コリン(競走馬) 単語

コリン

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リン(Colin)とは、1905年生まれのアメリカ競走馬

ベルモントSなどを含む15戦敗の成績を残し、アメリカ競馬トップホース記録としては現在もなお破られていない生涯記録を打ち立てた名ブラッドホース誌選定「20世紀のアメリカ名馬100選」では第15位。

概要

CommandoPastorellaSpringfieldという血統。
コマンドベルモントSを勝つなど活躍したが、本が生まれた1905年の3月に怪をした患部から入った細菌のため破傷って7歳の若さ世し、産駒は本を含めて27頭しか残せなかった。
パストレライギリスで走りステークス競走を2勝した。牝系現在でも残っており、ロストインザフォグ日本サマーチャンピオンを勝ったエーシンウェズンなどが子孫である。
スプリングフィールドイギリスで短距離戦を中心に走り19戦17勝。

ケンタッキー州キャッスルトンファームで生産され、コマンドやそのドミノと同じく同牧場の代表であるジェームズキーンという投資の所有馬となり、その専属でコマンドなども手掛けていたサー・ジェームズロウ師に預けられた。名はロウ師のファミリーネームから連想し、イギリス詩人であるニコラス・ロウの作品「Poor Colin」から取られた。

は脚部不安を抱えていたが、ロウ師の献身的な世話が上手く働き、何とかコンスタント競馬に使えるぐらいの状態は維持することができた。

競走成績

2歳5月に23頭立てのメイドン(未勝利戦)を勝利してデビュー勝ちを飾ると、中2日でナショナルスタリオンS(5ハロン)をレコード勝ちした。中3日のエクリプスS(5.5ハロン)では悪に加え2歳ながら125ポンド(約56.7kg)を背負うという悪条件の競馬となったが、何とかアタマ差で勝利した。

ソエのために約3週間の間隔を開けて出走したグレートトライアルS(6ハロン)では129ポンド(約58.5kg)を背負わされたが2身差で快勝した。翌ブライトンジュニアS(6ハロン)も勝利し、2週間後のサラトガスペシャルS(6ハロン)では咳に悩まされたが1身差で勝利した。咳は幸いすぐに治癒し、中3日で出走したグランドユニオンホテルS(6ハロン)はなりで快勝した。

当時のアメリカを代表する2歳戦であるベルモントフューチュリティS(6ハロン)では当然と言うべきか大本命とされ、その期待に応え1:11.2のレースレコード勝利した。続けてフラットブッシュS(7ハロン)、ブライトンプロデュースS(6ハロン)、メイトロンS[1](6ハロン)をいずれも楽勝した。
2歳シーズン終戦シャンペンS(7ハロン)はトップホースであるスタミナというとの2頭立てとなったが、コリンが1:23.0という全レコード叩き出してこれに6身差をつけ圧勝し、2歳シーズンは12戦敗となった。

ここまで戦を務めたウォルターミラー騎手が減量苦に苛まれるようになってしまったため、3歳時は新たにジョー・ノッター騎手戦となった。まずは三冠競走が確立していなかったこの頃の要競走の一つであったウィザーズS(1マイル)に出走し、2身差で勝利した。

続くレースベルモントS(当時11ハロン)の予定だったが、レース3日前に両前脚を負傷した。引退すら囁かれるほどであったが、状態を検討した上で馬主キーンの意向により出走に踏み切った。
レースは大豪雨のため不良馬場となり、タイムが計測不能になるほどの濃霧も出るという非常に過酷な環境となった。ここまで1マイルまでしか走っていない本であったが、調教で10ハロンケンタッキーダービーの当時のレースレコード以上のタイムで走っていた経験があったことから、そこまで懸案すべきことでもなさそうであった。
スタートするとコリン先手を取って逃げ、そのまま直線では後続を引き離した。ノッター騎手濃霧ゴールを誤認し、ゴール前では前走でも2着に破ったフェアプレイにアタマ差まで詰め寄られるも、抜かせずに勝ちきった。

この2週間後、ニューヨーク州で賭博禁止法が成立し、その翌週のタイダルS(10ハロン)は馬券発売を行わないエキシビジョンレースとなった。ここでは後にトラヴァーズSを勝つドランテを2身差の2着に破って勝利した。その後賭博禁止法の余波を考慮してイギリスに送られ、サムダーリン厩舎に移ったが、4歳時に非公式戦で1勝したのみで脚の怪が悪化し引退となった。

通算成績は15戦15勝。その中にはベルモントフューチュリティS、シャンペンS、ウィザーズS、ベルモントSといった当時のレースも含まれている。敗を維持してなお、最初の戦であったミラー騎手に「スイッチが入ってからの加速は素だったが、駄なところで全を出させたくなかった」(大意)と言わしめたほど底の知れない実の持ちであった。
生涯記録という観点だけで言えば、21世紀に入ってペッパープライドが19戦19勝、ラピッドリダックスが22戦22勝を記録してはいるが、両は下級条件戦戦場としていたである。コリンのように現代で言うところのGI並の大レースを勝った上での生涯敗となると、コリンの次にはパーソナルエンスン(13戦13勝)が現れるまで実に80年を待たなければならなかった。

種牡馬として

引退した本イギリス種牡馬入りしたが、受胎率の悪さも相まって成功を収めることが出来ず、1913年に馬主キーンが死去すると3万ドルで購入されてアメリカに戻ってきた。しかし受胎率の悪さは善せず、種牡馬としての評価は生涯を通じてあまり上がらなかった。

特筆すべきは23年間の種牡馬生活で残した産駒が僅かに81頭でありながら、そのうち11頭がステークスウィナーになるという好成績を収めたことである。産駒数の少なさもあり当時でこそ立たなかったものの、現代におけるコマンド系は本ラインだけが残っており、ネディーというラインからプリークネスS勝ちアルサブエクリプス賞初代年度代表馬アックアック日本でも著名な大種牡馬ロードブラッシュ(*ブロードアピールなどの)と繋がる系統が流となっている。

1932年に27歳で死亡し、その後1956年アメリカ競馬殿堂入りを果たしている。
コマンドを筆頭に数多くの顕彰馬を手掛け、本に3年先立って亡くなったロウ師の墓碑には、彼の生前の意向により、この一言だけが刻まれている。

He trained Colin.

血統表

Commando
1898 鹿毛
Domino
1891 黒鹿毛
Himyar Alarm
Hira
Mannie Gray Enquirer
Lizzie G.
Emma C.
1892 黒鹿毛
Darebin The Peer
Lurline
Guenn Flood
Glendew
Pastorella
1892 栗毛
FNo.19-b
Springfield
1873 鹿毛
St. Albans Stockwell
Bribery
Viridis Marsyas
Maid of Palmyra
Griselda
1878 芦毛
Strathconan Newminster
Souvenir
Perseverence Voltigeur
Spinster

クロス:アウトブリード

関連コミュニティ

関連項目

脚注

  1. *メイトロンSは現在限定GIIIだが、1902~10年および1914年(1911~13年は開催休止)は限定戦と限定戦に分割されて施行されていた。
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