ヌルハチとは、清王朝の太祖である。後金を建国し、後に270年続く清の礎を築いた人。
フルネームはアイシンギョロ・ヌルハチ。漢字で書くと愛新覚羅・奴児哈赤(弩爾哈斉)。「奴児哈赤」は明が使用した漢字で、清人はこれを嫌って「弩爾哈斉」と表記した。
概要
ヌルハチの人生は25歳で挙兵して以来、遠征と戦争にあけくれる日々であった。
後々に大清帝国の始祖となるヌルハチであるが、彼が挙兵した当初は周りは敵だらけであった。明やモンゴルはもちろん女真族も3の部族(海西女真や野人女真)に分かれており、更にはヌルハチの所属する建州女真族ですら、ほとんどがヌルハチに敵対する存在であった。ヌルハチは長い闘争を経てこれらを順番に征伐していく。
挙兵とマンジュ国の建国
ヌルハチは1559年に建州(マンジュ)女真族の愛新覚羅氏のタクシの第四子、ヒタラ氏の母エメチの長男として産まれた(諸説あり)。エメチが身ごもってから13ヶ月目の出産だったという。ヌルハチ=スレ=バトゥル(ヌルハチのこと)は、幼少の頃より徳を示す子供であったが、ヌルハチが10歳の時に生母が亡くなり、父が再婚すると継母との折り合いが合わず苦労が多くなったとされる。ヌルハチがトゥンギャ氏のタブン=バヤンの娘、ハハナ=ジャチンと結婚して、分家(独立)しようとしたときにも継母に言いくるめられた父親は余り財産を分けてくれず、ヌルハチは商いをするなど、ほぼ独力で生計をたてていかなければいけなかった。妻ハハナ=ジャチンとの間には80年に長男チェエン、83年には次男のダイシャンが産まれている。
ヌルハチ25歳の時に、祖父ギオチャンガと父タクシが明の将軍の李成梁に殺されるという事件が起きた。ことの経緯はこうである。1583年、明の万暦帝治世下、グレという地にいたアタイ=ジャンギンの城を明の広寧の総司令官、李成梁が包囲した。しかし中々攻め落とすことが出来なかった李成梁は、城の兵士に 「アタイを殺した者はこの城のエジェン(長官)にするぞ」といって籠絡作戦に出る。この作戦は上手くいきアタイを討つことはできたのだが、この時スクスフ部のトゥルン城主であるニカン=ワイランという名のアンバン (大守)が、アタイを救出しようとしたギオチャンガとタクシを殺すように李成梁にけしかけたため、李成梁は二人を殺害してしまった。
この事件に対してヌルハチは敵討ちのため挙兵する。ヌルハチの長い長い覇権闘争の幕開けであった。
ヌルハチの父と祖父と殺した李成梁は、これは失策であったと認めヌルハチに謝罪と賠償の品を送ってきたがヌルハチはこれを認めず、明の清河堡を攻撃し、李成梁をそそのかしたニカン=ワイランの引き渡しを求めた。これに怒った明側はギヤマンの地に城を築き、 それをニカン=ワイランに与え彼をマンジュのハン(王)と認めると宣言した。この時、一族の中からも祖父ギオチャンガの甥であるロンドンをはじめとしてニカン=ワイランの味方をするものが続出し、ヌルハチは孤立してしまう。ただしギヤムフのガハシャン=ハスフやジャン川のチャンシュ・ヤンシュ兄弟など、ヌルハチの側につくものもいた。ヌルハチが挙兵した時の武装はわずかに鎧が13個だけという有様であり、鎧を着ない者も含めても兵の数は数十程度であったと推測されている。
1583年5月ヌルハチはニカン=ワイランの居城トゥルン城に侵攻を開始するも、ヌルハチに協力してくれる予定になっていたサルフ城のノミナが、ロンドンの調略によって離反してしまい、ヌルハチが到着した時にはノミナから連絡を受けたニカン=ワイランは明の国境近くにあるギヤバンへ既に逃げ出した後であった。その後、面倒ごとを避けた明はニカン=ワイランを見放してしまった為ニカン=ワイランを見捨てるものが続出し、今度は彼が孤立に陥る。ニカン=ワイランは妻子・兄弟などわずかな共を連れてジェチェン部の北、スクスフ部から遠く離れたオルホン(撫順北の范河付近)に落ち延びるも、3年後1586年に再びヌルハチに攻められ最後はヌルハチが派遣したジャイサの手によって殺害された。
ニカン=ワイランとの戦いに明け暮れる一方でヌルハチは、建州女真5部(スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェン)を統合することにも精を出していた。ヌルハチは1587年にはギヤハ・ショリ両河の間にある土地に最初の居城である旧老城(フェ=アラ)を築き軍備を整え、同年にフネヘ部のドゥン城を攻めてジャハイを降伏させる。
翌年1588年には海西(フルン)女真族ハダ部のダイシャンの妹アミン=ジェジェを妻に迎え入れ、その直後にヌルハチの優勢を感じたスワン、ドンゴ、フォオンドンの三部がヌルハチに帰伏した。更にヌルハチはワンギヤ城のダイドゥ=メルゲンを倒し、翌年1589年にはジョーギヤ城のニングチン=メルゲンを殺害する。この頃にはマンジュ5部にヌルハチの敵はいなくなり、ここにマンジュ国が建国された。
マンジュ国に対して明はヌルハチに建州衛都督僉事(せんじ)を授与し、ヌルハチはこれを利用して明との取引によって富を蓄えると武器を買い入れて軍備を増強していった。マンジュ国は数ある北方民族の中の一つである女真族の更に建州女真の国にすぎなかったが、マンジュ国の樹立は他の女真族やモンゴル族世界に大きな影響を与える事となった。
女真族統一戦線(VS海西女真族)
グレの戦い
ヌルハチ勢力が伸びる事に危機感を覚えた海西(フルン)女真の4部(ハダ、イェヘ、ホイファ、ウラ)は 1593年にマンジュ国の東南に広がる白山部とワルカ部を巡る争いをきっかけに内モンゴルのハルハ5部の一つコルチン部と共に3万の連合軍を集めマンジュ国に侵攻した。内分けは以下である。
- イェへ部の国王(ベイレ)のブジャイとナリンブル
- ハダ部の国王のメンゲブル
- ウラ部のブジャンタイ(国王マンタイの弟)
- ホイファ部の国王バインダリ
- ノン河の蒙古コルチン部の国王ウンガダイ、マングス、ミンガン
- シボ部
- グワンルチャ部
- ジュシェリ路主ユレンゲ
- ネエン路主セオエンとセクシ
マンジュ国と連合軍はグレの地で激突。数では勝る連合軍であったがイェへの王(ベイレ)の一人であるブジャイが討ち取られたことにより、全軍が総崩れになってしまった。これが世に言うグレの戦いである。戦いに勝利したヌルハチは数多くの捕虜や物資と共に明から竜虎将軍の称号も得て、全女真族統一への道のりを大きく進める。
ヌルハチはグレの戦い以後、海西女真族とそれに組した部族を順に各個撃破していった。
最初にヌルハチが攻めたのは白山部のジュシェリ・ネイェンの両地方であった。ジュシェリ地方ではイェへに従うかヌルハチに従うかで国内は議論が紛糾していた。最終的にヌルハチ派のイェチェンが、同じ部族でイェヘ派のユレンゲを斬り、残りのイェへ派も掃討したためにジュシェリは平定させた。次に攻めたネイェン地方もヌルハチ派のスルドゥンガと反ヌルハチ派のセオウェンとセクシが戦争になったが、結局ヌルハチの協力を得たスルドゥンガがセオウェンとセクシが立て篭るフォドホ城を落とし、これもマンジュ国の支配下に収められた。
ハダ部攻略
その後、アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略にかかる。ハダ部もまたイェへとマンジュ国の間で板挟みの状態にあった。
1597年にイェへ部のナリンブルはハダ部を攻撃し始めた。ハダ部国王メンゲブルはヌルハチに人質と共にヌルハチに援軍の要請を送り、ヌルハチはこれに応じて2000の兵を差し向けるも、イェへの誘惑に乗ってしまったメンゲブルはヌルハチの兵を殺害しようとしていた。
これを知ったヌルハチは急遽自ら兵を率いてハダを攻撃し、メンゲブルを捕虜にする(後に死刑)。ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連れていってしまい、ここに事実上ハダ部は滅んだ。
ハダ部は明の対女真対策の要の地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチはメンゲブルの長子であるウルグダイとハダの住民を元の地に戻したのだが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返した為に、結局ハダの住民はマンジュ国に戻されることになった。ちなみにウルグダイはこの後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。
支援していたハダ部が滅んだことにより、今後明はヌルハチに対抗するためにイェへを支援していくこととなった。
ホイファ部攻略
続いてヌルハチが攻めたのはホイファ部であった。1607年、ホイファ部は海西女真でも一番弱小の国であり、マンジュ国との決戦を前にしてベイレ(王)のバインダリがホイファ城の補修工事を行うなどしていたが、天変地異をきっかけにバインダリの一族を先陣にしてホイファ部の住民のイェへへの亡命が止まらなくなった。
ここにきてバインダリはマンジュに援軍を要請してこの騒ぎを収めようとしたが、ホイファとマンジュが手を組むことを恐れたイェへのナリムブルは、亡命したホイファの住人を元の地に返すことを条件にマンジュと手を切るようにバインダリに言う。これに応じたバインダリであるが、ナリムブルはいつまでたっても亡命人を返さず約束を反故にしてしまった。バインダリは再度ヌルハチ側につくように政策転換するが、中途半端な対応の連続にヌルハチの疑惑を招き、とうとうマンジュ軍に攻め滅ぼされてしまった。バインダリはヌルハチに殺され、ハダに続いてホイファもここに滅亡を迎えた。
ウラ部攻略
ウラ部の国王ブジャンタイはグレの戦いで捕虜になって以来、フェ=アラ城で虜囚生活を送っていたが、ブジャンタイの代わりにウラを統治していたブジャンタイの兄のマンタイが殺されるとヌルハチはブジャンタイをウラに返した。
この時ブジャンタイの叔父のヒンニヤが跡目を狙ってブジャンタイを暗殺しようと待ち構えていたが、トゥルクン=フワンジャンとボルコン=フィヤングがブジャンタイを護送していたのでヒンニヤの企みは失敗している。
その後ウラはマンジュとイェへの両方と関係を結びんでいたが、ワルカ地方を巡りマンジュ国と対立を深め、1607年にウラがワルカ地方のフィオ城を攻めている時にヌルハチの軍と烏碣巌(うけつがん)で衝突。結果ヌルハチが大勝し、和睦するもその後ウラはイェへと接近したためにヌルハチは再度出征し、1613年にウラを滅ぼす。
こうしてヌルハチはイェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れた。
ヌルハチの政権
海西女真族を吸収しつつ勢いに乗るヌルハチは1603年に居城を興京老城(ヘトゥ=アラ)に移していた。1606年にはモンゴルのハルハ5部はヌルハチにスレ=クンドゥレン(恭敬なるという意味)=ハンの称号を送り、マンジュ国王として承認した。
女真族は北方民族ではあるが、農耕を主体とした民族であった。しかし北原の土地は痩せており、その為、安定した生活を得るという目的が常にヌルハチの戦争にはあった。そのため、ヌルハチが最も欲しがったのは、肥沃な華北の大地、すなわち明の領土である。
ここまできて流石にヌルハチを無視できなくなった明政府は、女真族で唯一残ったイェへを支援し、ヌルハチを圧迫した。ヌルハチも女真族統合のために大国明との戦いを覚悟し、イェへを除く女真族のベイレらからスレ=ゲンギェン(英明なるという意味)=ハンの称号を送られてハン位についた。ここにおいてヌルハチは後のアイシン国(後金)の原型になる政権を築いていく。
マンジュ国建国の際は同一部族での権力闘争の性格があったが、それ以降の戦争は独立勢力の統合という覇権闘争であった。ヌルハチは統治力を高めるために、モンゴル文字を基に女真文字を開発させ、更に侵略した国の人民を自分の支配地に連れてこさせる徙民(しみん)政策をとった。そのためマンジュ国成立以降のヌルハチ政権は多民族国家としての特色が強く、それを端的に示すのが八旗制である。
八旗制
八旗制とはヌルハチが他民族の統合と、それぞれの伝統の保存を両立しながら勢力を拡大するために用いた軍事制度である。ヌルハチは軍団を鑲黄・正黄・正白・鑲白・正紅・鑲紅・正藍・鑲藍の8つのグサ(旗の意)に分け統轄した。
当初のグサは、成人男子300人で1ニル。5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサで編成されていた。この八旗は時代を経て数や人種を増やしていき、二代皇帝ホンタイジの治世で八旗蒙古、八旗漢軍などというものもできた。八旗には様々な特権が与えられ、民間人とは明確に区別されていた。各旗は独立勢力として存在し、旗人はその旗王の命令のみを聞くという独特な社会制度であった。
アイシンの身分制度
ヌルハチの国の身分制度は次世代のホンタイジの政治にも関わってくるため、ここでちょっと説明する。
石橋秀雄氏によると当時の女真族の社会には3つの基本的な位置づけがあった。
- 国(グルン)における君主と国民の関係を示す、君主(ハン)と臣民(イルゲン)
- 部族(氏族)における族長と構成員の主従関係を示す、主(ベイレ)、大臣(アンバン)、民(ジュシェン)
- 家(ボー)における主僕の関係を示す、主(エジェン)と奴・僕(アハ)の関係
この中で三つ目のボーにおけるエジェンとアハの関係がもっとも厳格とされていた。そしてこれらは更に全体として
君主(ハン)ー 王(ベイレ) ー 大臣(アンバン) ー 臣民(イルゲン)・民(ジュシェン)
という関係があった。こう見るとハンであるヌルハチは、旗の王であるベイレの上にあるように思えるが、実際はハンはベイレの代表者というニュアンスが強く、専制的な力はもっていなかった。ハンが独占権力を持つようになるのはヌルハチ以後のことになる。
ヌルハチの後継者
ヌルハチの後継者は誰になるのかというのは後金にとって重要な問題であった。中国のように皇太子システムは存在しないし、長子相続なんて伝統も当然ない。当初は長男のチェエンを後継者に指名していたのだが、チェエンが増長したためヌルハチはこれを廃嫡した。その後、後継者候補に上ったのは、次男ダイシャン、甥のアミン、5男マングルタイ、そして8男のホンタイジであった。ヌルハチは1616年に即位した当初、国政の最高機関として四大ベイレ(ホショ=ベイレ)制をとり、この時の四大ベイレが上記の四人だったのである。この中で頭一つ抜けていたのは次男のダイシャンであった。部下からの信頼も厚く、また明との戦いの中で得た軍功も十分であった。
しかし、ダイシャンはヌルハチの妻グンタイ、つまり義理の母と貫通した疑惑をもたれ、また別の男女の縺れから息子を殺害しようとした事件が起きてダイシャンも廃嫡されてしまった。ヌルハチはこの時同時に、四大ベイレを8人に拡大し、上に述べたダイシャンを除く3人の他に、10男デゲレイ、甥ジルガラン、孫のヨト、14男ドルゴン、15男ドドを後継者候補に加え入れた。
後金のハン位は中国の皇帝のような専制君主ではなく、合議制の議長のようなポジションで絶対的権力は存在しなかったが、それでもヌルハチの後継者を巡る政争は数々起こった。
明との対立
時を遡って1556年、度重なる戦乱に財政が危機に陥った明朝は鉱税と呼ばれる鉱物に対する税を発布した。この鉱税は極めて評判が悪く、反対意見も多かったが皇帝が意を通す形になった。こうして明は鉱税太鑑と呼ばれる宦官を各地に派遣したのだが、この時、ヌルハチに接する遼東地方に来たのは万暦帝の寵愛を受けて専横を極めていた、悪徳宦官の高淮であった。高淮は鉱税を管理するだけでなく、ヌルハチら遼東人の生命線ともいえる人参貿易にまで介入し、買い占めを行い利ざやを稼いだ上でヌルハチには料金を支払わなかった。元々遼東人と明人の絶妙なパワーバランスの上で成り立っていた貿易であるが、これにより遼東人の高淮への憎悪は増大した。
また高淮は遼東の軍事にまで手を出して、反対する者を次々と遼東から追放した。遼東巡撫の李植は1599年に高淮排除のために起きた反乱の責任を押し付けられ追放されてしまう。遼東の総兵官、馬林も1601年に高淮の弾劾を受けて失脚。その後遼東巡撫にはヌルハチとも因縁のある李成梁が就く事になったが、往年の名将ぶりはとうの昔であり、彼は既に老人になっていて緊張高まる遼東のまとめ役としてはあまりに不適格であった。巡撫には趙緝(ちょうしゅう)という将軍がつき、彼は高淮におもねることは無かったが、李成梁と高淮の仲が密であったため、李成梁との連携が不可欠な趙緝は高淮に表だって対立することはできなかった。
1600年代に入ると、明と後金の対立はますます深まって行く。遼東の貿易の主な商品は貂皮と人参であり、その頃のヌルハチは貂皮と人参を明に高く売りつけようと圧力を加え続けていた。また1606年には明に対して車価の値上げを要求して朝貢を停止している。車価とは朝貢の車代の名目で支払われる銀のことである。
それに加えて明と後金の領土問題も深刻化をたどって行った。特に問題となったのは鴨緑江の北に広がる丘陵地域であった。この場所は16世紀から、混乱を避けた明人が入植しており、時に後金の領土にまで入って来ていた。当初は自国内の混乱を治めるのに躍起になっていたヌルハチであるが、それが安定するにつれでこの地域に焦点が当てられるようになったのである。明は何継祖と呼ばれる役人を派遣して、後金と妥協を図る。結局、明が毎年銀600両を支払うことによって入植を黙認するということになった。
しかし総兵官の李成梁と巡撫の趙緝はこの地域が後の紛争の火種になると考えて、1603年から5年の間に、入植者を強制移住させる計画を実行に移した。李成梁は娘婿の韓宗功に数千の兵を与えて、住民の家を焼き払い無理矢理に明の領内に連れてこさせた。この時、多くの人民が餓死や溺死により命を落としたとされる。この事件は棄地啗虜と呼ばれ、当初は李成梁は自分たちが連行したのは逃亡兵だと朝廷に偽ったが、後にバレて李成梁は失脚に追い込まれている。
李成梁の失脚及び、度重なる反乱の責任を問われた高淮が遼東からいなくなると、さすがの明朝も後金を脅威に感じ始めるようになり、今まで支援していたハダの代わりにイェへを支持してマンジュの孤立を図った。ヌルハチも明の変化を敏感に察知して車価の値上げの撤回をするなど妥協政策に転換するが、領土問題を巡る争いは止まることはなく、明との全面衝突に突入していく。
サルフの戦い
1616年に後金(アイシン)の国号を宣言し八旗を整備したヌルハチは1618年、七大恨を発し明と本格的な戦争に突入する。七大恨の内容は、
- 理由もなくわが父や祖父を殺した事
- 互いに国境を超えないという約束を破った事
- 約束を破った越境者を処刑した報復に、我が国の使者を殺し威嚇した事
- 我が国とイェへ部族の娘との結婚をさまたげ、その娘をモンゴルに与えた事
- 国境近くでわが女真族がつくった穀物を穫らせず、追い払った事
- 悪辣なイェへ部族を信用して、われらを侮辱したこと
- 天の公平な裁きに背き、悪を善、善を悪として不公平をおかした事
以上を見ると、2、3、5のように領土的、経済的な要因も含まれており、ヌルハチが安定した経済基盤確保に強い興味を持っていた事が伺える。ヌルハチの軍事目的の一つには、常に豊かな農耕地を確保することにより、経済基盤を安定させることが入っていたことは押さえておきたい。
同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始める。李永芳が守る撫順城を攻め、これを降伏させ、同日に東州、馬根丹の二城と望楼の類い五百を陥落させる。5月には撫安、花豹衝、三岔児(サンチャル)などの11城を落とし、7月には要所の清河城を脅かした。明は名将楊鎬、李成梁の息子の李如柏、対日戦で軍功をあげた劉綎を起用して防戦に挑ませるも間に合わず、清河城は陥落。これにより遼東全体がヌルハチの侵略の射程に入った。
1619年、明は本腰を入れてヌルハチ討伐に挑む。総大将に楊鎬を置き、軍を杜松軍3万、馬林軍1万5千、李如柏軍2万5千、劉綎軍1万の4つに分けてヌルハチの居城である興京老城(ヘトゥ=アラ)に侵攻させた。数の上では優勢であった明であるが、軍の連携が乏しく速度に勝るヌルハチに各個撃破され大敗を喫する。後金の趨勢を決定づけたこの戦いをサルフの戦いと呼ぶ。明に大勝したヌルハチは長年の宿敵イェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した。25歳で挙兵してから36年。ヌルハチは既に還暦を超えていた。しかしヌルハチの前進は止まらない。
遼東を巡る戦い
サルフの戦いの後に1619年、楊鎬に変わって遼東経略に着任したのは熊廷弼であった。熊廷弼は棄地啗虜事件の調査を行っていた経験もあって遼東には詳しい人物であったが、その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、熊廷弼はあえて守勢に回り軍備を整える方針をとった。この方針はそれなりに効果を発揮したのだが、中央政府の目からは消極策に写り、熊廷弼は更迭。後任には袁応泰が就いた。袁応泰は当時飢饉に苦しんでいたモンゴル人を収容するなどして兵の数を増やし、撫順と清河を奪い返す計画を立てたが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲した。
1620年にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽城をあっという間に陥落せしめる。大砲と銃で守られていた城をこれだけ素早く攻略できた裏には、城主の賀世賢に不満を持っていたモンゴル人が後金に内応して中から城を開いてしまったからと言われている。袁応泰は瀋陽に援軍を送りヌルハチの甥ヤバハイを討ち取るなど後金軍を苦戦させるが、結局敗北。袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固めるも、後金の追撃に遭い城は陥落。袁応泰も戦死した。城を得たその日のうちにヌルハチは遼陽への遷都を決定し、幹部達の反対を押さえてこれを決行した。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この二つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残した。
一方で、瀋陽と遼陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任が強く推されるようになった。朝廷に召還された熊廷弼は三方布置策という遼陽奪還策を提言した。三方布置策とは広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて敵を引きつけ、天津と山頭半島の登州・莱州(らいしゅう)に水軍を設け、隙をついて遼東半島を攻撃する。そうすれば後金は本拠地が気になり兵力が分散され、その間隙を縫って遼陽を回復するという作戦である。時の皇帝、天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略に起用する。
しかし、熊廷弼の戦略は彼が思うようには進んでいかなかった。一番の原因になったのは遼東巡撫の王化貞との不和であった。熊廷弼は王化貞と意見が衝突することが多く、その為、彼が自由に動かせる兵の数も大幅に制限されてしまった。その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も王化貞配下の毛文竜が後金から鎮江を奪還してしまった(鎮江の戦い)ことにより、逆に計画は破綻する。この勝利によって三方布置策のような慎重策は嫌われ中央政府の評価が王化貞に傾いてしまったのである。元々熊廷弼に対する反感は強く、これ以後遼東の実権は王化貞がとることになった。しかしこの王化貞は兵を操る才能が乏しく、後金には連戦連敗。重要拠点の一つである広寧を奪われ海西関まで敗走し、後にこの責任を問われて1632年に死刑に処されている。また熊廷弼は同じく責任を問われ王化貞に先んじて1625年に死刑になった。
その頃ヌルハチの敵には明の他に、モンゴルがあった。アイシン国は南に領土を広げることにより、元王朝の血を引き継ぎ明から歳幣(援助)を受けて内モンゴルの統合を進めていたチャハル部のリンダン=ハンとの戦いも余儀なくされる。また毛文竜のゲリラ攻撃にも苦しめられ、一方でヌルハチ領内の漢人が毛文竜の調略に応じてしまったため、文化的な軋轢もありヌルハチはこの頃から漢人融和から漢人弾圧に方針を転換している。
ヌルハチは1626年の寧遠城(ねいおんじょう)の戦いの後に死亡する。一説には明軍が用いたポルトガル大砲で負傷しそれがもとで亡くなったとされる。
ヌルハチの死後は、子のホンタイジが後を継いた。ホンタイジがハン位を得た決め手は不明瞭だが、一説にはハンの権力をこれ以上高めないよう、相続順位が低めのホンタイジが選ばれたと言われている。またこの時、ヌルハチはドルゴンとドドの母のアバハイに殉死を命じている。
ヌルハチ色々
年表
西暦 | 事項 | 年 | 関連事項 |
1559 | ヌルハチ誕生。 | 1 | |
1567 | 生母と死別。 | 10 | |
1577 | 分家する。 | 19 | 信長右大臣 |
1580 | 長男チュエン誕生。 | 22 | |
1581 | 次男ダイシャン誕生。 | 23 | |
1582 | 24 | 本能寺の変 | |
1583 | 祖父ギオチャンガ、父タクシがグレ城に死亡。ヌルハチ挙兵。 | 25 | 秀吉大坂城築城 |
1585 | ジュチェン部を攻撃。 | 27 | |
1586 | 仇敵ニカン=ワイランを討つ。 | 28 | |
1587 | 興京旧老城(フェ=アラ)を築く。 | 29 | |
1588 | ドンゴ部のホホリ来投。ワンギャ部のダイドメルゲンを殺す。ハダ、イェへから妻を娶る。 | 30 | |
1589 | 明より都督僉事に任ぜられる。 | 31 | |
1592 | 34 | 文禄の役 | |
1593 | グレの戦いで九カ国連合軍を破る。 | 35 | |
1595 | 明より竜虎将軍に任じられる。 | 37 | |
1596 | 朝鮮の使者、申忠一がフェ=アラに訪問。 | 38 | |
1597 | 39 | 慶長の役 | |
1599 | ハダ部を滅ぼす。 | 41 | |
1601 | ウラ部より妻を娶る。 | 43 | |
1602 | 明より入植地問題に関して撫賞金をもらう。 | 44 | |
1603 | 興京老城(ヘトゥ=アラ)に遷都する。 | 45 | |
1605 | 47 | 棄地啗虜 | |
1607 | ウカルガンの戦い。ホイファ部を滅ぼす。 | 49 | |
1608 | 50 | ||
1609 | 弟のシュルハチを幽閉する。 | 51 | |
1613 | ウラ部を滅ぼす。 | 55 | ロマノフ朝成立 |
1615 | 57 | 大坂夏の陣 | |
1616 | ハン位につく。 | 58 | |
1618 | 七大恨を天に捧げ、明との全面衝突に挑む。撫順城を攻め落とす。 | 60 | |
1619 | サルフの戦い。開原・鉄嶺城を攻め落とす。ジャイフィアン城に遷都。イェへ部を滅ぼす。後金を建国。 | 61 | |
1620 | サルフ城に遷都。 | 62 | |
1621 | 遼陽城を攻め落とす。遼陽城に遷都。 | 63 | |
1622 | 広寧城を攻め落とす。東京城に遷都。 | 64 | |
1625 | 瀋陽城に遷都 | 67 | |
1626 | 寧遠城を侵攻中、重傷を負い死亡。ホンタイジ即位。 | 68 |
都の移り変わり
関連項目
- 歴史
- 中国の歴史
- 中国史の人物一覧
- 清王朝
- ホンタイジ
- 豊臣秀吉
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、大陸側では壬辰・丁酉倭乱)はヌルハチの戦いに少なからずの影響を与えた。サルフの戦いに参加した劉綎は加藤清正や小西行長と戦った経験もあり、またサルフの戦いに援軍を出した李朝軍には、降倭(朝鮮に下った雑賀衆などの兵)も従軍していたとされる。
- 初代ヌルハチによる建州女真の統一(マンジュ国の建国)
- 初代ヌルハチによる女真族の統一(アイシン国、後金の建国) ←いまここ
- 二代目ホンタイジによる皇帝即位(清王朝の成立)
- 三代目順治帝による北京入城(このちょっと前に明滅亡)
- 四代目康煕帝による中国統一
- 五代目雍正帝、六代目乾隆帝による領土拡大
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