 ID: hpJEbtluwp
今年のF1マシンカッコいいし、きちんと速くて期待できそうだな
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74 ななしのよっしん
2022/04/02(土) 20:32:49 ID: DH+jW7b0Y+
頼むからVやねん!はよしてくれよ・・・?
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75 ななしのよっしん
2022/04/23(土) 19:02:54 ID: MtqucHkm5X
ジャミロクワイフェラーリマニアなんだけど、どうやら音にこだわりがあるかららしいね。かっこよ。
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76 ななしのよっしん
2022/06/01(水) 21:35:27 ID: UL6NKyMkSg
見始めた時がミハエル時代だったもんだから安定して強いのがスタンダードだと思ってたけど、今となっては勝てそうで勝てないしやらかしまくるのが常運転のチームに認識が変わってしまった
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77 ななしのよっしん
2022/09/11(日) 12:19:44 ID: DH+jW7b0Y+
メルセデス君の政治活動でフロア規制強化
一番割を食ったのはフェラーリ
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78 ななしのよっしん
2022/10/30(日) 17:03:36 ID: oFUVf5CKKZ
WECの話だけど遂にル・マン・ハイパーカーの499Pが正式発表されたね
来年の立場的にはトヨタに対する挑戦者ってところかな?
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79 ななしのよっしん
2023/06/11(日) 23:09:48 ID: aS0oGGFiUN
ル・マン総合優勝おめでとう!あの圧巻とも言える速さと(少しヒヤッとする場面もあれど)信頼性は素直に凄かった。
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