「文虎」(ブン・コ ? ~ ?)とは、三国時代末期から晋初期にかけての武将であり、三国志の終盤を代表する勇将「文鴦(文俶)」の兄弟とされる人物である。
正史では
楊州刺史の文欽の三男で、文鴦こと文俶の弟にあたる。 ※兄説もある。
司馬懿のクーデターの際に殺された曹爽の寵臣だった父・文欽が、鎮東将軍の毌丘倹(カン丘倹)と連名で魏朝内で専横を極める司馬師を弾劾する皇太后の詔勅を偽造して反乱を起こした際に、文虎は文鴦(文俶)と共に反乱軍に参加した。
討伐に現れた司馬師の軍勢と戦った文虎だったが、父・文欽と文鴦(文俶)が二手に分かれて挟撃する作戦を、父の行軍遅れが原因で失敗し、司馬師の追撃をうけた事から親子そろって呉の国に逃亡した。
戦いの中で文鴦(文俶)の勇猛ぶり驚いた司馬師が、手術したばかりの目の下の瘤の痕から眼球を飛び出させて死亡すると、後を継いだ司馬昭に対して、司馬一族の敵対者を知己にしていた事で魏での立場があやふやになっていた諸葛誕が、寿春にて反乱を起こした。
司馬昭の軍勢に寿春を包囲された諸葛誕からの援軍要請をうけて、呉の国からの援軍として親子三人で寿春に入ったが、魏の臣の頃から父の文欽と諸葛誕は仲が悪かった為、決戦を主張した蒋班と焦彝が、主張を聞き入れられなかった為に魏に投降した事から疑心暗鬼になった諸葛誕が、兵糧不足解消の為に兵を一部外に出すように提案した文欽が、城内の兵を減らした後に裏切ろうとしていると思い、切り殺してしまうという事態が発生する。
文鴦(文俶)と共に寿春から逃げ出した文虎は司馬昭軍に投降し、一部の「処刑すべし」と言う声を、諸葛誕軍の兵士を死兵にしないように考慮した司馬昭から許されると、魏の偏将軍に任ぜられて関内侯の爵位を得た。
諸葛誕の反乱が終結すると、司馬昭の許可を得て、文鴦(文俶)と共に父の遺骸を引き取って故郷に埋葬した。
その後の文虎は、涼州の異民族討伐で勇名を馳せる文鴦(文俶)と違って歴史の表舞台から消え去ったが、魏から禅譲をうけて晋をたてた司馬炎が亡くなり、司馬衷が晋の2代皇帝となった際に政治の実権を握っていた楊駿一派を殺害しようとした賈南風のクーデターの際に、巻き込まれた文鴦(文俶)が三族皆殺しにされている為、文虎もこの際に殺されたものと思われる。
演義では
父や兄と共に毋丘倹(カン丘倹)の反乱に参加したものの、敗れて呉の国に逃亡し、諸葛誕の反乱の際に、父や兄と共に援軍として派遣されたものの、諸葛誕と不仲だった父・文欽が、兵糧不足対策に兵の一部を城外に出そうと提案した事を、諸葛誕に城内の兵力を減らして裏切ろうとしていると思われて殺されてしまい、兄の文鴦と共に魏の司馬昭軍に降伏した。
その後は登場しない。
※その他「文虎」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
関連動画
関連データ
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | - | - | - | - | - | ||||
三國志II | - | - | - | ||||||
三國志III | - | - | - | - | - | - | |||
三國志IV | - | - | - | - | - | ||||
三國志V | - | - | - | - | |||||
三國志VI | - | - | - | - | - | ||||
三國志VII | - | - | - | - | |||||
三國志VIII | - | - | - | - | |||||
三國志IX | 66 | 73 | 43 | 28 | |||||
三國志X | 65 | 74 | 45 | 32 | 58 | ||||
三國志11 | 66 | 72 | 45 | 30 | 58 |
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
関連人物 |
||
- 1
- 0pt