伊361とは、大日本帝國海軍が建造・運用した丁型/伊361型潜水艦1番艦である。1944年5月25日竣工。ウェーク島への輸送任務に励んだ後、戦局の悪化により回天母艦に改装され、1945年5月30日に沖縄南東で撃沈された。
概要
建造までの背景
開戦前の1941年初頭、艦政本部は第一次世界大戦のドイツで計画されていた潜水商船ドイッチュラントを参考にし、潜水艦で兵員及び物資の輸送を行う構想を提案していたが、作戦部が興味を示さなかったためこの時は自然消滅した。
本格的に計画が始動し始めたのはミッドウェー海戦後の1942年8月24日で、きっかけは軍令部が離島への奇襲上陸を想定した潜水艦の開発を艦政本部に打診した事だった。既にドイッチュラントを研究していた艦政本部は「すぐに作れる」と快諾し、海軍大臣の承認を得て、10月21日に改マル五計画に加えられて同予算で建造される事が決定。
上陸用舟艇2隻と兵器82トンの輸送能力を保有し、兵員110名を搭載できる事をコンセプトに建造を開始したが、ガダルカナル島争奪戦における潜水艦輸送の戦訓と戦況の悪化により物資輸送のみに限定した設計に変更。艦前部に物資用の倉庫を設けた事で物資145トン(艦内120トン/艦外25トン)を積載可能、また上甲板に繋がる電動ベルトコンベアを装備して搬出を容易なものにしている他、主機や電動機は既製品を用いて工期を短縮。連合軍のレーダー装置発達と警戒厳重な沿岸部への揚陸を考慮して艦橋側面にはV字の傾斜が付けられた。これは敵のレーダー波を海面に跳ね返す意図があった。水中航続力増加の要望を受けて電池を増設し、最長40時間という日本潜水艦最優の潜航時間を獲得。また竣工時からシュノーケル、22号水上電探、E-27電波探知機を有しており極めて先進的な艦と言えた。
要目は排水量1440トン、全長73.5m、全幅7.05m、速力13ノット(水上)/6.5ノット(水中)、安全潜航深度75m、乗員55名。兵装は艦首魚雷発射管2門、魚雷2本、14cm単装砲1門、九六式25mm単装機銃2丁。伊372を除いて魚雷発射管を有していたが、積載量を増やすため後に撤去されていき、最後まで発射管を持っていたのは伊361だけだった。
艦歴
飢餓の島に物資を届けた命の潜水艦
1942年に策定された改マル五計画において、丁型一等潜水艦第5461号艦の仮称で決定。元々設計が進んでいた事もあり建造決定から起工まで僅か4ヶ月程度しか掛からなかった。
1943年2月16日に呉工廠で起工、10月20日に達第253号が発令されて伊361と命名、10月30日に進水式を迎える。最終艤装が進む1944年4月17日、艤装員長に池澤政幸中佐が、水雷長予定者に呉潜水戦隊司令部附の山本寛雄大尉が任命されたのを皮切りに乗組員の編制が始まり、4月20日に艤装員事務所を開設するとともに同日付の辞令で航海長予定者の藁科隆中尉が呂111より転出。4月28日の辞令では機関兵からの叩き上げである特務士官の高橋貞次郎中尉が機関長に補された。以降潜丁型の機関長は特務士官が務める事に。完成が近づくにつれて乗組員の編制や要員の配置も徐々に進んでいった。
4月30日、艤装員長が岡山登大尉に交代して池澤中佐は兼職を免じられた。彼は伊26航海長、伊29水雷長、潜水学校甲種学生、呂64艦長を歩んで来たベテランである。そして5月15日に野元佑一中尉が砲術長に補された事で伊361の幹部は全員揃った。
神戸にて建造が進められていた伊362の艦長南部伸清少佐は、艦首魚雷発射管の前部が外殻から飛び出して駆逐艦の全力航行並みに艦首波が立っている事に気付き、「潜水艦での輸送は特に隠密性を重視しなくてはならない」「発射管を使用不能にしてでも艦首波を低減させるカバーをするよう」と低減用のカバーを付ける事を具申。これを受けて5月23日、軍務局長は第6艦隊司令部や呉鎮守府宛てに、伊361にもカバー取り付け工事を行うとしたが、同艦の訓練を至急開始する必要性からとりあえず竣工を優先して工事は後日施行にし、推進器の鳴音除去、航行中に発生する艦首波の極力減少、主ベント弁開閉秒時を10秒以内に留める事を通達された。
そして5月25日に無事竣工を果たす。初代艦長に岡山登大尉が着任するとともに呉鎮守府へ編入、第6艦隊第11潜水戦隊に所属する。第11潜水戦隊とは、石崎昇少将が司令官を務める、新造潜水艦の慣熟及び調整訓練の面倒を見る訓練部隊である。
1944年5月29日午前10時、第11潜水戦隊司令部より「広島湾に回航して伊362の揚貨試験を見学せよ」との命令が下り、翌30日に呉を出港して広島湾へ移動。5月31日に伊362の見学を行った。その後は6月1日から周防灘にて慣熟訓練を開始。6月5日午後12時30分、第11水雷戦隊は軍務局長、呉鎮参謀長に伊361型の物糧揚陸訓練用として大発動艇4隻、シャラン船1隻、訓練用物件(米袋、兵器弾薬、治療品、副食品、酒保物品の模擬品)約1隻分を発注。6月13日に伊361は訓練地を伊予灘へと移した。
そんな中、6月13日に急速潜航の訓練を行っていた伊33が事故を起こし、艦尾部分が着底、艦首部分のみを水上に突き出した格好となる。6月14日午前10時56分に第11潜水戦隊から伊33の沈没位置特定及び行方不明者捜索を命じられて由利島付近に進出した(具体的な救難活動については不明)。6月19日に呉へ入港して1ヶ月間ほど整備と補給を受ける。6月25日付で水雷長の山本大尉が呂500(元U-511)に異動し、代わりに呂500から磯部秀雄大尉が着任。
7月23日、連合艦隊参謀長から第6艦隊に向けて「伊361と伊362の第一回行動は遅くとも8月20日内地出撃を目途に整備を促進するように。なお両艦の目的地は大鳥島(ウェーク島)及びナウル島と予定し事前の連絡準備等を進められよ」との電報を送信。訓練もいよいよ最終段階に入り、伊361は7月24日から8月5日まで伊予灘にて揚陸作業に特化した訓練を実施し、出撃の総仕上げを行って呉に帰投。出撃の時は刻々と迫りつつあった。
先の「あ」号作戦で20隻に及ぶ潜水艦を失ったため逐次潜水隊の整理統合が行われ、8月15日の戦時編制の改定により伊361と伊362は第7潜水戦隊に転属。今まで第7潜水戦隊は呂100型潜水艦しか配備されていなかったが、「あ」号作戦で12隻中8隻が撃沈されたため残余の呂号潜水艦を呉潜水戦隊と第8潜水戦隊へ転出させ、代わりに伊361型2隻を配備したのだった。間もなく第7潜水戦隊司令部は伊361はウェーク島へ、伊362はナウルへの輸送任務に就かせると連合艦隊に発する。
ウェーク島は補給の途絶と敵艦隊の攻撃によって守備隊に餓死者が出始めており、速やかに物資を輸送する必要があった。クェゼリン守備隊が玉砕した後、ウェーク島は最もアメリカに近い日本軍の島となり、第65警備隊約2000名からなる守備隊が駐留していたが、マーシャル諸島の失陥で戦略的価値と補給路を喪失。島はニヨロと呼ばれる灌木が生えている程度で食用となる木々は無く、環礁内の藻類や魚介類も少なく、唯一の食糧だったウェーククイナは絶滅寸前まで食い尽くしていて自活など到底不可能な環境と言え、現地の将兵は食糧難と医療品の欠乏で塗炭の苦しみを味わっていた。
8月19日に呉を出港した伊361は、中央との連絡に便利で第7潜水戦隊の司令部がある横須賀へ回航、艦内から上甲板に至るまで物資を満載にして最初の輸送任務に臨む事となる。
1回目のウェーク輸送
1944年8月23日に横須賀を出港。3000km以上も離れた、太平洋の孤島ウェークに向けて航海を始める。
道中の制空権と制海権は既に連合軍が掌握しており、横須賀を出撃した当日には僅か約350km先の静岡県掛塚灯台沖で米潜水艦タングが通商破壊を行っていた上、9月3日、第12.5任務部隊がウェーク島を攻撃するなど度々敵艦隊の出現が認められていたものの、幸い何事も無く9月7日にウェーク島へ到着。
同島には潜水艦が入港出来る港が無かったため、環礁近くに停泊して大発で取りに来てもらう方式を取り、たちまち伊361は守備隊の大発に取り囲まれた。まず最初に艦内倉庫の副食類をベルトコンベアで迅速に運び出して大発に移載、それが終わると上甲板でドラム缶を縛っているロープを切断し、潜航する事でドラム缶を海面に浮かせて荷下ろし。最後はゴム製の防水袋に入った糧食45トンや医療品など計86トンを守備隊に渡し、工作員30名を艦内へ収容した。主食は一度ボイルして乾燥させた米の事で、体力が衰えている守備隊の状況を考慮して水や湯で戻してすぐに食べられるよう、しっかりと工夫されていた。
揚陸作業を終えた伊361は即日出港して帰路に就く。10日間の航海を経て9月17日に横須賀に帰投、見事輸送任務を成功させた。伊361以外にも丁型潜水艦が輸送任務に就いており彼らの尽力によって一時的に餓死者は減少。しかし、その一方で伊361が帰港する3日前に房総半島東方で、ウェーク輸送に従事していた姉妹艦伊364が米潜水艦シーデビルによって撃沈されており、今回生還出来たのは奇跡的であった。
10月4日、東京湾で訓練中に未知の暗礁に触れて座礁するも幸い軽傷で済む。
2回目のウェーク輸送
10月12日16時22分、連合艦隊司令部は第7潜水戦隊と第6艦隊に「第7潜水戦隊の2隻をして準備完成次第夫々大鳥島及び南鳥島に対し作戦輸送を実施せしむべし」と命令。翌13日午後12時3分に第7潜水戦隊から二度目のウェーク島輸送を命じられて横須賀に入港。作戦に必要な物資を満載する。
10月17日に横須賀を出港。今や遠い島となったウェークへの二度目の作戦輸送に挑む。伊361の出港と時同じくしてアメリカ軍がフィリピンに襲来し、レイテ沖海戦やレイテ島の戦いが行われるなど戦況は流動していた。ミッドウェー島から僅か1100海里、最もハワイに近い日本軍拠点ながら、アメリカ軍は飛び石作戦でウェーク島を無視していたため本格的な上陸は行われず、また艦隊による艦砲射撃から潜水艦での補給線遮断に戦法を切り替えつつあった。
幸い敵に捕まらず10月29日にウェークへと到着。無数の海鳥、常夏の太陽、白いサンゴの砂浜が伊361を出迎える。前回同様環礁内で待機して大発に積み荷を取りに来て貰い、糧食や弾薬67トンを揚陸するとともに傷病兵5名を収容、同日中に出発した。そして11月9日に横須賀へ帰投。二度目の輸送も見事完遂してみせた。
帰投後に人事異動が発せられた。12月10日、航海長の藁科大尉が伊8に転出し、9日前に大尉へ昇進したばかりの野元砲術長が航海長に昇格。後任の砲術長には旧式艦の伊159より転出してきた安藤種夫中尉が着任した。翌11日、岡山登艦長が伊351の艤装員長に異動となったため、二代目艦長に潜水学校甲種学生を卒業したばかりの松浦正治大尉が着任。
3回目のウェーク輸送
1945年1月9日、三度目のウェーク輸送に従事するべく横須賀を出港、本州近海を遊弋する米潜水艦の包囲網を突破して太平洋へと進出した。
1月23日夜にウェーク島へ到着。敵の目から逃れるべく今回の揚陸は闇夜に紛れながらの作業となったが、深刻化する飢餓の影響で守備隊員の体力が低下しており、作業が大幅に滞ったという。彼らは捕らえた魚や瘦せ細った鼠を食べ、傷病と戦いながら死の淵で踏みとどまっていたのだ。苦労に苦労を重ねてどうにか糧食67トンと若干の兵器を揚陸。飢餓の島を後にした。丁型潜水艦の献身的な輸送の結果、守備隊はかろうじて一日缶詰肉20gと調味料10gを口にする事が出来たという。
2月7日に横須賀へ帰投。この輸送を最後に伊361はウェーク輸送任務から外される。
回天母艦に改装
「あ」号作戦では参加した潜水艦36隻のうち20隻を一挙に失い、続くレイテ沖海戦では6隻を喪失。決死の被害防止対策も実を結ばなかった。行き詰まった潜水艦戦の打開策として選ばれたのが回天による特攻作戦である。伊361型は輸送潜水艦ゆえに通常の潜水艦よりも全幅が大きく、搭載量にも余裕があったため、帝國海軍上層部は伊361型を逐次輸送任務から外して回天母艦へ改装、輸送用から攻撃型に転じようと考えた。
まず横須賀工廠で14cm単装砲と大発用舟艇等を取り外し、前甲板に2基、後甲板に3基の合わせて5基の回天を搭載出来る設備を搭載。九三式酸素魚雷を改造した回天は1.55トンもの炸薬を弾頭に搭載しており、搭乗員の必死誘導で命中させる事が出来れば、大型戦艦さえも一撃で撃沈させられる必殺の特攻兵器である。伊361は人命と引き換えに強力無比な火力を手にしたと言える。他にも艦橋後部の上甲板板部分にブルワークが追加された。
3月17日に横須賀を出港した伊361は太平洋側を通って翌日神戸に回航。三菱重工神戸造船所で回天設備の整備を受ける。3月19日、米機動部隊が呉軍港と神戸港に停泊中の船舶に対して空襲を仕掛けるも、幸い入渠中の伊361には被害は及ばなかった。3月20日に第7潜水戦隊の解隊に伴って第15潜水隊へ転属。第15潜水隊は最新鋭の巡潜型で編成された回天攻撃部隊であり、当部隊編入は伊361も回天攻撃に投じられる事を意味していた。
4月1日に神戸を出港し、翌2日に呉へと入港。瀬戸内海西部で回天との連合訓練や調整作業に従事する。
5月5日午前9時30分より第11潜水戦隊司令部と長鯨が大津島にて伊361を巡視。翌日周防灘東部において第15潜水隊(伊361、伊366、伊165)側で甲軍、長鯨と第31戦隊の駆逐艦2隻、輝進丸で乙軍を編制して模擬戦を実施する予定だったが、急遽取り止めとなった。B-29による機雷敷設が激化して瀬戸内海西部が訓練地に適さなくなってきたためと思われる。
金剛隊、千早隊、多々良隊、天武隊、振武隊による攻撃を行った結果、回天作戦に参加可能な大型潜水艦は老朽艦を引っ張り出して来ても12隻にまで減少。天武隊の伊36が敵輸送船団に回天攻撃を行って3隻撃沈と推測される戦果を報じ、伊47も通常魚雷と合わせて輸送船1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、艦種不詳艦2隻撃沈を報じたので、引き続き航行艦襲撃を主軸とした特攻戦術が取られた。
回天特別攻撃隊・轟隊
5月22日、伊363とともに回天特別攻撃隊轟(とどろき)隊を編制。後に伊36と伊165が加わって陣容は4隻となる。伊361には沖縄東方640km付近に進出して敵艦船攻撃及び敵補給路遮断が命じられた。予定では5月23日に大津島より出撃するはずだった。しかしB-29が大津島周辺に機雷を敷設した可能性が出てきたため急遽光基地からの出撃となり、呉を出港して光へと回航。
5月24日朝、大津島から移動してきた回天の搭乗員と整備員が光基地に到着。特攻戦隊本部で出陣壮行式を挙行した後、クレーン船で回天5基を積み込み、搭乗員の三林富三雄中尉、金井行雄一飛曹、斎藤達雄一飛曹、田辺晋一一飛曹、岩崎静也一飛曹と、整備員の梅下政男一曹、釜野義則一曹、坂本茂二曹、高沢喜一郎二曹、藤原昇二曹が乗艦。一等飛行兵曹の者たちは1943年10月1日と12月1日の2回に分けて入隊した甲飛13期生で、計2万7000名に及ぶ採用枠があった。しかし、戦況の悪化と膨大な人員を練習航空隊側が受け入れられない事情から、あふれた者は回天搭乗員に充てられた訳である。
多くの人々に見送られながら光基地を出撃。この時の様子が写真に残されており、その写真によると5月にちなんでマストに鯉のぼりが泳いでいるのが見られる。こうして伊361は生還を期さない絶望的な作戦に臨んだ。
5月28日、伊361はアメリカ軍の掃海艇に発見され、位置情報を第32.1.1任務部隊に通報。この部隊は対潜掃討を専門にしたハンターキラーグループで、護衛空母アンツィオと護衛駆逐艦4隻で編成されていた。通報のあった海域に到着したアンツィオは対潜哨戒機を四方八方に飛ばして伊361を捜索。一方、伊361は全ての回天を射出したようだが、何を標的にしていたのかは不明である。
最期
1945年5月30日午前4時36分、曇天の沖縄南東740kmを哨戒していたTBM-1Cアベンジャー雷撃機のレーダーに光点が浮かび上がる。レーダーが指し示したのは右25度、6海里先の海域。周辺にはスコールが発生していて光点は明滅を繰り返していた。その光点を追いかけて分厚い雲の下へと抜けると、正面5500m先に約12ノットで水上航行中の伊361を発見。反航する形で両者は会敵した。
敵パイロットは甲板上に回天があるとは報告しなかった。大きくて目立つ回天を見落とすとは考えにくいため、この時点で既に発射していた事が窺える。
午前4時48分、アベンジャーは左舷真横に向けてロケット弾4発を発射。うち2発が艦橋の6m手前に着弾して至近弾となる。奇襲を受ける格好となった伊361は急速潜航を開始。対するアベンジャーは潜航される前に音響魚雷ファイド(Mk24爆雷)を発射して仕留めようとしたものの、操作ミスで投下に失敗し、やむなく沈降しかけている伊361の頭上を航過。艦橋だけが水上に顔を出している状況だった。60秒後に伊361の艦体は完全に海へと没し、アベンジャーが左に旋回して戻って来た時には潜没した後の渦がクッキリと海面に残っていた。
午前4時52分、発生した渦の前方60mにファイドを投下。続いて海中の様子を探るためにソノブイ6個全てを投下した。ソノブイの1つからハッキリと推進音が聴き取れたが、約4分後、推進音に引き寄せられたファイドが命中して水中爆発が発生、あまりの轟音に電信員がイヤホンを外したほどだった。この爆発音は28km離れた護衛駆逐艦オリバー・ミッチェルでも聴音された。約30秒後、爆発音が小さくなるのと入れ替わりに「石油缶を潰すような破壊音」が聞こえ、空気の抜ける小さな音が聞こえてきたのを最後に何も聞こえなくなった。
午前5時、燃料不足で最初のアベンジャーが母艦に帰投。交代のアベンジャーが新たなソノブイを投下して監視を続行する。22分後に日の出を迎えると、海面に油膜が広がっているのが確認出来、午前9時には長さ4km幅約300mにまで広がった。油膜が広がっている海域にオリバー・ミッチェルとタベラーが出現し、2隻は撃沈の証拠となる木甲板の残骸、コルク片、日本語が書かれた紙、ロウソク等を回収していった。これが伊361の最期で、76名の乗員全員が死亡。伊361はファイドによって撃沈された日本潜水艦5隻のうちの1隻となった。
アンツィオに帰投したパイロット3名は個別に呼び出され、日本潜水艦の写真を見せてどれを撃沈したかと問うたところ、3名とも伊161だと語ったそうだが、伊161という艦は存在しない。
6月25日、慣例により出撃一ヶ月後の沖縄方面で亡失と判断され、8月10日に除籍。
余談だが、伊361が撃沈されてから2週間ほどが経過した6月中旬、伊361の隣の哨区に呂50がやってきた。艦長の今井梅一大尉と松浦艦長は旧知の仲であり、作戦中ずっと「隣に松浦がいる」と感じて心強く思っていたという。だがもう既に伊361は沈没。松浦艦長は死してなお旧友の身を案じて見守っていたと思われ、伊361が身代わりになったからか、呂50は終戦まで生き延びる事が出来たのだった。
関連項目
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