前九年合戦 / 前九年の役とは、永承6年(1051年)から康平5年(1062年)まで陸奥国(東北地方)で起きた戦いである。
…9年じゃないじゃんとか言わないように…
安倍氏による奥六郡支配
かつて蝦夷系の在地豪族とされてきた安倍氏であったが、近年の研究では父系は中央氏族・安倍朝臣氏の出身であり、9世紀以前に陸奥守・介、あるいは鎮守将軍の任で進出したものが、現地豪族と結びつき、中央と地方の両属的な存在であったとされる。進出の時期は研究者によってまちまちだが、具体的な人名としては、元慶の乱の際鎮守将軍の任にあった、安倍比高あたりが直接のきっかけとして比定されている。
安倍氏の支配に関してはほとんど考古学資料に頼らざるを得ないが、交易を支配し、城柵を築き、寺院などを建立し、といった具合に領域支配に成功していたようだ。少なくとも長元9年(1036年)には、安倍忠良が朝廷から陸奥権守に任じられていた。
戦いの始まりと源頼義の進出
その安倍氏との戦端が切られたのが永承6年(1051年)の鬼切部の戦いである。陸奥守藤原登任、出羽城介平重成の二人が安倍頼良と戦い敗れたのだ。このうち平重成の参戦に関しては疑問もはさまれているが、少なくとも中央から派遣された国司と現地を支配する安倍氏の間にトラブルが生じていたようである。
この結果陸奥国奥六郡は騒乱状態に陥り、朝廷も対応を求められた。その結果武勇の誉れ高い源頼義が陸奥守に任じられ、この状態の解決のために派遣されたのである。それに対し安倍頼良は慎重に対応する選択肢を選び、上東門院藤原彰子の死による恩赦もあって頼義とは協力関係を築けたようである。名前の読みが同じなので安倍頼時に改名するほどの低姿勢での対応が功を奏したようだ。
情勢の変化と開戦
しかし、天喜元年(1053年)に源頼義が鎮守府将軍に任じられると、次第に両者の関係はぎくしゃくしたものとなる。というのもこの職は事実上廃止されたも同然であり、その代わりに安倍氏が現地を修めていたようなものだからだ。安倍氏がこの任官に警戒を抱かないはずはなかった。
そして天喜4年(1056年)についに両者が開戦する。この開戦理由であるが、研究者によってかなり見解が分かれている。というのも、そもそもこの前九年合戦という戦いは『陸奥話記』という軍記物語にしか詳細が載っておらず、誰をどのような立場にするかで解釈が分かれてしまうからだ。
とはいえ『陸奥話記』をそのまま引用すると、源頼義が陸奥守を終えて間もなく帰ろうとする時期に、在庁官人の藤原光貞が安倍頼時の息子の安倍貞任に襲撃されたと騒ぎ、これをきっかけに両者が開戦に至った、というものである。
戦闘の開始と源頼義の苦戦
安倍頼時は衣川関を封鎖した一方、源頼義は頼時の娘婿である平永衡を殺害し、同じく娘婿であった藤原経清(奥州藤原氏藤原清衡の父)が安倍氏側に寝返ってしまう失態を犯してしまった。
そして磐井郡の戦いで両者が戦端を切る。とはいえこの時源頼義側の軍を率いたのは気仙郡司・金為時であり、気仙金氏の同族の金為行率いる磐井金氏との対立が煽られたものであった。
一方朝廷からは新たな国司である藤原良経が任じられた。『陸奥話記』では源頼義が戦闘のために引き続き国司を務めたとされるが、中央の記録を見る限り、一定期間現地で国司として活動していたようだ。このようにこの時点では朝廷は頼義の戦いをまだ私戦とみなしており、本格的に対応する気はなかったようだ。
だが源頼義は天喜5年(1057年)、金為時や下毛野興重らに奥地の住人の取り込みを図らせ、その結果安倍富忠が離反し、安倍頼時を死に追い込むことに成功した。しかしここで安倍貞任が代わって安倍氏を率い、黄海合戦で頼義は大敗する。源義家、藤原景通、大宅光任、清原貞広、藤原範季、藤原則明らとともに頼義は無事生還するが、佐伯経範、藤原景季など多数の犠牲者を出してしまった。
清原氏の参戦と戦いの終わり
このタイミングで源頼義は陸奥守に再任し、ようやく安倍氏が国家への反逆者とみなされることとなった。しかし陸奥どころか隣国の出羽守源兼長、兼長更迭後の源斉頼すら非協力的な態度をとる。この裏には前出羽城介平重成や出羽山北主清原光頼ら頼義包囲網ともいうべき妨害があったとされる。
そして4年がたち、康平4年(1061年)になる。しかし、この年の終わりごろからようやく源頼義に追い風が吹いてきた。清原光頼の弟・清原武則が味方に付いたのである。この裏には頼義の朝廷工作による、武則の従五位下任官などがあったとされる。しかし清原氏から見ても、安倍氏が嫡男の安倍宗任ではなく、頼義との戦いで活躍した庶子の安倍貞任の権勢が増すのを見逃すわけにはいかない事情があった。
こうして康平5年(1062年)、陸奥守が源頼義から高階経重に変わる一方で、ついに源氏・清原氏連合軍による反撃が始まった。清原武則にほとんど主導権が握られたその軍は、8月17日小松柵の戦いで勝利すると、兵糧不足に苦しんだものの、磐井川の戦い、衣川関の戦いで相次いで勝利し、安倍氏の本拠地である鳥海柵に入城する。そしてついに厨川柵、嫗戸柵を落とし、安倍貞任、藤原経清らを戦死させ、勝利したのであった。
戦後処理
清原武則が鎮守府将軍に、源頼義が伊予守、源義家が出羽守、源義綱が左衛門尉へと任官された。しかし武則はどうやら女系が清原氏系の安倍氏を使って陸奥の支配権を握ろうとしていたようで、陸奥進出を進めようとする頼義とせめぎあいを続けていたようだ。しかし康平7年(1064年)に頼義は安倍頼時の生き残った子息たちを京に引き連れ、自分の任国である伊予に連れていった。
逆に清原武則も安倍氏再興の代わりに、自分が奥六郡に進出し陸奥の支配権を握った。一方武則は、出羽守に任じられた源義家を追い出し、出羽においても依然変わらない影響力を保持したのである。
こうして前九年合戦は終わったものの、後三年合戦の伏線は張られていったのである。
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