概要
幼少期はアマチュアドラマーとして活躍。高校生のときにスカウトを受け、父親の反対を振り切って家出同然で上京。芸能事務所「芸映」に所属が決まり、デビューを待つ日が続いた。
ちなみに、当初はプロドラマーとしての活躍を夢見ていたが、テレビから聞こえた尾崎紀世彦の「また逢う日まで」で歌への意欲を大きく刺激されたという。
1972年3月、シングル「恋する季節」でデビュー。以後、絶唱と形容されるパワフルな歌唱、ときに軽量マイクスタンドなどを使ったアクションなど、当時は異色と言われた、全身で全力ぶりを表現するスタイルで人気を集める。
1973、74年と、ポピュラー系の歌手として初めて、2年連続で日本レコード大賞歌唱賞の受賞など、名実共にトップ級のアイドルだった。
1979年、シングル「YOUNG MAN」リリース時には、ゲイでもいいじゃないという原曲の隠しメッセージを青春賛歌へ書き換え、アクションも、観客も一体となって参加しやすいように工夫され、ディスコミュージックのブームとも重なり、自身のシングルでは最高セールスを記録した。
一方で、デビュー直後から浅田美代子を街頭でスカウト、ヒデキの弟分妹分募集オーディションを開催、オーディション決勝には審査員として顔を出すなど、後進発掘も積極的に行っていた。
1983年に芸映から円満独立後は、「ギャランドゥ」に代表されるような、ロック系の曲で絶唱が活かされるようになる。
1999年には、「∀ガンダム」前期オープニング主題歌「ターンAターン」を歌ったことでも話題を呼ぶ。作曲者である小林亜星と、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」で親子役を演じていた縁から声がかかったものである。
独立と前後して、1980年代から香港で公式にコンサートを行うなど、人気はアジア圏へ拡大。ジャッキー・チェンとならぶ2大スターとも称されている。
2003年、韓国での公演直前に脳梗塞を発症。公演中止こそしなかったが、すぐに帰国して入院。リハビリの結果、1ヶ月で会見できるまでは回復したが、声帯神経にダメージが残り、構音障害を発症。しかし、損傷した神経の周囲を鍛えるトレーニングに取り組み、2006年には3年ぶりに新作CDをリリースした。
2018年5月16日、横浜市内の病院にて心不全の為死去、享年63歳。
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