呂50とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した呂35型/海中七型潜水艦の1隻である。1944年7月31日竣工。雷撃により戦車揚陸艇LST-77を撃沈する戦果を挙げた。終戦まで生き残った後、1946年4月1日に五島列島沖で海没処分。
概要
前級の海中六型をベースにした戦時量産型二等潜水艦。ただし海中六型自体、誕生から5年が経過していて旧式化が否めなかったため、量産するにあたって現状に即した設計へと変更。実質別設計の艦となっている。六型より全長を7m延伸したところ海中型で初めて100mを突破し、排水量も930トンに増加するなど一等潜水艦一歩手前まで大型化。主機を新型の艦本式22号10型ディーゼルへ換装して出力と速力を上げるとともに機銃を13mmから25mmに変えて対空能力を強化。最低限の改良に留めたおかげで量産性の維持にも成功した。また赤道付近での作戦行動も考慮してフロン冷房装置も備えている。
海中七型は水中運動性能に優れ、局地防衛や哨戒もこなせる利便性の高い艦であった事から用兵側から歓呼の声で出迎えられ、更なる増産を望む声も上がったという。しかし計画では43隻生産するはずが僅か18隻のみの建造で打ち切られてしまった。また海中七型が登場したのは1943年以降だったため連合軍のレーダーや対潜兵器により非常に窮屈な戦いを強いられ、18隻中生き残ったのは呂50だけだった。
諸元は排水量960トン、全長80.5m、全幅7.05m、最大速力19.8ノット(水上)/8ノット(水中)、航続距離は16ノットで5000海里、安全潜航深度80m、乗員61名。武装は7.6cm単装高角砲1門、25mm連装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管4門、搭載魚雷10本。
戦歴
1941年8月15日に策定されたマル急計画において、海中六型二等潜水艦第391号艦の仮称で建造が決定。
1943年2月18日、建造費792万円を投じて玉野造船所で起工、11月27日に進水し、1944年7月31日に竣工を果たした。初代艦長に木村正男少佐が着任するとともに舞鶴鎮守府へ編入され、訓練部隊の第11潜水戦隊に部署して瀬戸内海西部へと回航、慣熟訓練を行う。9月2日、短波マスト工事中に昇降用電動機制限帯が全損する事故に見舞われ、翌3日午前まで修理に時間が掛かった。11月5日、第6艦隊第34戦隊に転属し、いよいよ最前線へ投入される事になる。
1944年11月19日に呉を出撃。タクロバンを拠点に続々と増援を送るアメリカ軍の補給路を攻撃すべくルソン島東方の哨区へ向かう。大型潜水艦は回天作戦従事のため軒並み内地へ帰投していたため、フィリピン方面の攻撃は中小潜水艦のみで続行されていた。ところが道中の11月22日、海軍航空隊所属の水上機に敵潜と誤認され、2発の爆雷投下を受けて水深40mまで潜航退避。無傷で何とかD散開線「タレ」にまで進出する。11月25日、ラモン湾北東280kmにて13号対空電探が敵空母より発進したと思われる航空機を探知。木村艦長は付近に敵空母が潜んでいると考え、5時間に及ぶ索敵の末、遂に推進音を捉えた。間もなく3隻の空母を中心に駆逐艦8隻が輪形陣を組んでいるのを目撃して急速潜航。潜望鏡を上げながら輪形陣の内側へと侵入し、800m前方にワスプ級空母を発見した呂50は4本の魚雷を一斉発射、爆雷攻撃を警戒して即座に水深80mまで潜った。まず最初に大爆発音が聴音され、続いて2分間に渡って艦が圧壊する音を聴き取れたため、木村艦長は護衛空母1隻と駆逐艦1隻の撃沈を報告する。しかしアメリカ側の資料によれば沈没艦は無く、戦後の調査で魚雷の早爆だと判断された。ちなみに呂50が雷撃した敵機動部隊は米第38任務部隊だった可能性がある(2本の魚雷が前方を通過していくのを戦艦ワシントンが目撃)。11月26日に「タレナラ」、28日に「ルヲタレ」への配備転換を行った後、12月8日に撤哨。12月27日、呉へ帰投した。
1945年1月9日に17万5000名に及ぶアメリカ軍がリンガエン湾へ上陸。これを迎撃するべく1月23日、三輪中将の見送りを受けながら呉を出撃し、再びルソン島東方で遊弋する。2月1日、レイテ沖で連合軍の船舶を発見して追跡するが、よく見ると病院船だったため攻撃中止して見逃す。2月3日、フィリピン海でマヌス島へ帰投する船団を護衛していた米駆逐艦ティスデイル(DE-33)にソナー探知され、爆雷投下を受ける。呂50は逃走には成功したが損傷を負った。翌日第6艦隊よりルソン島北部バドゥリオナ地区で孤立している帝國海軍の搭乗員を避難させるよう命令を受ける。
しかしバドゥリオナへ向かっていた2月10日午前8時5分、スリガオ東南東560kmで一列に並びながらレイテ島に向かう敵船団を発見し魚雷4本を発射。5分後、うち1本が戦車揚陸艇LST-577の右舷に命中、艦橋を含む3分の1を吹き飛ばした。別の戦車揚陸艇がLST-577の曳航準備をする中、敵船団はレイテ方面に逃走、残った米駆逐艦イーシャーウッドが呂50の捜索を行う。日没後に呂50は浮上するが、21時10分に1万2800m先からイーシャーウッドにレーダー探知され、25ノットの速力で距離1400mまで接近。そこからサーチライトの照射を受けたため呂50は水深120mまで潜航退避した。敵の的確な対潜攻撃により至近で爆雷が炸裂。2本の潜望鏡レンズやバラストタンクの弁が破損し、魚雷発射管に浸水を引き起こし、満身創痍へと追いやられる。イーシャーウッドの乗組員が油の臭いを嗅ぎ取ったため撃沈と判断したが、かろうじて呂50は生き延びる事に成功。浮上してみると後部甲板に18.1kgの爆雷の破片が残っていたという。呂50から雷撃を受けたLST-577は港へ辿り着く前にイーシャーウッドによって撃沈処分。2月14日、呂50は第6艦隊司令部に状況を報告し、南西諸島を哨戒しながら帰投するよう命じられる。2月19日、九州南部で再び友軍機から3発の爆雷を投下される誤爆を受けるも幸い被害なし。翌20日に呉へと入港、のちに舞鶴へと回航された。4月2日、二代目艦長に今井梅一大尉が着任。
4月20日、舞鶴を出撃。豊後水道を通って北大東島近海で哨戒を開始した。4月28日に米機動部隊の音響を探知するが、遠すぎて攻撃に失敗。今回の哨戒では何ら戦果を挙げられず5月4日に呉へ帰投。のちに舞鶴へ回航される。
5月29日に舞鶴を出撃し、6月6日に台湾東部の東シナ海へ到着して遊弋。次にウルシー環礁と沖縄を結ぶ敵航路攻撃を命じられて移動する。6月中旬、呂50は沖縄東方の、伊361の隣に割り当てられた哨区へとやって来た。伊361の松浦正治大尉と今井艦長は旧知の仲であり、作戦中ずっと「隣に松浦がいる」と心強く思っていたという。しかし伊361は既に5月31日に撃沈されていた。7月3日に舞鶴へ帰投。
8月11日に舞鶴を出港、作戦に必要な人工重油を得るため大連に向かい、翌12日に到着。ここで8月15日の終戦を迎えた。第34潜水戦隊は解隊され、第15潜水隊に編入。11月30日、除籍。進駐してきたアメリカ軍によって潜水艦は逐次佐世保へと集められた。
1946年4月1日、ローズエンド作戦により長崎県五島列島沖で海没処分となった。
関連項目
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