笠置(航空母艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造しようとした雲龍型航空母艦4番艦である。完成度84%の状態で終戦を迎えて1946年12月31日解体完了。
概要
艦名の由来は京都府相楽郡笠置町南部に位置する笠置山地の主峰。他の艦名候補に乗鞍があった。
雲龍型空母は中型空母飛龍をベースに、艦橋位置の変更、舵の変更、対空兵装の増強、その他戦訓の反映といった小改良を加え、構造の一部を簡略化して量産性を高めた戦時急造型空母である。このため公式には飛龍型と呼ばれている。長崎造船所で建造された天城と笠置は、機関に改鈴谷型重巡洋艦のものを流用している特徴を持つ。
合計15隻の建造が予定されたものの、戦況逼迫に伴って竣工出来たのは雲龍、天城、葛城の3隻のみ、起工出来たのも笠置を含めて5隻のみだった。
要目は排水量1万7470トン、全長227.35m、飛行甲板216.9m、出力15万2000馬力、最大速力34ノット。兵装は12.7cm連装高角砲6基、25mm三連装機銃13基、同単装機銃30丁、噴進砲4基。搭載機は艦戦常用18機、補用2機、艦偵常用6機、艦爆常用27機、合計常用51機、補用2機。
艦歴
開戦前の1941年11月策定の昭和十六年度戦時建造計画では、中型航空母艦1隻(後の雲龍)のみが建造予定となっていたが、1942年6月に生起したミッドウェー海戦により正規空母4隻を一挙に失う事態が発生。空母の補充が急務になるも、1942年、1943年中に就役する空母は1隻も無く、建造中の空母も大鳳のみと絶望的に数が足りなかった。そこで帝國海軍は優秀船舶の空母改装を急ぐとともに、9月に改マル五計画を策定して雲龍型空母15隻の増産を図り、このうち第5004号艦の仮称を付けられたものが後の笠置となる。
1943年4月14日、建造費9344万2000円を投じて三菱重工長崎造船所にて907番船として起工、1944年9月5日に軍艦笠置と命名され、10月19日に進水式を迎える。ちなみに11月9日、姉妹艦の阿蘇と生駒の建造中止命令が出されている。
1945年1月1日、艤装員事務所を長崎造船所内に設置して業務を開始し、続々と艤装員の辞令が行われた。艤装員には回航中に撃沈された改造空母信濃の乗組員が充てられる事が多かったらしい。1月20日に海軍省兵器局第一課長の大石保大佐が艤装員長に着任。3月5日、艤装員長が鳳翔艦長の室田勇次郎大佐に交代した。
当初は1945年6月頃の完成を目指していたようだが、相次ぐ徴兵で工員が約200名ほど不足していた上、駆逐艦や海防艦の建造が優先されたため、資材・人手ともに全く足らず、笠置の工事は遅れ気味となっていた。また搭載予定の機関の調達が困難になったので建造中止の改鈴谷型重巡洋艦(第301号艦)から流用している。
戦況悪化により航空機や搭乗員が足りず、母艦航空隊再建の目途も立たず、深刻な燃料不足のせいでマトモに動く事すら叶わない。このような状況で完成させても無意味と判断されたのか、4月1日に改訂線表から消された。これに伴って室田艤装員長は天草海軍航空隊司令へ、艤装員の栗飯原孝中佐は戦艦長門機関長へ異動、艤装員事務所も撤去されて以降の残務整理は飽ノ浦町長崎海軍監督官事務所で行うなどの変化が生じ、このため4月1日を建造中止命令が出た日とする資料が多いが、どうやら中止命令が出た記録は残っていないらしく、いつ中止になったのかは判然としないのだという。
4月15日、自力航行不能なので曳航されて佐世保軍港付近の恵比寿湾に回航。ここは戦艦や空母の指定錨地であった。その後、湾内はB-29による度重なる機雷投下を受けたり、7月28日には米第38任務部隊の敵艦上機が佐世保に襲来する事があったものの、完成度84%の状態で終戦を迎える。終戦時、飛行甲板上に操船指揮用の仮設台が設置されていた。
自力航行不能なので復員輸送船にはなれず、1946年4月1日に除籍。9月1日より佐世保船舶工業(旧佐世保海軍工廠)が解体工事を開始、1947年12月31日に完了して、1万280トンの鋼材が得られた。
関連項目
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