「袁崇煥」(エン・スウカン 1584~1630)とは、中国・明末期の名将であり、後金(女真族、後の満州族)の大軍を寧遠城(現在の遼寧省の興城県城)で二度にわたって撃退した明の守護神である。字は「元素」とちょっと変わっている。
強大化した後金(女真)の進出をポルトガルから大量輸入した大砲「紅夷砲」により2度撃退し、皇帝の信任も絶大であったが、女真族の離間の計により皇帝に誅殺されるという英雄のテンプレートの様な死に方をしてしまった。
寧遠着任
1584年、東莞(現・広東省)生まれ。35歳の時に科挙に合格し、邵武(現・福建省)の知県(県の長官)に就いていた。この時、退役将校と要塞防備について語りあっていたと言われる。
1622年、「兵部職方主事」という武官に抜擢され、それから間もなく広寧(現・張家口市)の軍が後金(女真)によって壊滅された時、袁崇煥は単騎で現地の偵察に向かった。そして朝廷にて、
と言い放ち、かねてからの評判を聞いていた朝廷は彼を大抜擢して彼を関(山海関)の防衛に当たらせることにした。
駐屯地での会議の結果、袁崇煥の「山海関の外の寧遠の地を根拠地とする」(←山海関は当時から巨大で強固な関だったので結構思い切った案である)という意見が採用され、一年かけて巨大な城が築かれた。これが寧遠城である。その後この城を拠点に一時的に後金から領地奪回をするのだが、高第という無能上官がやってきて、奪回した地を全部放棄して山海関まで撤退しまう。再び寧遠城は最前線となるのであった。
後金との戦い
そんなグダグダっぷりを見た後金の英雄・ヌルハチは1626年1月、大軍をもってして寧遠に攻め入った。ここで袁崇煥は、こんなこともあろうかと大量にポルトガルから輸入しておいた大砲「紅夷砲」を組打ちし、後金軍は大打撃を受け撤退した。
※この数日後にヌルハチは死んでいる。公称病死だが、大砲の傷で死亡した説もある。多分そっちだと思う。
その後、袁崇煥は高第が失った旧領土を回復し、そして単独で後金と講和を進めようとした。これはただの時間稼ぎであり、城の修復と更なる領地奪回の為であったと、ちゃんと帝に後で説明したのだが、このことが後の袁崇煥の悲劇に繋がってしまうのであった。
1627年、ヌルハチの子にして後継者であるホンタイジが朝鮮を屈服させ、同年5月11日、錦州城(遼寧にある寧遠と別の城)に大軍で攻め入った。全軍は出せない袁崇煥は寧遠城から騎兵4000を選抜し、山海関からの援軍が整ってから攻めるように言った。他に水軍を東進させ相互に連携を取らせ、本国からの大援軍を呼び、連携を取らせるようにした。
5月28日、後金軍は寧遠城に軍を向けた。袁崇煥は城から砲撃を行い、また城外に集った軍は後金軍と一大決戦を行い、後金軍は敗れ、撤退した。
離間の策
袁崇煥は皮島(現北朝鮮領、場所は中華版Wikipedia参照)の総督・毛文龍を処刑することを望んだ。ホンタイジ軍にあっさり負けて逃げ帰ったこと、行政能力が無かったこと、横領疑惑があったこと、一族の者しか要職に就けない等々の理由により。これもまた袁崇煥の悲劇の引き金であった。
袁崇煥は遼寧での防備をますます固め、ホンタイジ軍が再び数十万の軍で攻めてきた時の防衛体制も完璧であり、皇帝もそれを喜んでいた。
しかし、隘路を進んで首都・北京に大挙として出現したホンタイジ軍を見て帝は仰天した。袁崇煥はすぐさま千里を掛けて首都に向かったが、都の人間は崇煥が敵兵をわざと見逃して首都に誘き入れたと噂し、また以前単独講和したのはやはり後金と密約があったのかと誹謗され、さらに捕虜にした兵や元・毛文龍の部下に崇煥が謀反を企んでいると流言を撒かせるなど、猜疑心の強い皇帝・崇禎帝に袁崇煥を殺させるには充分な情報が揃いすぎてしまっていた。
こうして皇帝は袁崇煥を処刑し、明の滅亡は確定したのであった。
関連項目
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