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潘濬単語

ハンシュン

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Pān jùn
潘濬
人名
承明
基本情報
出身地 荊州武陵寿
出生-死去 ?- 2392年)
最終職官 太常(
劉表劉備孫権
三国志の登場人物の一覧

「潘濬(はんしゅん)とは、後漢末から三時代にかけて、
劉表劉備孫権の三営に仕え、背信者の誹りを受けつつも、正史において

私利をめず国家のために尽くして大胆に事を行い、
(中略)
節操を貫き通し、大丈夫として最高の仕事を成し遂げた

陳寿に絶賛された武将・政治家である。

それぞれの営からも高く評価され、特に孫権からは丞相補となるほどに重用された。

劉表時代

20歳前後の時、高名な儒学者であった忠から学問を学びんだ。
後の「建安七子」の一人、王粲から

聡明な資質を持ち、人との対応は機敏で、その言葉は理論立っている。

と人物を評価され名を得た。

その後、劉表に招かれ、江夏の従事に任じられる。
江夏で横行していた汚職官吏を、法に照らし速やかに処罰し、官民を震撼させた。

後に、郷県の県に昇進しそこでの統治の評判も上々であった。

劉備時代と運命の分かれ道

劉備が荊州を治めると、その配下となる。
後に劉備が入すると、荊州に留められ、関羽の元で州の事務を担当した。
劉備からの信任は得ていたが、後述する『季臣賛』によれば、関羽には糜芳士仁らと同様に疎まれていた。

219年、呂蒙の侵攻により荊州は陥落する。関羽は殺され、荊州は孫権の手に堕ちた。

劉備配下の諸将は孫権に降ったが、潘濬は責任を強く感じたのか、自宅に引きこもり、、孫権の使者に対してもベッドに伏して泣くばかりで出頭を拒否した。そのため孫権は、潘濬をベッドに括り付けたまま自分の元に連行させ自ら説得にあたった。

孫権

古(いにしえ)の賢者には一度は、捕虜になりながらも、後に抜され名臣と成った者も多い。
方もそうは成ってくれないか?

と懇願し潘濬を心させた。

将潘濬はこうして誕生し、以後その才を存分に発揮する事になる。

呉将潘濬

その後潘濬は統治から戦闘まで幅広い活躍を見せる。

221年 夷陵の戦いの際、武陵の官吏樊伷が異民族と結託し、劉備に呼応して反乱を起こした。
潘濬は歩騭と共に、これを討伐。夷陵の戦いを側面から支える功績をあげる。

229年 孫権皇帝に即位すると、九卿の少府や太常を歴任し、陸遜と共に武に駐屯し荊州の統治に当たった。

231年 重臣の呂岱と共に、呂拠・朱績・鍾離牧といった後のを支える若い将軍達を率い、異民族「五谿蛮」の反乱討伐を行った。この戦いは4年の長きに渡るほど苦戦を強いられたが、数万の敵をるか捕虜にしたという。
潘濬はこういった戦の中でも、信賞必罰を底した規正しい軍を率いたと言われる。

呉での振る舞い

に移ってからも法を遵守する姿勢は相変わらずで、なにか問題が起こると厳しい姿勢で人々に対している。
はあるが横暴な振る舞いが立つ徐宗という男を処断したり、驃騎将軍となった歩騭が軍閥化する事を危惧し彼が私兵を雇う事に強く反対した。
またからの投降した隠蕃という人物を密偵と見抜き、彼と親交を持とうとする息子を叱りつけた。

孫権はそのような潘濬を深く信頼していた。このような話がある。
潘濬は諸葛亮の後継者である蒋琬を、妻のに持っていた。蒋琬の実権を握ると、潘濬がに寝返るつもりだと上奏するものがあったが、孫権はその上奏を一蹴し、上奏文を書いた者を免官とした。

また潘濬のを次男の孫慮の妻に迎えるなど、潘濬に対する孫権の信頼は絶大あった。

呂壱事件

238年ごろ、朝廷の中書皇帝と臣下の取次を担当する役所)に呂という悪官が現れる。
彼は一言で言えば孫権の寵を良い事に好き勝手やっており、細な過失や冤罪により他の役人達を次々に弾劾、更にといった専売品の利益を独占して私を肥やすなど権勢を欲しいままにした。

そんな呂を排除しようにも、孫権は呂を信任してしまっており、丞相顧雍ですら呂の諫言により譴責を受けるなど宮中の混乱は極まっていた。

に赴任していた潘濬と陸遜も、事態を深く憂慮し、その事をり合ううちに涙をす程だったという。
二人は共に呂排除の計を練り、潘濬は建業に赴いて自ら呂排斥の運動を起こした。
顧雍を排除してもその後任に潘濬が収まる可性が高いと知ると、慌てて顧雍を放免し、自宅に引きこもった。

潘濬は孫権に呂の悪辣さを何度も訴えた。そこに荊州西陵の歩騭からの上奏文が届いた。
手紙の中で歩騭は、呂の悪事を訴えると共に

顧雍陸遜と潘濬は)偏らぬ心を持って意を尽くし、事実を突き止める事に努しています。
彼ら三人は全ではないとしても、勝手に生殺与奪の権を振るう事はないでしょう。

顧雍陸遜・潘濬の三人を重用するように述べ、潘濬を援護した。
以前は自身の軍備強化を潘濬に潰されている歩騭だが、彼はそのような事を気にする人物ではなかったのだろう。

ここに至ってようやく不明を悟った孫権は、呂を処断することになる。

239年、武に戻った潘濬はを使い果たしたのか病により死去した。荊州の任務は呂岱が引き継いだ。

呂壱事件の後先

さて(潘濬とは余り関係いが)、この一連の事件は嫌なオチがついて後に引く事になる。
この後、流石の孫権も思うところがあったのか、荊州に赴任していた将軍たち(呂岱・諸葛瑾朱然歩騭陸遜など)に使者を送り、陳謝の言葉と共に、政策にめる点があればドンドン意見してほしいと伝えた。

だが荊州の将軍たちの態度はそっけないモノであり、「どうせアンタ何言っても聞かないでしょ?」「私は政治の事担当してないんで関係ないです」的なそっぽ向かれた空気が漂っていた。

これには焦った孫権は、らしくに感動的で胸を打つ立言い訳を書きめて諸将に呼びかけた。
見かねた諸葛瑾が具体的な事案をまとめて孫権に提出したというが、なんにせよこの一件での君臣の間に溝が出来たのは疑いないだろう。

後世の評価・創作物での扱い

史書

正史三国志』では陸凱と共に、「君に直言した硬で立伝されており、冒頭で書かれた高評価を得ている。

だがの人物史『季臣賛』では、

糜芳士仁・郝普と並び、において裏切り者・笑い者とされた」

と散々な言われようをされている。からすれば例え同盟の重臣であろうと、(過程をどうあれ)関羽に殉じずに寝返った男に高評価を与える訳にはいかなかったのかもしれない。

演義などの創作

演義では関羽の部下として登場して、関羽北上の際は糜芳博士仁の付け役として荊州に留まる。
その際、王甫

「潘濬は飲みの小人物で信用できないから、累に変えるべきだ」

と進言する。果たして軍が荊州に進行すると糜芳博士仁と共に降伏しに帰属した。

これだけである。ほぼ名前だけの登場で、その後の出番もない。出番は少ない事を嘆くべきか、関羽の死に関わった他の人たちのように悲惨な死を迎えなかっただけマシと言うべきか。

演義でこの扱いであるため、潘濬をクローズアップした作品はほぼ皆無と言っていい(と思われる)。
かろうじで『蒼天航路』で、全包囲され絶体絶命関羽に涙ながら降伏を呼びかける使者として登場している。

KOEI「三国志」の能力

演義準拠のためかわりと酷い数値である。に魅が。

一覧 統率 政治 身体 運勢
三國志
三國志II
三國志III 50 33 31 38 48 17
三國志IV
三國志V 12 67 73 40
三國志VI 41 22 67 79 19
三國志VII 46 64 80 62
三國志VIII 43 60 75 38
三國志IX 63 16 68 85
三國志X 69 27 67 88 21
三國志11 61 18 67 82 21
三國志12 61 18 68 82  -

関連項目

掲示板

  • 22ななしのよっしん

    2015/08/11(火) 05:24:49 ID: YXQepR1nUZ

    >>16
    司馬昭は結構陰険な事もしてるけど、に反乱した諸将から特に悪く言われてなかったりするところを鑑みると冷酷なだけでなく魅にも溢れた人物だったんじゃないかと

  • 23ななしのよっしん

    2018/04/28(土) 14:39:52 ID: uanc3+pKAp

    弁亡論でも孫呉臣の代表メンバーの中に入ってるあたり、マジ有能だったんだろうな

  • 24ななしのよっしん

    2019/02/21(木) 19:28:07 ID: 27VoR4YK5W

    事件で挙がってるメンバーが後々二宮の変で袂を分かつ辺り知名度は低いけど本当にターニングポイントな事件だなぁ…
    そんな争いをの当たりにしないですんだのは潘濬にとって幸せな事だったのかもしれない

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最終更新:2019/08/23(金) 02:00

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最終更新:2019/08/23(金) 02:00

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