チトー(Тито)とは、20世紀の東欧に存在したユーゴスラビア社会主義連邦共和国の第2代大統領。1953年の就任から1980年の死去まで大統領の地位にあり続けた独裁者であり、その政治力でユーゴスラビアをひとつの国として纏め上げたカリスマでもあった。
本名はヨシップ・ブロズ。「ヨシップ・ブロズ・チトー」と表記されたり、「ティトー」と表記されたりもするが、この記事ではすべて「チトー」で統一する。
現在のクロアチア出身。生まれた当時はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった(帝国は1918年に崩壊)ため、第一次世界大戦を帝国軍に徴兵されて従軍、その従軍先のロシアですったもんだした末に、共産党に入って社会主義の活動家となる。戦後、ユーゴスラビア王国となった祖国に帰るとそこで共産党を結成した。「チトー」という偽名を名乗ったのもこの頃からで(「チトー」とは「君はあれを」という、とても適当な意味)、本名を名乗ることができない状況下であったためという。
第二次世界大戦において、ユーゴスラビア王国はドイツと同盟を結ぶが、クーデターにより親独政権が転覆、結果として枢軸国側に侵攻を受けることになる。この時、反枢軸国の抵抗組織がいくつか結成されるが、その中のひとつ「パルチザン」のリーダーとなったのがチトーであった。パルチザンはドイツ軍や対立勢力と戦いながら、それぞれの勢力を追い払うことに成功、その後新たな共産主義政権を樹立させた。
この戦時中、ユーゴスラビアパルチザンは他の東欧共産主義組織と違ってソビエト連邦から支援を受けず、というかソビエト側がほとんど支援しなかったので、ほぼ独力で戦わざるを得なかったという経緯があり、後にソビエトおよびスターリンに対する不信感につながっていく。
チトーはユーゴスラビア連邦人民共和国(1962年改称)成立後、その初代首相と国防相に就任し、1953年には大統領も兼任するようになる。1963年には終身大統領に就任すると宣言し、強固な独裁体制を築き上げた。
元々ユーゴスラビアという共同体の歴史は浅く、第一次世界大戦の頃にバルカン半島西部のセルビア人やクロアチア人、スロベニア人といった少数民族が、オーストリア=ハンガリー帝国の支配に抵抗するために、オスマントルコ帝国の引き上げた地域に組織した多民族国家であった。しかし結束したはいいものの、結束の中心を標榜するセルビア人と他民族とで早速いざこざが起き、常より民族虐殺が起きる不安定な有様であった。まさに「世界の火薬庫」と称されたバルカン半島を体現したような国であった。
チトーは社会主義体制と共産党一党独裁で、このいつ分裂してもおかしくないような爆弾の寄せ集めを「ひとつの国」として纏め上げることに全ての力を注ぎ込んだ人物であった。社会主義国家にありながらも言論の自由はある程度認める(チトー批判すら許される)一方で、民族主義には秘密警察を使って徹底的に排除し、ひたすら民族間の宥和に努めていた。秘密警察による弾圧というと非常にイメージが悪いが、チトーの場合は他の独裁者のそれに比べて悪く評価されることが少ない(悪く言うのは、せいぜいセルビアの民族主義者くらいか)。
また東欧に誕生した社会主義国家のほとんどはソビエト連邦の影響下にある「衛星国」であったが、チトーはその影響力を払拭し、独自の社会主義体制確立と、東西大国の干渉を受けない中立化を推し進めた。これを不服としたスターリンは刺客を送ったりクーデターを計画したりとチトーの排除に取り組むが、すべて秘密警察によって封殺され、逆にチトーがスターリンに対して「モスクワに刺客を送るぞ」と脅しをかけ、おそロシア相手に白旗を上げさせる快挙を成し遂げた。後のソ連書記長であるフルシチョフはスターリン批判を行ったことで知られるが、批判の目的のひとつには、スターリンと対立したユーゴスラビアとの関係改善を目していたという。
20世紀の独裁者の中でも唯一「カリスマ」扱いされるほどの人物であったが、それだけにその人物が抜けるとその穴も大きいものである。1980年にチトーが没すると、まずコソボ自治州で独立運動が始まり、民族間対立や所得格差による対立など、チトーが力づくで押さえつけてきたものが次第に表面化するようになってくる。それを再び押さえつけられる人材は、最後まで出てくることはなかった。
その後民族主義を主張する政党が各地で躍進し、1991年にクロアチアが独立を宣言し、泥沼のユーゴスラビア紛争を経て、ユーゴスラビアは2003年に世界地図からその名前が消えた。一方でチトーが国民に捨てさせようと腐心した差別感情は、今なお湧きあがり続けたままである。
掲示板
181 ななしのよっしん
2024/04/12(金) 21:29:20 ID: k5teE+1jey
なんというかあれですね。フランスでパリ・コミューンが政権掌握したら同じようなことが起きたんだろうなって思ってしまいますね。
結局社会主義の理想は理想通り実行に移せたとしても画餅でしかないってことがユーゴ経済の事例から明らかになっててそれは良い反面教師としての事例になったと思う。
結局資本家による経営を行いつつ、労働者保護もインセンティブを奪わない程度にやる社会民主主義がベターなんだっていう結論に達せられたことは大きいと思う
182 ななしのよっしん
2024/04/12(金) 21:30:27 ID: k5teE+1jey
間違えました社会民主主義ではなく民主社会主義です失礼しました
183 ななしのよっしん
2024/04/13(土) 01:34:07 ID: AuEfNNbJVh
70年前半までに自転車操業ながらも対外債務の返済のアテは
観光、運輸業と欧米に出稼ぎに行った労働者たちからの送金でやり繰りしていました。
しかし、73年のオイルショックの不況により観光、運輸は低迷。
出稼ぎ労働者たちが職を追われ順次帰国、これに国内の増える労働者の雇用の対応が結果的に負の遺産となりました。
さらに、貴重な対外債務の返済手段となっていた中東のインフラ建設も
技術不足と不況により失ってしまい、チトーさんの晩年は
経済システムの欠陥含めて泣きっ面に蜂なことになっていました。
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最終更新:2024/05/05(日) 13:00
最終更新:2024/05/05(日) 13:00
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