Fw200とは、ドイツの四発航空機である。別名コンドル。元々は旅客機だったが、第二次世界大戦勃発後は軍用機に改造。イギリス船団にとって非常に大きな脅威となり、「大西洋の疫病神」とまで言われた。
概要
1936年に登場したアメリカのダグラスDC-3により、旅客機の市場が脅かされたドイツは次世代の長距離旅客機の開発を迫られた。これを受けてフォッケウルフ社はクルト・タンク技師に新型機の設計を命じ、1936年6月に仕様を発表。ルフトハンザ航空向けに10機のFw200を試作した。BMW132Gエンジンを4基搭載した大型機で、独力で大西洋を渡る航続距離(3000km以上)と25名の乗客を運ぶ能力を持っていた。
3000mの高度で飛行できたが、これは既存の旅客機では考えられないくらいの高度だった。
試作機は1937年7月27日に初飛行し、優秀な性能を示す。10月20日、イタリアのミラノ市で開催された第二回国際航空機展覧会で初お披露目された。更に1938年8月10日、ベルリンからニューヨークへ24時間56分の無着陸飛行を行い、帰路は19時間47分でベルリンに到着するという記録を打ち立てた。当時のルフトハンザ航空は水上機を使っており、無着陸飛行の達成はまさに革新的だった。またFw200は日本にも来訪しており、ベルリンからバスラ、カラチ、ハノイの三ヶ所を経由して立川飛行場に到着。飛行時間は46時間20分52秒だった。まさに旅客機としては画期的な性能で、試作三号機はヒトラー総統の専用機になったほど。1938年12月3日の東京日日新聞にも取り上げられた。Fw200の性能を目の当たりにした日本陸軍は5機の注文を行ったが、こちらは頓挫している。一方、日本海軍はFw200の爆撃機仕様を求め、フォッケウルフ社は派生機のV10を開発。しかし売却前に第二次世界大戦が勃発したため、ドイツで運用。大日本航空も発注していたが、同様の理由で届かなかった。
1939年、ドイツ外相リッベントロップを2回モスクワへ運び、独ソ不可侵条約を締結。政府要人の足として活躍したが、ドイツ空軍は当初Fw200に関心を示さなかった。
軍用機として
ルフトハンザ航空に試作機10機を納品したところで第二次世界大戦が勃発。戦争により、ドイツ空軍に長距離爆撃が出来る機が無い事を痛感させる。急場を凌ぐため、空軍省はユンカースJu52やドルニエDo17といった民間機を徴用すると同時にFw200の軍用型を開発するようフォッケウルフ社に命令。さっそく軍用機版となるC型の設計が行われた。客室には増槽5基や潤滑油タンクを積載し、主翼内にも左右8個の燃料タンクを増設。武装として250kg爆弾5発と機銃を装備させた。
C型は空軍に採用され、1939年11月より北海の哨戒や偵察に投入された。最初期はドイツ空軍ではなく、ルフトハンザ航空のパイロットが操縦していたという。Uボートの獲物になりそうな船団を捜索し、発見するとUボートに通報して呼び寄せた。フランスが降伏した1940年6月からは大西洋に進出。Fw200自身も1000kg爆弾が搭載可能なので往来するイギリス船舶を攻撃。搭載された爆撃照準器が優秀で、かつ爆撃は低空から行われたため高い命中率を発揮。1940年8月から1941年2月にかけて85隻(3万6000トン)を撃沈する戦果を挙げ、イギリス船団を恐怖させた。長い航続距離を活かし、フランスからイギリスを迂回してノルウェー近海にも出現。チャーチル首相から「大西洋の疫病神」と言われるほど甚大な被害を与えた。このため、チャーチル首相はUボートとFw200を最優先攻撃目標にしたと伝わる。
1941年1月7日、ヒトラー総統はボルドーに駐留していたFw200の一隊を空軍の指揮下から外し、Bdu(Uボート司令部)の指揮下に置いた。これによりデーニッツ提督率いるUボート戦隊は一握りのFw200を入手し、通商破壊の勢いが増した。さっそく2月初旬、U-37の要請を受けたFw200が5隻の輸送船を撃沈。U-37と合わせて8隻を撃沈して殲滅。後詰めの重巡アドミラル・ヒッパーが到着した頃には沈没寸前の敵船1隻しか残っていなかった。しかしこの指揮権委譲はゲーリング空将の休暇中に行われたもので、けちんぼなゲーリング空将は2月7日にデーニッツ提督のもとを訪れ、Fw200を返すよう求めている。だがデーニッツ提督は丁寧に断り、両者の関係は冷め切った。またFw200のパイロットは海上哨戒に不慣れで、位置情報が誤っていた事もよく発生した。ちなみにデンマークがドイツの軍門に下った時、イギリスにあったFw200(デンマーク所有)が鹵獲されている。高性能に目を付けたのか、敵国であるはずのイギリスも旅客機に使っている。ただ1941年に修復不能の損傷を負った模様。
非常に有用な航空機だったが量産が遅々として進まず、1941年夏までに実戦配備されたのは僅か30機前後だった。1941年8月14日には護衛空母の餌食になったFw200が現れ、ここから苦しい戦いが始まる。敵に護衛空母やCAM(カタパルト武装商船)が出現した事でFw200の被害が急増。元々民間機だけあって防御性能が低く、戦闘機に撃墜されまくった。激しい回避運動を行ったがゆえに機体が折れて墜落するケースも多々発生。損傷したFw200が親独のスペインに逃げ込み、修理を受けた事もあった。やむなく活躍の場を地中海や北海に移したが、1941年半ばに敵船への攻撃が禁じられた。
1943年からは輸送機として東部戦線で運用され、スターリングラードの戦いで孤立した第6軍に補給物資を投下している。またヘンシェルHs293誘導ミサイルを搭載できる能力を持っていた事から、無線誘導装置を搭載したC-6型が登場。12月28日に実戦投入されイギリス艦艇の攻撃に向かったが、サンダーランド飛行艇に撃墜されるほど弱かった。1944年に生産が終了。フランスが奪還されると大西洋に面した港も失う事になり、海上哨戒が不可能となってしまう。ヒトラー総統専用機も、1944年7月18日の空襲で破壊されてしまっている。最後の飛行は1945年4月14日で、スペインのバルセロナからベルリンに向けて飛行している。終戦までに276機が量産された。
戦争が終わるとFw200も旅客機に戻り、ブラジルとソ連で運用。性能の高さは戦後になっても色あせなかった。戦争中に4機のFw200を抑留したスペインでも運用され、そのうち1機は空軍機になった。
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関連項目
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