ホルヘ・マルチネスとは、スペイン・バレンシア州出身の元・MotoGPライダーである。
アスパー(Aspar)というニックネームで知られる。世界チャンピオンを4回獲得した。
現在はMotoGPの名門プライベートチームであるアンヘル・ニエト・チーム(2017年までの名称はチーム・アスパー)のオーナーを務めている。
ライダーとしての戦歴
26歳までに4回の世界チャンピオンを獲得
1962年8月29日にスペイン・バレンシア州アルシラで生まれた。
16歳の頃、つまり1978年頃にレースを始めた。
一番最初のレースは故郷アルシラのすぐそばのグアダスアルという街
のサーキットだった。
バレンシアにはリカルド・トルモという二輪レーサーがいたが、この人が親切にしてくれた。
リカルド・トルモはバレンシア州出身のMotoGPライダーで、1978年に50ccクラスチャンピオンに
輝いていた。ホルヘ・マルチネスにとって10歳年上で、まさしく兄貴分と言える人である。
1981年にはスペイン選手権50ccクラスでチャンピオン、125ccクラスでランキング2位。
1982年5月23日のスペインGPでMotoGPにデビューした。50ccクラスに参戦。
1984年からスペインの名門メーカー・デルビと契約し、ワークスライダーとなっている。
ちなみに10歳年上の先輩であるリカルド・トルモも全く同時にデルビのワークスライダーとなり、
ホルヘ・マルチネスとチームメイトになった。
1984年は80ccクラスに参戦、オランダGPでキャリア初優勝を収めた。
1985年も80ccクラスに参戦、全7戦で3勝を収めランキング2位。23歳でトップクラスに成長する。
1986年からの3年間が彼の絶頂期となった。3年連続で80ccクラスチャンピオンを獲得している。
また1988年には80ccクラスのみならず125ccクラスにも参戦し、両クラスでチャンピオンを獲得した。
こちらの写真が1988年シーズンを終えたときの記念写真。ゼッケン1番が80ccのマシンで、
ゼッケン5番が125ccのマシン。チャンピオンマシン2台に挟まれている。
負傷が続き調子を落としつつ日本人ライダーを迎え撃つ
1989年は絶頂から一転して苦難の一年となった。怪我に苦しみ、転倒が増えた。
1989年をもってデルビとの関係が終わり、その後はコバス(スペインの天才技術者が作ったマシン)、
ホンダ、ヤマハ、アプリリアと渡り歩いていくことになった。
また、1990年頃から日本人ライダーの参戦が増え、軽排気量クラスを席巻するようになった。
日本は人口が1億3千万人もある国で、スペインの3倍の人口がある。
その人口過密国でバイクブームが起こっていて、バイクレースの競技人口が一気に増大したことにより、
恐るべき才能を持つライダーたちが次々と誕生、MotoGPの軽排気量クラスで躍進していった。
その代表格が上田昇や坂田和人であった。
ホルヘ・マルチネスから見ると上田昇が5歳年下、坂田和人が4歳年下である。
若くて勢いがある彼らを封じ込めるようと懸命の応戦をするもなかなか上手くいかず、
1990年以降はランキング5位が最高となった。
1992年からはチーム・アスパーを結成し、ライダー兼チームオーナーとして活動。
スペイン国内での高い知名度を活かしてスポンサーを集めつつ良いマシンを作って参戦したが、
さすがに全盛期のような連戦連勝を再現することはできなかった。
とはいえ、シングルフィニッシュの常連でたまに表彰台に上ることができるベテランライダーとして
きっちり存在感を示していた。
16歳6ヶ月年下のヴァレンティーノ・ロッシと戦う
1995年のホルヘ・マルチネスはMotoGP125ccクラスに参戦すると同時に、
ヨーロッパ選手権125ccクラスにも参戦していた。いわゆるダブルエントリーである。
当時のMotoGPは全13戦でレースが少なく、練習代わりにヨーロッパ選手権へ出走していたのである。
体のあちこちが痛む32歳のホルヘ・マルチネスの前にやってきたのは、当時16歳になったばかりの
ヴァレンティーノ・ロッシだった。
ロッシは元気に走り、ヨーロッパ選手権をランキング3位で終えて、翌1996年にはMotoGPの
125ccクラスにやってきた。そこでもホルヘ・マルチネスはロッシと一緒に走ることになった。
33歳のおじさんが17歳の少年と一緒に走る、なんという光景だろうか。
※現在のMotoGP軽量級では年齢制限が掛けられていて、こういう事が起こらなくなっている。
16歳年下の若者と一緒に走って気持ちが若くなったのか、それともアプリリアのマシンが
ぴったりはまったのか、1996~1997年のホルヘ・マルチネスは1995年よりも成績が良くなっている。
このページの成績表を見ても、シングルフィニッシュの数がグッと増えていることがわかる。
1997年にヴァレンティーノ・ロッシは15戦11勝でMotoGP125ccクラスチャンピオンを獲得した。
若き新星ロッシの圧倒的な勝ちっぷりを見てホルヘ・マルチネスは思うところがあったのだろう、
1997年をもって現役を引退することになった。
MotoGP通算37勝はスペイン人ライダーとしてはアンヘル・ニエトに次ぐ歴代2位の記録である。
妨害行為
2018年現在のホルヘ・マルチネスはアンヘル・ニエト・チームのオーナーとしてピットに常駐し、
紳士然とした振る舞いをしている。いかにも人の良さそうな顔で、いつも笑顔を振りまいている。
ところが現役時代のホルヘ・マルチネスは、巧みな妨害行為をしてくることで有名だった。
ヴァレンティーノ・ロッシの自叙伝には、以下のような記述が並んでいる。
「マックス・ビアッジときたら、ひどい奴だ。彼は僕がレース後にスロー走行しているとき、
時速200kmの猛スピードで横をすり抜けてくることを何度もやってきた。僕をびっくりさせて、
萎縮するためにそういう悪ふざけをしているんだ。僕に対してだけじゃなく、他の選手にもやっていた。
悪ふざけで他のライダーを萎縮させようとする輩は他にもいた。その筆頭がホルヘ・マルチネスだ。
彼はいろんな小技の引き出しを持っていた。彼のやってくる小技の中で最も嫌だったのが、
予選のタイムアタック中に走行ラインを塞ぎに来る行為だった。僕の妨害をするために何でもしてきた」
ホルヘ・マルチネスはお世辞にもクリーンなライダーではなかったと語られている。
このロッシの体験談と酷似したことを坂田和人さんも語っている。
2014年正月に放送されたG+座談会で、こんなことを言っていた。
「MotoGPでヨーロッパのライダーにぶつけられたり引っかけられたりしたことは何度もある。
僕もノビー(上田昇さんのこと)も被害者だった。ホルヘ・マルチネスは走行中に巧みにブレーキレバーやクラッチレバーを引っかけてきた。あれは完璧に意図的にやってきたと確信している。
とても腹がたつので、ノビーと一緒にホルヘ・マルチネスのピットへ抗議しに行ったこともある。
そうした抗議をすると、その次のレースの決勝開始直前にホルヘ・マルチネスはわざわざ遠くから
まっすぐ自分のところまで歩いてやってきて『今回のレース気をつけろよ 俺の近くを走るなよ』
などと言ってプレッシャーを掛けてきた。自分は速くてチャンピオン争いの有力候補だったので、
ホルヘ・マルチネスに目を付けられていたのだろう」
走行中にブレーキレバーやクラッチレバーを引っかけてきたというが、これはおそらく、
坂田和人さんの真横に付けて、ヒジで坂田和人さんのマシンのレバーに触れてきたのだろう。
走行中にマシンから最も横に伸びるのはライダーのヒジだからである。
ホルヘ・マルチネスは少年マンガの悪役キャラのようなライダーだったということがわかる。
1996年3月31日ロッシ・マルチネス接触事件
1996年3月31日に、マレーシアのシャーアラムサーキットでMotoGPの開幕戦が行われた。
17歳のヴァレンティーノ・ロッシはこれがGPデビュー戦だった。このときの彼はまだ走りが未熟で、
コース上で誰にも敬意を払わず、隙を見ればどこにでも突っ込んでいく暴れん坊だった。
レースの序盤、ロッシはダーク・ラウディスの背後に付けていた。ホルヘ・マルチネスはロッシの後方に
位置していた。ラウディスのエンジンが焼き付いた様子で、追突を避けようとロッシはブレーキし、
いきなりラインを変えた。ホルヘ・マルチネスはラインを変えてきたロッシを避けられず、接触転倒した。
ロッシはその後も懸命に走り、6位でチェッカーを受けた。デビュー戦としては上々の出来である。
ピットに帰るとスタッフが皆大喜びし、ロッシを祝った。
するとそこに、ホルヘ・マルチネスとアンヘル・ニエトがいきなりやってきて、怒鳴り散らした。
「このくそガキが!」「×××××を もう一個こしらえてやろうか!」
17歳の新人ロッシが、世界チャンピオンを4回獲得した33歳のホルヘ・マルチネスと、
世界チャンピオンを13回獲得した49歳のアンヘル・ニエトに、凄まじい勢いで罵倒される光景になった。
※×××××はちょっと下品な表現となっている。伏せ字無しの内容を知りたいなら、
ヴァレンティーノ・ロッシの自叙伝の115ページを読んでみましょう。
これが「1996年3月31日ロッシ・マルチネス接触事件」のあらましである。
よく、MotoGP有識者がこんなことを言う。
「最近のmoto3は年齢制限があり、若手ライダーばかりになりました。そういう状況だと
危険な走りをしてもそれを叱ってくれる先輩ライダーがおらず、安全な走りを習得できない。
昔の軽量級は年齢制限がなく、30代のベテランと10台の新人が一緒に走っていたので、
若者が危険で迷惑な走りをすると30代のベテランがキツく叱ってくれたのです。
ライダーが安全な走りをするように教育するには、昔のような年齢制限が無い方がいいと思います」
こういう話の中で出てくる「迷惑な走りをした若者を30代のベテランがキツく叱る」という情景の
典型例が、1996年3月31日ロッシ・マルチネス接触事件と言えるだろう。
ロッシはホルヘ・マルチネスやアンヘル・ニエトの強烈なお叱りを受けたからか、
パッシングするときに相手のスペースをきちんと残す安全な走りをするライダーに育っていった。
アンヘル・ニエト・チーム(旧名チーム・アスパー)
ホルヘ・マルチネスは1992年から現在に至るまで、自分のチームを持っている。
チームのオーナーとして君臨し、絶大な知名度を活かしてスポンサーを集めている。
チーム監督として細かいところまで指示をしているのはジーノ・ボルゾイである。
この人はMotoGP125ccクラスで125回レースに出場した中堅ライダーであった。
チーム名称の変遷
2017年までの名称はチーム・アスパーで、2018年からの名称はアンヘル・ニエト・チーム。
2017年8月3日に逝去したアンヘル・ニエトの名前を受け継いだ。
アンヘル・ニエトはホルヘ・マルチネスの15歳年上で、ホルヘ・マルチネスがまだ若くて遅かった
1981年から1984年までの間に125ccクラスで4連覇を達成している。
1986年にホルヘ・マルチネスが本格化してチャンピオンを獲得したが、
アンヘル・ニエトの方は衰えを隠せなくなり1986年シーズンを限りに引退していった。
両者はチャンピオンを巡って熾烈な争いをしたことがないので、ホルヘ・マルチネスとアンヘル・ニエトは
とても仲が良かった。
2スト125ccクラスで覇者となる
2011年まではMotoGP125ccクラスにおいて名門中の名門であり、何度もチャンピオンを輩出した。
2006年にアルバロ・バウティスタ、2007年にガボール・タルマクシ、2009年にフリアン・シモン、
2011年にニコラス・テロルが125ccクラスチャンピオンを獲得した。
イタリアのバイクメーカーであるアプリリアが最新鋭のマシンを最優先で供給するチームの1つであり、
このため競争力がとても高かった。
moto3時代になって中堅チームとなる
2012年からmoto3時代になり、アプリリアが撤退してホンダとKTMの2強時代になると、
競争力を失って中堅のチームとなる。
ホンダが最新鋭のマシンを最優先で供給するのはTeam Monlau、
KTMが最新鋭のマシンを最優先で供給するのはアジョ・モータースポーツ(実質的KTMワークス)。
チーム・アスパーはどちらのメーカーからも優遇されないので、2015年から2017年までは
インドのマヒンドラと手を組んでマヒンドラワークスとして活動していた。
とはいっても、ホンダとKTMといった2強にはかなわなかった。
ヴァレンティーノ・ロッシの弟子を受け入れる
現役引退した後のホルヘ・マルチネスとヴァレンティーノ・ロッシの関係は極めて良好であり、
ロッシの弟子を自分のチームに受け入れているほどである。
2014年はルカ・マリーニとアンドレア・ミーニョがアンヘル・ニエト・チームに在籍しCEVに参戦。
2015年と2016年はフランセスコ・バニャイアがアンヘル・ニエト・チームに在籍しmoto3に参戦。
2017年はロレンツォ・ダラ・ポルタがアンヘル・ニエト・チームに在籍しmoto3に参戦。
2018年はアンドレア・ミーニョがアンヘル・ニエト・チームに在籍しmoto3に参戦。
また、ホルヘ・マルチネスの弟子をロッシのライダー養成機関VR46アカデミーに迎え入れたこともある。
2010年から2018年まで最大排気量クラスに参戦
チーム・アスパーは2010年から2018年まで最大排気量クラスに参戦していた。
チームの戦績はこちら。シングルフィニッシュが第一目標といった感じの立ち位置。
アスパーの由来
彼の名前の「ホルヘ」や「マルチネス」は、スペイン語圏においてかなりありふれた名前である。
このためAspar(アスパー、アスパル)というニックネームを名乗るようになった。
このニックネームの由来はアスパルデーニャ(Espardenya)という靴が由来である。
彼の祖父が靴屋さんで、アスパルデーニャを取り扱っていたのが由来であるとのこと。
※この文章の資料はこちら。
アスパルデーニャについて簡単に説明すると、フランス・スペイン国境のピレネー山脈で生まれた靴で、
上部が布、靴底が縄でできているサンダルである
画像検索すると、縄でできている靴底のサンダルが次々とヒットする。
この縄はカタルーニャ語でアスパルト(espart)という。地中海地方に生えるイネ科の草を編んで作る。
アスパルト(espart)を使って作る靴をカタルーニャ語でEspardenya(アスパルデーニャ)と呼び、
それがフランスでEspadrilles(エスパドリーユ)と呼ばれるようになった。
現在ではフランス語表記のエスパドリーユという名前で世界的に有名になっている。
1940年代のアメリカでファッション・アイテムとして流行し、それが現在でも続いている。
「エスパドリーユ」で検索すると日本のショッピングサイトが次々ヒットする。
関連書籍
ヴァレンティーノ・ロッシの自叙伝。114ページ周辺と136ページ周辺でホルヘ・マルチネスのことが
語られている。
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