会議は踊る、されど進まずとは、会議の進まないことを揶揄した言葉である。
元ネタは1814年から始まったウィーン会議(De:Wiener Kongress)において、リーニュ侯爵シャルル・ジョゼフ(Fr:Charles-Joseph Lamoral, De:Karl-Joseph Lamoral)の言葉Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas(会議は大いに踊れど、先に進まず).
概要
ウィーン会議では、フランスは敗戦国として参加した。このような状況の中、タレーラン(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord)はフランス解体を阻止し、フランスの旧領を守るため、正統な君主の元に帰順するものとする理念、すなわち正統主義を打ち出した。このため、会議では欧州の情勢をフランス革命以前、すなわち1792年以前に戻すことを原則として進められた。
しかし実際の所は、会議にはオスマン帝国を除いて欧州の主要な全国家が集まっており、各国はより有利な条件と領土の拡張を求めて互いに牽制し合った。ワルシャワ公国処理、ザクセンの帰属やドイツの組織、その他複数の問題と利権が絡み合って会議はいっこうに進まなかった一方で、舞踏会はきらびやかに行われた。
こんな状態だったので、ウィーンの街の風紀は緩み、物価は上昇。ウィーン市民の各国王侯に対する嫌悪感は嫌が応にも募るという空気の中で、リーニュ公爵は王侯に向けて上述の言葉を放ったのであった。つまり「会議は踊る」というのは会議が盛り上がったことの比喩というより、本当に踊っていたのである。
なお、会議はナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると各国が妥協し、1815年に纏まった。やればできるじゃないかと思うかもしれないが、ナポレオンがエルバ島を脱出したのが2月26日で議定書の締結が6月9日なので、ナポレオンが脱出しても3ヶ月程揉めていたことになる。なおシャルル・ジョゼフはこれに先立つ1814年12月に79歳で死去していた。
ちなみにこのウィーン会議を舞台として、1931年には『会議は踊る(原題:Der Kongreß tanzt)』というドイツ語映画も作られている。
風刺画「会議」(原題:Le Congrès.)
フランスの銅版画家のフォルスヴァル(Forceval)によって作成されたもの。複数人が踊っている画像。
ウィーン会議の結果を複数名が踊っている画像で表したためか、高校の歴史・世界史の教科書や資料集において、「会議は踊る」とセットで取り上げられることが多い。
風刺画の人物と解釈の例
あくまで「例」である(実際にこの通りの意図かは不明)。
- 左で見ている人:タレーラン外相(仏)
- 計画通りに事が進むか様子を見ている。
- 少し踊っている人:カースルレー外相(英)
- 激しく踊っている3人:フランツ1世(墺)・アレクサンドル1世(露)・ヴィルヘルム3世(普)
- 領土を拡大して喜びつつ、互いに牽制している。
- 王冠を持ってる人:アウグスト1世(ザクセン)
- 領土を失って逆に困っている。
- ジャンプしてる人:ジェノヴァ共和国の擬人化
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関連項目
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