ミッドウェー海戦とは、1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけて起こった大日本帝国海軍とアメリカ合衆国海軍との海戦である。
快進撃を続ける日本軍
帝国海軍は1941年12月8日に行った真珠湾攻撃でアメリカ海軍に大打撃を与え、その2日後に行われたマレー沖海戦では、イギリス海軍の誇る新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』及び巡洋戦艦『レパルス』を撃沈させるなど、順調にアジア・太平洋の制海権・制空権を握っていた。
翌年も2月のスラバヤ沖海戦で勝利するなど南方作戦を順調に進めていた。大本営には将来的にセイロン島攻略などインド方面に進軍し、イギリスの脱落を図り、アメリカの継戦意思を喪失させる構想があり、最終的には西アジアを進軍しドイツとの連絡も考えていた。
しかし、これにはドイツの進軍状況なども絡み、実施は当分先になると予想、大本営海軍部は連合軍の反攻の拠点になるオーストラリアの要地攻略を検討したが、膨大な兵力や船が必要になるなどの問題から陸軍は反対した。代わりにフィジーやサモアなどを攻略して交通路を遮断するFS作戦となり、これなら必要兵力も少なくて済むとのことで陸軍も賛成した。
連合艦隊司令部では次の理由からFS作戦には反対していた。
聯合艦隊司令長官・山本五十六大将は日本と連合軍との戦力差を考え『アメリカにもう一度大打撃を与え、その上で早期講和を目指す』という構想を持っており、連合艦隊司令部ではセイロン島攻略とハワイ攻略を計画していた。(検討を開始したのは真珠湾攻撃の直後と言われる)
山本長官はハワイ攻略の準備が整う間にセイロン島攻略で西方の情勢を安定化させ、ハワイ攻略に専念しようと考えた。セイロン島攻略作戦は大本営陸海軍部には採択されなかったが、ビルマ方面の支援のため英艦隊などに対して攻撃は実施されることになった。
セイロン島攻略作戦が流れた連合艦隊司令部は次の作戦に苦慮した。ハワイ攻略は秋ごろの予定であり、結構な期間が空く。そこで連合艦隊司令部は米空母の誘出と撃滅を目指したMI作戦を計画した。米空母は空襲で日本軍を悩ませており、これを撃滅できればハワイ攻略の助けになると考えたのである。セイロン島攻略が採択されなかったのは陸軍の都合もあると感じた連合艦隊司令部は海軍単独で作戦を実施できることも考慮していた。
また、オーストラリアの補給路遮断の必要性もあり連合艦隊司令部は以前は反対していたFS作戦もMI作戦後に実施することになった。
作戦は完成し4月3日に大本営海軍部に次期作戦案が提案されたたものの、大本営海軍部(軍令部)は次の理由からMI作戦に反対した
- ハワイの時と同じ方向から同じ要領の作戦を行うことは危険。
- 米軍はミッドウェーの大型機の支援を受けられるが、こちらは戦場付近では基地航空隊の支援が受けられない。
- 米艦隊を誘出できるか疑問。不利と判断すれば出撃して来ないのではないか。
- ミッドウェー攻略後の維持が困難。
- 米空母はFS作戦を実施すれば、出撃してくる可能性が高い。この方面ならば、基地航空隊の支援を受けられる。
これにより交渉は一度は行き詰ったものの、その後、連合艦隊司令部から説明を受けた伊藤次長は永野軍令部総長らと協議、米空母撃滅のためFS作戦に修正を加えたうえでMI作戦を実施することになり、なんとか採用に至ったが、大本営は進出が不確実な米空母の撃滅よりもミッドウェー島の攻略が目的、聯合艦隊司令部はアメリカ機動部隊の打倒が目的とそれぞれ指示して日本機動部隊は混乱する。作戦計画では機動部隊の主要任務は敵艦隊撃滅と攻略作戦支援となった。
ドーリットル空襲・珊瑚海海戦の影響
ミッドウェー作戦(MI作戦)に対する軍令部の許可は4月5日におりたが、その後4月18日にアメリカの空母『ホーネット』より16機のB-25爆撃機が発艦し、日本の都市を爆撃した。たいした被害は出なかったが国民は衝撃を受けた。特に本土防空に絶対の自信を持っていた陸海軍の将兵は動揺した。
この本土空襲の為、日本軍は俄然本気になり、陸軍は4月21日に一木支隊を提供し、作戦に慎重だった大本営海軍部も積極的になり5月5日に永野軍令部総長はミッドウェー島・アリューシャン列島の攻略を認可した。
5月に入り、珊瑚海では歴史上初めての機動部隊による海戦が起こった。日本海軍はアメリカ空母『レキシントン』を沈め、『ヨークタウン』を中破させたが、こちらも軽空母『祥鳳』が沈没、『翔鶴』が中破、『瑞鶴』は被害が無かったが航空機と搭乗員の補充が必要となった。
この珊瑚海海戦の影響によりミッドウェー海戦に参加できる正規空母は6隻から4隻になった。作戦のために出港する約一週間前のことである。
日本側の図演から出撃までのおおまかな流れ
5月1~4日 第二段作戦の図演や研究会が行われる。MI作戦では攻略中に米空母が出現、日本空母に被害を受け作戦続行困難となった。統監部により被害の見直しが行われ、作戦は続行し成功はするが、駆逐艦の一部が燃料不足のため座礁するという悲惨な結果だったため、連合艦隊司令部からはこうならないように指導するとした。AL作戦では北方部隊が天候不良のため不時会敵し全滅するという状況もあった。これらへの対策が第二次K作戦の追加や北方部隊への潜水艦部隊の一時編入と言われている。
第二艦隊や機動部隊から作戦延期の要望が出されたが、連合艦隊司令部は再空襲防止の必要があることや月齢などの関係でこの時期を逃すと約1年作戦実施が遅れると判断し延期はしなかった。その後も各方面から準備が間に合わないとの要望が出されるが、なんとか作戦開始までには間に合うと判断した。
5月8日 珊瑚海海戦が起こる。この段階では五航戦の参加は可能と見られており、『翔鶴』は北方部隊へ参加する予定だった。珊瑚海海戦で五航戦が米空母を撃沈破したことは日本軍を喜ばせたが、更に練度の高い一航戦、二航戦ならば米空母の撃滅は容易との考えも出てきてしまっており、機動部隊の草鹿参謀は鎧袖一触の思いがあったと回想している。
5月14日 珊瑚海海戦の被害報告があり、五航戦はミッドウェー、アリューシャン攻略作戦に参加することができないと判断された。五航戦の戦力回復はFS作戦に間に合うことが望まれた。
5月15日 南太平洋方面で米空母部隊が確認される。日本軍には同方面で活動中であるとの見方が出ており、その後の5月28日のツラギ空襲や5月29日の電波送信源の位置特定などで米空母部隊はなお南太平洋に存在すると判断された。
5月19日 連合艦隊の有馬参謀と第六艦隊、二十四航戦がクェゼリンで打ち合わせを行う。有馬参謀は潜水艦部隊の散開線が期日に間に合わないことや後述のウェーク島の水深問題で一部の哨戒を変更せざるを得なくなった(ウェークからのミッドウェー北東海域の哨戒ができなくなった。後知恵ではあるが米空母部隊はミッドウェー北東海域に存在した)ことを連合艦隊司令部に報告したが、問題にはならなかった。
第二次K作戦の協定が成立。最終的に第二次K作戦は中止されるが連合艦隊司令部や機動部隊は特に問題とはしなかった。仮に成功し米空母部隊の不在を確認できたとしても、前述のように南太平洋方面にあると判断されたと思われる。
5月22日 二十四航戦から哨戒計画の変更についての意見具申が報告(内容の一部は事前に有馬参謀から連合艦隊司令部へ報告されていた)。MI作戦では第二次K作戦以外にもウェーク島とウォッゼ環礁から二式飛行艇によるミッドウェー島の西方と南方を哨戒する計画があった。しかし、ウェーク島の水深では燃料満載の二式飛行艇は夜間離水できないことが判明。ウェーク島からのミッドウェー島の西方を哨戒する案はウォッゼ環礁から発進し、ウェーク島へ帰還する計画に変更することが意見具申され、連合艦隊司令部も計画の変更を行った。ミッドウェー島南方への哨戒は第二次K作戦中止後の5月31日と6月3日に行われた。
5月25日 MI作戦の図演や打ち合わせが行われる。この図演で山口少将から米艦隊の出撃を促進するうえからもジョンストン島を攻撃することが必要と進言があったが、宇垣参謀長は米艦隊はジョンストン島の援護の下やってくると説明した。図演はミッドウェー攻略後にオアフ島南東方面から米艦隊が進出するという想定で行われており、日本側では米艦隊の進出はミッドウェー攻略後になると予想していたことが窺える。
打ち合わせにおいて連合艦隊司令部側はミッドウェー攻略中に機動部隊が米艦隊出現に備えているか、機動部隊側は旗艦のアンテナの送受信が低いことから連合艦隊から重要な作戦転換は知らせることなどを確認した。
部品などの搭載が遅れているため、機動部隊から攻撃開始日の1日延期の要望が出され連合艦隊司令部はこれを了承した。上陸日については変更はされず、輸送船団が攻撃前に発見される可能性が高くなったが、連合艦隊司令部は米艦隊の誘出に役立つと判断した。
5月26日 『赤城』で作戦の打ち合わせなどが行われる。そこで索敵が不十分であるとの意見が出された(出したのは山口少将と言われる)。しかし、情勢判断から索敵計画の変更は行われなかった。索敵線が7線なのはインド洋作戦のセイロン島のトリンコマリー空襲や珊瑚海海戦と比較しても同じくらいではある(それ以上を出した例はアンボン空襲時に敵艦船索敵やソロン方面偵察などに14~15機が出撃した例やインド洋作戦で付近に英機動部隊の存在が疑われ索敵した時の索敵線10線などがある)。
北方部隊の第二機動部隊が大湊を出撃。
アリューシャン列島攻略戦(AL作戦)
開戦時の連合艦隊では、破壊又は占領するべき外郭要地であったが真剣に議論がされていなかった。
作戦計画は、米ソ間の連絡を絶ち切り、シベリアに米戦闘機が進出して来ないようにすることだった。ソ連の刺激と哨戒兵力の多さから実行不可として棚上げにされていた。
ミッドウェー攻略が内定する関心が高まり、ミッドウェー攻略の牽制として、又は日本本土に接近する米空母を抑える目的で攻略が決まった。
ミッドウェー島を攻略させる事をアメリカにさとられないようにアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島を占領する為『龍驤』と『隼鷹』の2隻の空母を陽動作戦(AL作戦)で向かわせ、無事にアッツ・キスカ両島を占領した。
アッツ・キスカ両島への攻撃も米軍に察知されていたのだが、アリューシャン方面に派遣されたシオボルト少将は諸々の理由により本命はダッチハーバーと考えコディアックに留まった。
ミッドウェー攻略作戦
ミッドウェーを攻略させる事をアメリカにさとられないようにアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島を占領する為『龍驤』と『隼鷹』の2隻の空母を陽動作戦(AL作戦)で向かわせ、無事にアッツ・キスカ両島を占領するも、アメリカ軍に暗号が解読されていた為、ニミッツ大将は空母『エンタープライズ』・『ホーネット』・そして珊瑚海で中破したが、3日間の突貫作業で修理させた『ヨークタウン』をミッドウェーに向け送り出し、ミッドウェー島に航空機の増援を送った。
対する日本軍は南雲忠一中将が指揮する空母『赤城』・『加賀』・『蒼龍』・『飛龍』を中心とした機動部隊にミッドウェー島の攻略を命じ、その後やってくるであろうアメリカ海軍を迎え撃つ為、戦艦『大和』を中心とした山本五十六長官率いる主力部隊が後で合流する運びとなった。
かくして、ミッドウェー島を攻略すべく帝国海軍は動き出した・・・。
5月28日 ツラギが艦上機により空襲されたとの報告が入る。連合艦隊司令部の三和参謀は日誌に「敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦はできず。我はこれを慮る。」と記しており、この時点では米空母は南太平洋に存在すると判断していたようである。
輸送船団がサイパンを出撃。
支援隊がグアムを出撃。
アメリカの第16任務部隊がハワイを出撃。
5月29日 山本長官が率いる主力部隊と近藤長官が指揮する攻略部隊が出撃。
アッツ攻略部隊が陸奥湾を出撃。
南太平洋で電波送信源の位置を特定、これは米機動部隊と判断され、訓練中の陸攻隊のラバウルへの復帰が行われた。
5月30日 フレンチフリゲート礁に米水上艦を確認、第二次K作戦を1日延期。米軍は3月の第一次K作戦後、フレンチフリゲート礁を日本軍が補給地点として使用していたことを突き止めていた。ミッドウェー海戦では米軍も同地を飛行艇の補給地点として活用している。
二十四航戦、ウェーク島からの飛行哨戒を開始。
5月31日 フレンチフリゲートに米軍が展開していたため補給作業ができず第二次K作戦中止。米軍は暗号解読で第二次K作戦を察知しており、ハワイ北西部の島や環礁を警戒させていた。
連合艦隊司令部や南雲機動部隊は中止報告を受け取ったが米空母は南太平洋にいるという情勢判断のためか、潜水艦の散開線など他の索敵手段があるためか特に問題とはしなかった。
二十四航戦司令部は二式飛行艇にミッドウェー島南方海域の哨戒を指示。
6月1日 日本海軍の暗号書が更新され、米軍は暗号解読による情報が得れなくなるが、通信情報などで情報収集を行った。暗号書更新は当初は4月初旬に予定されていたが、5月初旬に延び、さらに延期されたものだった。
『サラトガ』がサンディエゴからハワイへ向かう。
6月2日 第16任務部隊と第17任務部隊がで合流、ミッドウェー島北東海域で日本艦隊の襲来に備えた。
6月3日 大本営海軍部が情勢判断を出し、米空母の動向についてはシドニーやヌーメアなどの偵察で発見できなかったことから真珠湾へ帰還した可能性が高いが、南西方面に対する新たな企図の下に行動している可能性も無しとせずと判断した。
南雲機動部隊、前日からの霧の影響で信号を全艦へ伝えらない状況となった。攻撃開始日に間に合わせるためには変針しなくてはならないが、変針するための電波発信は敵に位置や方位などを悟られる恐れがあったため問題となった。最終的に変針のため電波を発信したが、その数十分後には霧は晴れた。(5月28日に『旭東丸』が視界不良のために発信した無電や6月3日の機動部隊が変針のために発信した無電は米側には傍受されなかったとされている)機動部隊の吉岡参謀はそれまでと違い攻撃開始日が指定されているため機動に余裕が無かったと語っている。
6月4日 大本営から南雲機動部隊に敵は未だ我が企図を察知したとは判断せずとの電報が届く。
『飛龍』でわずか数秒ではあるが、米空母の呼び出し符号らしきものを傍受。しかし、この情報は山口少将や通信参謀にも届けられず暗号室内に留まった。南雲機動部隊の他の艦では傍受した記録は無い。
『大和』が米空母らしき呼び出し符号を傍受、山本長官から南雲機動部隊へ伝えてはどうかと提案があったが、参謀からより進出している南雲機動部隊も傍受していると考えられ、無線封止を破ってまで知らせることはないと進言され伝えられなかった。
海戦の2~3日前に第六艦隊が米空母らしき電波をキャッチ、方位測定の結果、ミッドウェー島北北西の位置に捉え、この情報は東京通信隊から全艦隊へ放送されたとの高橋参謀の証言があるが、MI作戦に参加した艦の受信記録にこの情報は無い。黒島参謀は米空母について大本営から情報を受信したとも証言しているが、別の回想では呼び出し符号を傍受した際とも証言しており情報源が一定していない。攻略部隊や機動部隊などの将兵の証言にはこの情報が出てこず、軍令部ではこの第六艦隊からの情報について知っているとの証言や記録が無く高橋参謀の証言には疑問が残る所がある。
輸送船団がミッドウェー島の哨戒機に発見され、B-17の攻撃を、夜にはPBYの夜間攻撃を受けるが被害は小規模にとどまった。輸送船団は主力部隊と報告されたが、米太平洋艦隊司令部から米機動部隊に対して「これは主力部隊ではない」と緊急電を出した。フレッチャー少将は発見された部隊を主力部隊ではないと判断しており、緊急電で裏付けもあったことから米機動部隊は日本艦隊の襲来に備え遊弋を続けていた。
3時00分、南雲長官、「敵は戦意に乏しいが、攻略作戦が進捗すれば出撃反撃の算あり」などの情勢判断をする。
4時30分、友永丈市大尉が指揮する第一次攻撃隊108機が空母を発艦、索敵機や直掩機も発艦を開始した。
5時20分、情勢に変化なければ、第二次攻撃は第四編制にて実施予定との予令を出す。
この予令については諸説あり、吉岡参謀に森史郎氏が1976年に取材した際の話では「本日機動部隊出撃の算無し。情勢に変化なければ、第二次攻撃は第四編制にて行う」との文面だったという。吉岡参謀は戦闘詳報を作成した際に文面を一部削除し、理由として「そんなみっともないこと書けますかいな」「本当の敗戦の原因はあの信令」と話したという。森史郎氏は吉岡参謀が隠蔽したとしているが、戦闘詳報の情勢判断では米空母の進出が攻略後になると予想していたことについて書かれている。
豊田穣氏が1981~83年頃?に吉岡参謀に取材した際には、「予令についての論争は防衛庁戦史室から聞いた」「私は全然知らんし源田さんも同じだろう。源田さんや私が知らないものを一体誰が発信したのか」と話している。
豊田穣氏の取材に『加賀』の天谷飛行長[1]は「0220信の本日第二次攻撃を実施の予定というのは、全然聞いていない」、牧分隊長は「0220信っていったい何かね。全然知らないね」と話しており、予令については知らないとしている。
5時40分、アメリカ軍は日本軍の機動部隊を発見。発見したのはPBYで「二隻の空母と他の艦船を見ゆ」といった情報がミッドウェー基地に報告され、基地から米機動部隊へも報告された。ミッドウェー基地航空隊が6時に発進。米機動部隊から7時に攻撃隊149機を発艦させた。
6時30分、ミッドウェー島を空襲するも、先にPBYに発見された為にたいした被害は与えられなかった。そして友永大尉は第二次攻撃の必要あり(カワ・カワ・カワ)と打電した。
7時00分、旗艦『赤城』に友永大尉からの無電が届く。この無電は後方の『大和』でも傍受していた。
7時05分、南雲機動部隊にミッドウェーから発進したB-26やTBFによる空襲があったが直掩の零式艦上戦闘機などの活躍により被害はでなかった。
南雲司令部ではこの襲来機をミッドウェー島との距離からミッドウェー基地から飛来したものと判断した。
南雲機動部隊はインド洋作戦などで艦載機の陸上運用があることについて知っていることや米空母らしき兆候の情報を得ていないこと、B-26など陸上機も随伴していることなどの要素もありミッドウェー基地から飛来したものと考えるのは自然な判断と思われる。
TBFの空襲後、田村兵曹長の証言では利根4号機からの電報受信前に山口少将から「本日早朝より来襲せる襲来機を鑑みるに空母の出現算大。考慮せられたし」と信号するように言われたと証言している。
その理由について出撃前に米空母に新型の艦載雷撃機が配備されたと情報を田村兵曹長は得ており、米雷撃機が『飛龍』のそばを通過した際、敵新型艦載雷撃機と判断し報告したのを米空母がいると取られたのではないかとしている。
しかし、艦載機の陸上運用があることなどはウェーク島攻略作戦やインド洋作戦で山口少将も知っているはずで、その報告だけを理由としてミッドウェー島から来たTBFを空母からのものと誤認したのは疑問である。仮に山口少将が襲来機以外にも米空母に関する情報を入手し判断要因があったのであれば、なぜそれが南雲司令部などに伝わっていないのかという点が疑問として残る。
なお、山口少将は5月25日の時点では図演での進言を見る限りでは米艦隊の待ち伏せの可能性は低いと判断していたのではないかと思われる。(米艦隊が既に進出していると想定していた場合、米艦隊の出撃を促進するうえからもジョンストン島攻撃が必要と進言するのは疑問がある)
7時15分、索敵機の索敵線先端到達予想時刻となるが、敵艦隊発見の報はなかった。南雲長官は源田実航空参謀との打ち合わせの上、魚雷から対地爆弾への兵装転換を命じた。
7時28分、『利根』から遅れて発進した偵察機から『敵らしき物発見』との電文が届く。
7時45分、兵装転換中止を決定。再度の魚雷への変換を命じた。第一次攻撃隊が帰還を始めるが、空襲のため上空待機。
7時47分と8時00分に『利根』の偵察機に対し艦種を知らせるよう命令が出される。
7時55分からミッドウェー島のSBDやB-17、SB2Uによる攻撃を受けるが被害は出なかった。
8時09分、『利根』4号機より「敵兵力は巡洋艦、駆逐艦各5隻と報告」。
8時20分、『利根』の偵察機より『敵ミッドウェーの北240海里(約450キロ)、空母1隻を伴う』と報告が届く。 (だがこれは間違いで敵空母は北140海里(約260キロ)にいた)
8時30分、『飛龍』の司令官山口多聞少将は『直ちに攻撃隊発進の要ありと認む』と赤城に発光信号を送るが、『赤城』の南雲長官は
「(偵察機の報告から)敵はまだ遠くにいる」(偵察機が報告してきた位置から米空母との距離は約210海里と判断された。この距離では攻撃隊は護衛無しの状態になるため敵は護衛機をつけるために接近する必要があり、護衛なしで襲来させた場合は直掩機で防ぐことができるとされ、兵装換装などの時間の余裕があると判断したとされる)
「攻撃隊を発艦させると、第一次攻撃隊を着艦できず、最悪の場合100機近い航空機を燃料切れで失う事となる」(攻撃隊を格納庫から飛行甲板に挙げ発艦準備ができるまで約40分はかかるとみられ、その間は着艦ができない。第一次攻撃隊は空襲で空中待機が続いており、かなりの数が燃料を使い果たし不時着水すると南雲司令部は判断した)
「零戦を直掩で上げているので攻撃隊に付ける機体が無い」(源田参謀は護衛機の無い攻撃隊がどうなるかは日華事変以来の戦訓で骨の髄までしみ込んでいると回想しており、現に護衛機を伴わずにやってきた米攻撃隊は甚大な被害で攻撃も失敗していた)
などのさまざまな理由で攻撃隊を発進できなかった。
触接のため二式艦偵が発進。
一航戦へ艦爆隊の攻撃準備の命令が出される。これは米艦隊への第二次攻撃を行う考えだったとされる。
8時40分、空襲が一時途絶えたため。第一次攻撃隊の収容を開始。
9時17分、第一次攻撃隊を収容し南雲機動部隊は北東へ退避[2]。断続的な空襲の為兵装転換はなかなか進まず。
10時20分 フレッチャー少将、まだ見つかっていない日空母の発見のために『ヨークタウン』にあった17機のSBDの内、10機を北西への索敵に発進させる。
10時22分、ようやく兵装転換終了。南雲長官、直掩機増強のため艦戦は準備出来次第発艦せよと指示、上空直掩の増援のため零戦が発艦を始めた。
10時24分、『ヨークタウン』と『エンタープライズ』より発艦したドーントレスの急降下爆撃により『赤城』・『加賀』・『蒼龍』が被弾する。
『ヨークタウン』隊と 『エンタープライズ』隊は別々に進撃していたが、偶然が重なり図らずも同時攻撃となった。日本側はTBDに気を取られ、SBDには気付いていなかった。
10時46分、南雲長官が旗艦を『赤城』から『長良』に移乗を開始。その後、旗艦に将旗が翻っていないことに気付いた次席指揮官の第八戦隊の阿部司令が指揮を引き継ぐ。
10時50分、第八戦隊の阿部司令は米空母への攻撃を命令、同時に山口少将は「全機今ヨリ発進敵空母ヲ撃滅セントス」と報告。
10時58分、『飛龍』より艦爆18機、艦戦6機による第一次攻撃隊発艦。
途中、第一次攻撃隊は帰還中のSBD6機を発見、日本艦隊への攻撃隊と判断した艦戦隊は攻撃を行った。双方撃墜機は無かったが、日本側は艦戦2機が損傷や弾薬の消耗により帰還した。
11時30分 『長良』への南雲司令部の移乗が完了し、機動部隊の指揮を執ることや当時の戦況などを報告。
11時53分 南雲長官、『飛龍』の攻撃に乗じて水上戦闘を企図。
12時08分、『飛龍』の攻撃隊による爆撃で『ヨークタウン』に250キロ爆弾三発命中。『ヨークタウン』中破。煙路損傷により一時的に航行不能になるも1時間半後には復旧。飛行甲板も損傷したが25分で修復は終わり、日本の第二次攻撃隊襲来時には直掩機を発艦させている。
『ヨークタウン』はレーダーと無線が使用不能になり、煙で発光信号も使えないためフレッチャー少将は重巡『アストリア』への移乗を決定。
日本側は艦戦4機の護衛がついていたが直掩の12機のF4Fにより艦爆10機、対空砲火により艦爆2機が投弾前に撃墜され、投弾後に更に1機が撃墜された。艦戦も3機が撃墜される被害を受けこれらは山口少将の予想を上回るものだった。
第16任務部隊ではブラウニング大佐より即時攻撃が進言されるが、スプルーアンス少将は日本空母の正確な位置などの情報を得てから攻撃することを決断し待機した。
13時30分、『飛龍』より艦攻10機、艦戦6機による第二次攻撃隊発艦。
14時40分、『飛龍』の第二次攻撃隊が『ヨークタウン』に魚雷二本命中。『ヨークタウン』大破、航行不能。14時58分に総員退艦が発令される。
日本側は直掩の12機のF4Fや対空砲火により艦攻5機、艦戦2機が撃墜される被害を受ける。
(後に『ヨークタウン』は日本海軍の『イ168』潜水艦の魚雷で撃沈する)
15時20分 山口少将は攻撃隊の被害と残存機数から昼間攻撃の成功率は低いと判断し、第三次攻撃を薄暮まで延期。攻撃の成功率を高めるため『赤城』へ発艦可能機があればまわしてほしいと連絡をとっている。
それまでの情報から米空母は残り一隻で米攻撃隊も先の攻撃で相当消耗しており、艦戦は比較的数が多かったことから攻撃があっても防げると判断した。南雲中将も昼間の攻撃は困難と判断し、一旦北西へ退避、飛龍の攻撃に乗じ夜戦を行おうと企図した。
17時03分、唯一残った空母『飛龍』が爆撃を受ける。
飛龍被弾後も南雲長官は夜戦を行おうとしたが、米空母に関する更なる報告(筑摩2号機の報告を受けた『筑摩』艦長から米空母は4隻と阿部司令へ報告され、この情報は残存米空母は1隻と考えていた南雲長官に大きな衝撃を与えたという)から夜戦の見込みは薄いと判断し西方へ退避を始めた。
連合艦隊司令部には南雲司令部の判断は消極的と捉えられたようで、第二艦隊に第一機動部隊を指揮下におき、夜戦を行うように命令している。
命令を受けた第二艦隊の近藤長官は夜戦に関する命令を行うが、夜戦の見込みが薄いとも判断しており、明朝は水偵隊と瑞鳳の艦攻隊で攻撃を行うことを企図している。第二艦隊から命令を受けた南雲長官は反転した。
18時00頃、フレッチャー少将、スプルーアンス少将に指揮権を移譲。
23時55分、戦艦『大和』の山本長官がミッドウェー作戦中止を決定する。
4時50分、自沈させる為『嵐』、『萩風』、『野分』、『舞風』より放たれた魚雷により『赤城』沈没。
5時10分、自沈させるため駆逐艦『巻雲』より放たれた魚雷により『飛龍』が数時間浮き続けた後に沈没。
日重巡三隈の喪失
MI作戦では第七戦隊は支援隊として出撃していた。
3空母被弾後、連合艦隊司令部は作戦の続行を考えており、ミッドウェー島飛行場には戦力がまだ残っていることやハワイから増援が到着することも考えられ無力化する必要があった。
そのため、第二艦隊(攻略部隊)へ飛行場への砲撃を命じ、連合艦隊からミッドウェー砲撃の命令を受けた第二艦隊の近藤長官はミッドウェーに一番近い支援隊の第七戦隊に行うように指示。
連合艦隊司令部の命令は第七戦隊でも傍受しており、近藤長官からの命令を受ける前に現在の位置を報告、近藤長官も支援隊の位置情報から黎明直前の到着になる(砲撃から間もなく夜が明けるためリスクがある)ことを宇垣参謀長へ電文を打ったが、連合艦隊司令部からの返信はなかった。
その後、連合艦隊司令部からミッドウェー島の砲撃を中止と主隊への合同命令を受け取る。
撤退中、第七戦隊は潜水艦を発見、回避行動をとるが、『最上』と『三隈』が衝突。
衝突事故を報告した栗田司令は健在の2隻だけでも退避させるため、『最上』の護衛に『三隈』を付けその場を離れた。
ミッドウェー島からの攻撃隊による攻撃を受けるが被害は軽微だった。その後、第八駆逐隊が護衛に合流した。
しかし、米空母に捕捉され、『ホーネット』の攻撃隊による攻撃を受けた。
こちらも被害が軽微だったが、攻撃が続けば全滅する可能性が高いと判断した『三隈』の崎山艦長は行動の変更を報告し、被害の少ない『三隈』だけでも離脱させようとする思いからか、高速でウェーク島へ向かった。『最上』の曽爾艦長は「『三隈』の行動は致し方なかった」としている。
それから間もなく『エンタープライズ』からの攻撃隊が襲来、攻撃は『三隈』に集中し、大破。総員退艦が発令された。
『三隈』の救助作業中、『ホーネット』の第二次攻撃隊が襲来。一旦、退避したが『最上』に大きな損害が出る。
この攻撃後、再度『三隈』の救助作業を行うべく、第八駆逐隊の『朝潮』が向かったが『三隈』の姿は無かった。
米空母ヨークタウン撃破
6月5日、『飛龍』の反撃によりダメージを受け沈没のおそれから総員退艦が発令された『ヨークタウン』だが、その後も浮かび続けていた。6月6日、『ヨークタウン』復旧のため『ヨークタウン』艦長のバックマスター大佐によりサルベージ班が編制され、6月7日に送られた。消火作業が終わり、傾斜復旧のため注水や排水作業、後方基地のハワイに退避準備を進めていた。連絡を受けて作戦海域に入った伊号潜水艦『イ168』は米駆逐艦『ハムマン』を横着けして復旧工事を進めている『ヨークタウン』を発見。
『ヨークタウン』は、すでに乗員を移して、艦隊曳船『ヴィレオ』により3ノットでハワイに向かっていた。『イ168』艦長、田辺少佐は攻撃を決意。『ヨークタウン』の真下を通過したり、その場で360度旋回しながら距離を図り、発見から9時間後に『ヨークタウン』に向けて4本の魚雷を発射した。内2本は『ヨークタウン』1本は『ハムマン』に命中。(アメリカ側の資料には各艦1発ずつ)
『ハムマン』は轟沈。『ヨークタウン』は回復が難しくなり復旧作業は中断、6月8日の5時01分に沈没した。
『イ168』は米駆逐艦からの5時間に及ぶ爆雷攻撃に耐えて、戦場を後にした。
ミッドウェー海戦のその後
ミッドウェー海戦後はフィジー・サモア攻略、ジョンストン・パルミラ攻略を経て10月にハワイを攻略する予定であったが、この敗北により崩れさった。
MI作戦を中止した連合艦隊司令部や軍令部は次期作戦を考え、MI作戦の再検討、FS作戦、インド洋での通商破壊が案として挙がった。
軍令部はFS作戦を推していたが、戦果の多くを挙げた零戦が航続距離の関係で活用できないことや戦力の主体となる基地航空隊の機材や人員が足りないことなどの問題もあった。(6月22日の時点での充足率は戦闘機は54%、陸攻は79%。人員の定数は常用機に対し150%とされていたが、戦闘機搭乗員は121%、陸攻搭乗員は106%と定員割れをおこしていた)
連合艦隊司令部はFS作戦に難色を示し、カントン島(米豪の通商路付近)を攻撃、米空母を誘出して撃滅する案を提出した。
連合艦隊司令部と軍令部は協議の結果、インド洋での通商破壊を行うことにしたが、連合軍はソロモン方面で攻撃を開始。
ソロモン海域で日米両軍が消耗戦を繰り広げ真珠湾以来の熟練搭乗員を次々と失う事となる。
この戦いの後も日本海軍は戦力を十分残しており、空母を4隻失ったが熟練搭乗員はまだ多数残っていた。
また空母同士の戦いは続き、南太平洋海戦ではまだまだ対等な戦いを続けている。
それでも正規空母4隻とその艦載機を一度に喪失したのは非常な痛手であった。このため、ミッドウェー海戦が太平洋戦争における転換点であるという根強い主張があり、ソロモン海域での消耗が転換期とする主張と別れている。
関連動画
関連項目
脚注
- *空母における飛行長は索敵や攻撃の準備など母艦から航空戦を支える役目であり、実際の攻撃隊は飛行隊長が指揮する。飛行長という役職は基地航空隊や戦艦や巡洋艦などにもあり、それらでは飛行長自身が出撃することもある(ミッドウェー海戦では『筑摩』の都間飛行長が索敵に出撃しているが、『利根』の武田飛行長は艦に残り第八戦隊司令部のサポートを行っている)
- *『利根』の偵察機から発見した敵艦隊の位置、ミッドウェーより方位10度、240海里、針路150度、速力20ノット以上との情報も得ており、北東への針路変更は米機動部隊の捕捉を目指したものとする説も存在する
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