呂50とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造した呂35型潜水艦の1隻である。
概要
18隻建造された呂35型潜水艦の1隻。前級と比べて速力がアップしており、量産性にも優れる優秀艦であった。現場からは歓喜の声で迎えられ、増産を望む声も上がっていたが、本格的な量産はされず打ち切られてしまった。18隻の呂35型は全て最前線に投入され、呂50以外は全て戦没。戦争を生き延びた呂50も、ローズエンド作戦によって海没処分の運命を辿った。
諸元は排水量960トン、全長80.5m、全幅7.05m、水上速力19.8ノット、水中速力8ノット、航続距離は16ノットで5000海里、安全潜航深度80m、乗員61名。
戦歴
1941年度マル五計画にて、海中VI型二等潜水艦として建造が決定。1943年2月18日、玉野造船所にて起工。11月27日に進水し、1944年7月31日に竣工した。竣工後、訓練部隊の第11潜水戦隊に編入。
1944年11月5日、第6艦隊第34戦隊に転属し、いよいよ最前線に投入される事になる。11月19日、呉を出港。フィリピンに続々と増援を送るアメリカ軍を攻撃するため、ルソン島東方に展開する。しかし11月22日、あろう事か味方の水上機から爆雷2発の投下を受け、緊急潜航。幸い命中はしなかった。11月25日、ラモン湾北東を哨戒中、13号電探が敵艦載機を捕捉。5時間に及ぶ追跡のすえ、敵機動部隊を発見する。空母3隻、戦艦8隻を含む敵艦隊は輪形陣を敷いていた。肉薄しつつ潜望鏡を上げ、敵空母に向けて4本の魚雷を発射。爆発音を聴音したが、アメリカ側の資料によれば沈没艦は無かった。12月27日、呉へ帰投。
1945年1月23日、呉を出撃。再びルソン島東方に進出する。2月1日、敵船を捕捉。雷撃準備に取り掛かったが、相手が病院船だったため中止。2月3日には米駆逐艦ティスデイルに発見され、爆雷攻撃を受ける。損傷しながらも何とか離脱に成功した。2月10日午前8時5分、スリガオ東北東にてレイテ島に向かう敵船団を発見。魚雷4本を発射し、戦車揚陸艇LST-577を撃破。のちに撃沈処分へと追いやった。しかし敵護衛艦から執拗な攻撃と追跡を受け、実に13時間の潜航を強いられる。日没後に浮上するも、21時10分に米駆逐艦イシャーウッドに捕捉され、急速潜航。至近距離で爆雷が炸裂したため、潜望鏡やバラストタンクの弁が破損。浸水を引き起こした。ボロボロになりながらも離脱には成功し、南西諸島近海を哨戒。2月14日に帰投命令を受け、本土を目指した。入港を控えた2月19日、九州南部沖で日本軍機の誤爆を受けたが被害はなし。翌20日に呉へと入港、のちに舞鶴へと回航された。
4月20日、舞鶴を出撃。豊後水道を通って北大東島近海で哨戒を開始した。28日、米機動部隊の音響を探知するが、遠すぎて攻撃は出来なかった。今回の哨戒では戦果は無く、5月4日に呉へ帰投。舞鶴に回航された。5月29日、舞鶴を出撃して東シナ海で活動。6月6日に台湾東方に移動し、ウルシー・沖縄間の航路に配備される。哨戒を続行したが敵を発見できず、7月3日に舞鶴へ帰投した。
8月11日に舞鶴を出港、作戦に必要な人工重油を得るため大連に向かい、翌12日に到着。ここで8月15日の終戦を迎えた。第34潜水戦隊は解隊され、第15潜水戦隊に編入。11月30日、除籍。進駐してきたアメリカ軍によって潜水艦は逐次佐世保へと集められた。
1946年4月1日、ローズエンド作戦により長崎県五島列島沖で海没処分となった。
関連項目
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