江川太郎左衛門とは
本記事では2を扱う。
享和元年(1801年)5月13日、伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英毅(ひでたけ)の次男として生まれる。豊臣秀吉の小田原攻めの際、徳川家康に臣従した地侍・江川英長を祖先に持つ。
通常代官は世襲制ではないが江川家は代々世襲を認められており、歴代当主は皆太郎左衛門を名乗っている。普通「江川太郎左衛門」という場合、英龍を指す場合が多いため、本記事では江川太郎左衛門=英龍とする。
文政4年(1821年)、長兄の英虎が死去したため嫡子になる。文政7年(1824年)、代官見習いになる。見習い時代に製鉄技術や蘭学に関心を持ち、刀鍛冶や蘭学者に師事する。また、父と交友関係のあった伊能忠敬や間宮林蔵の縁で測量について学び、専門家並の知識と技術を有した。
天保5年(1834年)、父の英毅が死去。翌天保6年(1835年)に韮山代官就任。
代官就任後、海外情勢と海防策についての建言を幕府に提出し幕閣の注目を集める。この時期、勘定吟味役の川路聖謨や渡辺崋山など当時の著名人と交流を持つ。
天保9年(1838年)、外国船の渡来が頻繁になったため、江戸湾防衛のための測量が行われることになった。江川は川路聖謨の推薦により副使に任命され、正使には老中首座・水野忠邦の命により目付・鳥居耀蔵が選ばれた。
蘭学を非常に嫌っていた鳥居は、蘭学に理解のある江川を憎んで測量作業者の身分が低いことを理由に言いがかりを付け、解雇を強要するという嫌がらせを行った。
更に、測量終了後江川が具体的な海防策を提出しようとしていた矢先に、鳥居の仕組んだデッチ上げ事件「蛮社の獄」が起こり、江川の作業に協力していた渡辺崋山が逮捕される。江川も連座しかけ、渡辺協力の元作成していた海防策「外国事情書」の提出を断念。大幅に内容を削った文書を提出せざるを得なくなった。江川は失意の内に江戸を離れ、故郷韮山に戻る。
韮山に戻った江川は、長崎で洋式砲術を教授している高島秋帆という人物の噂を聞き、配下の者を何人か長崎に送って高島の門人にした。戻ってきた者達から高島の優れた砲術を聞いた江川は、自らも高島の門人になりたいと思い立ち、長崎に赴いて師事する。
水野忠邦も高島の砲術を高く評価し、江戸への出府を命じた。天保12年(1841年)、江戸にやって来た高島は自身の砲術に基づいた軍事演習を行い、見物していた幕臣を驚かせた。だが幕府の和式砲術家達は自分達の地位が脅かされることを恐れ、「洋式砲術の方が優れてる?違うよ。全然違うよ」と非難。これに対し江川は蘭学者の鈴木春山の名を借りて反論した。
水野忠邦から高島への弟子入りを正式に許可された江川は、高島から砲術を学び免許皆伝を得る。江川と高島は互いに敬意を持つ良好な関係を築いた。
高島の軍事演習後、水野は洋式砲術を取り入れた軍制改革を構想し始めた。しかし、当時町奉行に就任していた鳥居耀蔵はこれに反発。高島を逮捕するため「謀反を企てている」という、蛮社の獄に続くデッチ上げの容疑をかけ、高島を捕縛する。江川は高島の無実を証明するために活動するが、願い叶わず高島は江戸に送還され投獄。江川は牢獄の高島に差し入れを頻繁に行って慰撫したといわれる。
なお鳥居については天保14年(1843年)に水野を裏切って機密文書を政敵である老中・土井利位に横流しし、水野は老中を罷免され天保の改革は頓挫。だが翌弘化元年(1844年)に水野が老中に復帰すると報復を受け町奉行を罷免。弘化2年(1845年)には禁固刑を受け、讃岐丸亀藩に預けられる。 その後明治6年(1873年)までしぶとく生き延びる。
高島から砲術免許皆伝を授かった江川は塾を開き、洋式兵学の教授や銃砲の製造に力を注ぐ。また、オランダ語で書かれた資料を翻訳して反射炉建造を実施するが、予算不足のため反射炉による鉄の製造は上手くいかなかった。だが、後に肥前佐賀藩の要請を受けて反射炉製造に協力し、佐賀藩は日本で始めて反射炉の建造に成功することになった。
その他特筆すべき事績として、天保11年(1840年)、二宮尊徳を韮山に招き、その意見を施策に採り入れる。天保13年(1842年)に高島の門人を韮山に呼び、携帯食として乾パンを製造させている。このため現在では「パン祖」と呼ばれ、江川にちなんだイベントが伊豆で行われている(関連リンク参照)。嘉永3年(1850年)には実子に種痘を行い、支配地の住民達にも種痘を奨励。その善政によって「世直し江川大明神」と讃えられた。
嘉永2年(1849年)閏4月、相模湾と下田に突然英国軍艦マリナー号が現れ、無断で測量を開始し始めた。下田に急行した江川は、マリナー号艦長のマセソン中佐に対して退去を勧告。この時江川は予てより行っていた地元農民への軍事教練の成果を見せようと、農兵を動員して相手を威圧し、見事退去させることに成功した。彼は事細かに訓練させることにより武門出でなくとも軍事行動が取れることを証明してみせたと言ってもいいだろう。
ちなみにこのとき地元農民を組織する際に協力した一人が武州多摩の佐藤彦五郎。つまり、新撰組副長である土方歳三の義兄にあたる人である。土方歳三も彼の影響をいくばくかでも受けていたかもしれない。
嘉永6年(1853年)6月、米国の艦隊来航に伴い江川は下田で警備についていたが、6月15日に幕府からすぐ江戸に来るように命じられて出府。勘定吟味役格に任命され、幕政参与を許される。
老中首座・阿部正弘から台場建造を命じられた江川はその建造に着手。翌年5月までに現在お台場として知られる地区に第一~第三までの台場を完成させる。
また、米国から土佐藩に戻っていた元漂流民の万次郎を通訳として召抱えることを建言し、これが認められ万次郎は出身地にちなんだ中浜という姓を与えられて江川の配下となった。
安政元年(1854年)、安政の大地震の津波によってロシア軍艦ディアナ号が沈没すると、プチャーチンらを帰国させるため、洋式帆船を建造を提案。これを実行に移し、日本人の船大工達に洋船の建築技術を習得させた。
その他、自身が地元で行っていた農兵制や海軍創設の実現、更に米国の制度を知り政治体制の改革を夢見ていたが、安政元年(1854年)12月、激務による過労で体調を崩した江川は寝たきりの状態になる。翌安政2年(1855年)1月16日、そのまま回復すること無く志半ばで永眠。享年55歳(満54歳)。阿部正弘は江川を勘定奉行に昇進させる予定であったと言う。
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最終更新:2025/12/10(水) 11:00
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