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「潘濬」(はんしゅん)とは、後漢末から三国時代にかけて、
劉表・劉備・孫権の三陣営に仕え、背信者の誹りを受けつつも、正史において
それぞれの陣営からも高く評価され、特に孫権からは呉の丞相候補となるほどに重用された。
20歳前後の時、高名な儒学者であった宋忠から学問を学びんだ。
後の「建安七子」の一人、王粲から
聡明な資質を持ち、人との対応は機敏で、その言葉は理論立っている。
と人物を評価され名声を得た。
その後、劉表に招かれ、江夏郡の従事に任じられる。
江夏で横行していた汚職官吏を、法に照らし速やかに処罰し、官民を震撼させた。
後に、湘郷県の県令に昇進しそこでの統治の評判も上々であった。
劉備が荊州を治めると、その配下となる。
後に劉備が入蜀すると、荊州に留められ、関羽の元で州の事務を担当した。
劉備からの信任は得ていたが、後述する『季漢輔臣賛』によれば、関羽には糜芳・士仁らと同様に疎まれていた。
219年、呂蒙の侵攻により荊州は陥落する。関羽は殺害され、荊州は孫権の手に堕ちた。
劉備配下の諸将は殆ど孫権に降ったが、潘濬は責任を強く感じたのか、自宅に引きこもり、、孫権の使者に対してもベッドに伏して泣くばかりで出頭を拒否した。そのため孫権は、潘濬をベッドに括り付けたまま自分の元に連行させ自ら説得にあたった。
孫権は
と懇願し潘濬を心服させた。
呉将潘濬はこうして誕生し、以後その才能を存分に発揮する事になる。
その後潘濬は統治から戦闘まで幅広い活躍を見せる。
221年 夷陵の戦いの際、武陵郡の官吏樊伷が異民族と結託し、劉備に呼応して反乱を起こした。
潘濬は歩騭と共に、これを討伐。夷陵の戦いを側面から支える功績をあげる。
229年 孫権が皇帝に即位すると、九卿の少府や太常を歴任し、陸遜と共に武昌に駐屯し荊州の統治に当たった。
231年 重臣の呂岱と共に、呂拠・朱績・鍾離牧といった後の呉を支える若い将軍達を率い、異民族「五谿蛮」の反乱討伐を行った。この戦いは4年の長きに渡るほど苦戦を強いられたが、数万の敵を斬るか捕虜にしたという。
潘濬はこういった激戦の中でも、信賞必罰を徹底した規律正しい軍を率いたと言われる。
呉に移ってからも法を遵守する姿勢は相変わらずで、なにか問題が起こると厳しい姿勢で人々に対している。
名声はあるが横暴な振る舞いが目立つ徐宗という男を処断したり、驃騎将軍となった歩騭が軍閥化する事を危惧し彼が私兵を雇う事に強く反対した。
また魏から投降した隠蕃という人物を密偵と見抜き、彼と親交を持とうとする息子を叱りつけた。
孫権はそのような潘濬を深く信頼していた。このような話がある。
潘濬は蜀の諸葛亮の後継者である蒋琬を、妻の兄に持っていた。蒋琬が蜀の実権を握ると、潘濬が蜀に寝返るつもりだと上奏するものがあったが、孫権はその上奏を一蹴し、上奏文を書いた者を免官とした。
また潘濬の娘を次男孫慮の妻に迎えるなど、潘濬に対する孫権の信頼は絶大だった。
238年ごろ、呉の朝廷の中書省(皇帝と臣下の取次を担当する役所)に呂壱という悪官が現れる。
彼は一言で言えば孫権の寵愛を良い事に好き勝手やっており、些細な過失や冤罪により他の役人達を次々に弾劾、更に塩や鉄といった専売品の利益を独占して私腹を肥やすなど権勢を欲しいままにした。
そんな呂壱を排除しようにも孫権は呂壱を信任してしまっており、太子孫登による諫言も効果が無く、丞相の顧雍ですら呂壱の讒言により譴責を受けるなど宮中の混乱は極まっていた。
武昌に赴任していた潘濬と陸遜も、事態を深く憂慮し、その事を語り合ううちに涙を零す程だったという。
二人は共に呂壱排除の計を練り、潘濬は建業に赴いて自ら呂壱排斥の運動を起こした。
呂壱は顧雍を排除してもその後任に潘濬が収まる可能性が高いと知ると、慌てて顧雍を放免し、自宅に引きこもった。
潘濬は孫権に呂壱の悪辣さを何度も訴えた。そこに荊州西陵の歩騭からの上奏文が届いた。
歩騭はその中で呂壱の悪事を訴えると共に
(顧雍と陸遜と潘濬は)偏らぬ心を持って誠意を尽くし、事実を突き止める事に努力しています。
彼ら三人は全能ではないとしても、勝手に生殺与奪の権を振るう事はないでしょう。
と顧雍・陸遜・潘濬の三人を重用するように述べ、潘濬を援護した。
以前は自身の軍備強化を潘濬に潰されている歩騭だが、彼はそのような事を気にする人物ではなかったのだろう。
ここに至ってようやく不明を悟った孫権は、呂壱を処断することになる。
翌239年、武昌に戻った潘濬は力を使い果たしたのか病により死去した。荊州での任務は呂岱が引き継いだ。
さて(潘濬とは余り関係無いが)、この一連の事件は嫌なオチがついて後に引く事になる。
この後、流石の孫権も思うところがあったのか、荊州に赴任していた将軍たち(呂岱・諸葛瑾・朱然・歩騭・陸遜など)に使者を送り、陳謝の言葉と共に、政策に改める点があればドンドン意見してほしいと伝えた。
だが荊州の将軍たちの態度はそっけないモノであり、「どうせアンタ何言っても聞かないでしょ?」「私は政治の事担当してないんで関係ないです」的なそっぽ向かれた空気が漂っていた。
これには焦った孫権は、素晴らしくに感動的で胸を打つ立派な言い訳反省文を書き改めて諸将に呼びかけた。
見かねた諸葛瑾が具体的な事案をまとめて孫権に提出したというが、なんにせよこの一件で呉の君臣の間に溝が出来たのは疑いないだろう。
正史『三国志』では陸凱と共に、「主君に直言した硬骨漢」枠で立伝されており、冒頭で書かれた高評価を得ている。
と散々な言われようをされている。蜀からすれば例え同盟国の重臣であろうと、(過程をどうあれ)関羽に殉じず呉に寝返った男に高評価を与える訳にはいかなかったのかもしれない。
演義では関羽の部下として登場して、関羽北上の際は糜芳。博士仁の目付け役として荊州に留まる。
その際、王甫が
と進言する。果たして呉軍が荊州に進行すると糜芳・博士仁と共に降伏し呉に帰属した。
これだけである。ほぼ名前だけの登場で、その後の出番もない。出番は少ない事を嘆くべきか、関羽の死に関わった他の人たちのように悲惨な死を迎えなかっただけマシと言うべきか。
演義でこの扱いであるため、潘濬をクローズアップした作品はほぼ皆無と言っていい(と思われる)。
かろうじで『蒼天航路』で、呉に完全包囲され絶体絶命の関羽に涙ながら降伏を呼びかける使者として登場している。
演義準拠のためかわりと酷い数値である。主に魅力が。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志Ⅰ | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志II | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志III | - | 50 | 33 | 31 | 38 | 48 | 17 | - | - |
三國志IV | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志V | - | 12 | 67 | 73 | 40 | - | - | - | - |
三國志VI | 41 | 22 | 67 | 79 | 19 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 46 | 64 | 80 | 62 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 43 | 60 | 75 | 38 | - | - | - | - |
三國志IX | 63 | 16 | 68 | 85 | - | - | - | - | - |
三國志X | 69 | 27 | 67 | 88 | 21 | - | - | - | - |
三國志11 | 61 | 18 | 67 | 82 | 21 | - | - | - | - |
三國志12 | 61 | 18 | 68 | 82 | - | - | - | - | - |
掲示板
25 ななしのよっしん
2019/11/15(金) 04:31:26 ID: FnUT5SE0mM
記事内の「呂壱の諫言により」の部分は
諫言→讒言じゃないかな?
26 ななしのよっしん
2024/10/24(木) 15:03:33 ID: 9zLjxURbcI
能力値は昔より改善されてるけど三国志14では小心の赤特能がついてるね
いやむしろ小心とは真逆の気骨の士だと思うんですが…
基本史実か演義のいいとこ取りなコーエーですら
ゴリゴリに私情の入ってる季漢輔臣賛を鵜呑みにしてこれとは
関羽に背信したというのはそこまでの罪なのか
27 ななしのよっしん
2024/10/24(木) 17:23:01 ID: YXQepR1nUZ
PK買って修正してね て事だろう
華歆や麋芳もそうだけど、演義補正によるデバフが何故か解かれない武将が何人も居るからな
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最終更新:2025/01/18(土) 20:00
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