「王騎」(おう・き ? ~ 紀元前244年、「王齮」とも書く)とは、中国の戦国時代後期の秦の国の将軍である。秦王の嬴政(えいせい、後の始皇帝)に仕えた。
ただしくは、「王齮」の「齮」の字と「騎」は別字であるが、ある創作作品の影響により、「王騎」で項目立てしている。
創作作品では、同じく秦の将軍であった王齕(おうこつ)と別人とされることが多いが、同一人物説の方が有力であるため、この項目では同一人物として解説する(「wikipedia」では断り書きはされながらも、別人として項目立てされている)。
秦の昭襄王(しょうじょうおう、始皇帝の曽祖父)、荘襄王(そうじょうおう、始皇帝の父)にも仕え、秦軍の2番手となることが多かったが、秦の将軍として活躍した。
王騎については、年齢や出身地など全てが不明であるため、その登場までの歴史背景について、説明する。(この部分は、『史記』では「王齕」表示であることは注意。ただし、『戦国策』では「王齮」)
春秋戦国時代の後半にあたる(中国の)戦国時代後期、西にあった秦国は、昭襄王の時代にあたっていた。
秦国は、紀元前350年からの商鞅(ショウオウ)の改革から、最強国となってから久しく、名将・白起(ハクキ)に命じて、東のある六国(楚、斉、趙、魏、韓、燕)への侵略を進めていた。
しかし、紀元前270年、秦の武将である胡傷(コショウ)が、趙の国の武将である趙奢(チョウシャ)に敗北する(閼与(アツヨ)の戦い)。
それまで強国ではなかった趙国であったが、趙の武霊王(ぶれいおう)の時代に、紀元前307年から「胡服騎射(こふくきしゃ)」政策を行い、騎兵を育て上げて、すでに40年近くが経っていた。そのため、趙は軍事大国に育っており、秦と天下を争う国力を有するようになっていた。
それから、秦は趙から城を奪うことはあったが、激しい対決は起こらず、8年が経過した。
紀元前262年、秦は白起に命じて、韓の国を攻めさせる。白起は、野王(ヤオウ)という城を奪い取り、韓を南北に分断する。韓の北側にあたる上党(ジョウトウ)という土地は、韓から孤立した。
韓の上党の郡守(ぐんしゅ、郡の長官)である馮亭(フウテイ)は、韓の軍では秦に抵抗できないと考えて、上党の地を趙に降伏することで、韓と趙で連合することで、秦に対抗しようと考えた。
元々、韓と趙は「三晋」と言われ、晋の国が三つに分かれて生まれた国である(もう一つは「魏」)。そのため、韓と趙とは、仲間意識が強く、上党の民も「秦に降伏するよりは」と同意する。
趙では反対意見もあったが、「戦国の四君」の一人である平原君(へいげんくん、本来の名は「趙勝(チョウショウ)」)が賛成したため、趙の孝成王(こうせいおう)は、上党の降伏を受けることにする。
秦ではさすがに韓と趙を同時に相手することを避け、まずは韓を攻めてから、趙と戦うことにする。紀元前261年、秦は韓を攻めて、城を2つ奪い、まずは韓に打撃を与える。
紀元前260年、王騎は秦に命じられ、秦軍を率いて、上党を攻めることになった。
これが王騎の歴史上の初登場である。
この時、王騎の爵位(しゃくい)は左庶長(さしょちょう)と呼ばれる秦では上から数えて11位の爵位を受けていたとされる。これは、226年に白起が受けていたものと同じ爵位であった。
理由は不明であるが、秦では白起ではなく、王騎が秦の武将として用いられていた。王騎は、大抜擢を受けていたのかもしれない。
王騎は上党を奪うと、4月に趙を攻める。上党の民は趙へと逃げた。趙は長平(チョウヘイ)という土地で、趙軍を迎え撃った。
ここに戦国時代後期最大の戦いである秦と趙との決戦である「長平の戦い」が行われることとなる。
王騎が対する、趙軍を率いる将軍は、名将の「廉頗(レンパ)」であった。廉頗は後世に名将の代名詞とされるほどの武将である。
趙では、すでに趙奢は死去し、かつて趙に亡命した楽毅(ガクキ)や田単(デンタン)もこの時にはすでに死去していた。そのため、廉頗は白起と並ぶ、中国における当代最高の名将であった。しかも、廉頗が率いる兵は40万人を越えており、秦軍より多かったと考えられる。
王騎には充分過ぎる相手であった。
(この部分は、『史記』では「王齕」表示である)
「長平」は丹水(タンスイ)という河川の上流にある軍事拠点であり、谷の奥に城が築かれていた。王騎は丹水をさかのぼって、軍を進めた。王騎が斥候(せっこう)の兵を出すと、趙軍の兵士たちが攻めてきた。
王騎の斥候が反撃して、趙軍を打ち破ると、趙の裨将軍(副将軍)の茄(カ、姓は不明)も討ち取った(なぜ、このような事態が起きたか詳細は不明)。
王騎は幸先よく、軍を進める。6月には、趙軍をさらに打ち破り、2つの砦を落とし、さらに四人の尉(い、「趙の武将」の役職)を討ち取る。
7月、趙軍は砦を築いて守ってきた。王騎はその砦も攻め、趙軍の二人の尉を捕らえ、趙の陣営を破り、西の砦も落とした。
いくら秦軍が強いとはいえ、軍事大国にまで育った趙の軍を名将・廉頗が大軍を率い、守りを固めているところを、ここまで一方的に攻めているところを見ると、王騎も間違いなく「名将」と呼ばれるほどの人物であったと断言しても間違いないはないだろう。
王騎は秦軍に戦いを挑ませたが、趙軍は討ってはでてこなくなった。趙では逃亡兵が続出していた。
ここで、秦では宰相の范雎(ハンショ)が秦に謀略を仕掛ける。そのために、趙の将軍は廉頗から若い趙括(チョウカツ、趙奢の子)に交代する。秦でも、白起が上将軍となり、王騎はその副将となった。
この後の「長平の戦い」は秦軍の大勝利に終わり、趙の兵45万人は全て「生き埋め」なった。(この戦いの詳細については、廉頗・趙括・藺相如(リンショウジョ)の項目参照)
この戦いでの王騎の具体的な活躍は史書には記されていないが、秦軍の副将として、大いに貢献したと思われる。
(この部分は、『史記』では「王齕」表示である)
紀元前259年、秦軍は上党郡を平定して、さらに、王騎は趙を攻め、皮牢(ヒロウ)という城を落とす。秦は、趙と韓から城を譲り受けて、講和を結ぶ。このために、范雎と白起が不仲な関係となった。
秦はまた、五大夫(ごたいふ、秦の上から数えて12番目の爵位。王騎の封じられていた左庶長の次の爵位)である王陵(オウリョウ、前漢の仕えた人物とは同名の別人)を将軍に命じて、趙の都である邯鄲(カンタン)を攻めたが、落とせなかった。
紀元前258年、代わりに将軍になることに白起が辞退したため、王騎が、鄭安平(テイアンヘイ、范雎の友人)とともに、秦軍の将軍に命じられ、邯鄲を攻める。しかし、8、9か月経っても落とせなかった(この部分は、『史記』では、箇所によって「王齮」表記と「王齕」表記、両方が存在する)。
趙では、平原君とその食客の毛遂(モウスイ)の働きにより、楚から援軍が送られることが決定した。楚軍を率いるのは、平原君とともに「戦国の四君」と呼ばれる春申君(名は黄歇(コウアツ))である。
また、魏では平原君の妻の弟にある信陵君(しんりょうくん、名は魏無忌(ギムキ))が、趙への助けに赴こうとしない魏の軍を奪って、援軍を率いてきた。信陵君もまた、後世に「戦国の四君」と呼ばれる人物で、「名将」と呼ばれる軍事能力を有していた。
紀元前257年、趙の邯鄲からは、李同(リドウ)という人物が決死軍3,000人を率いて、邯鄲からでてきた攻撃してきた。趙軍の決死の勢いに李同は討ち取ったものの、王騎は軍を30里(約15km)後退させる。
そこに、楚と魏の援軍があらわれた。
王騎は秦軍を率いて、趙・楚・魏の連合軍と戦ったが、戦闘は不利であり、死傷者や逃亡者は続出する一方であった。秦では、白起を起用しようとしたが、白起は断った。
王騎は、3か月は戦ったが、戦況はさらに不利となり、何度も後退した。王騎は、毎日、戦況の報告をしたが、かえって、秦では、白起は都から追放されることとなった。やがて、鄭安平も趙の軍に包囲されて、2万人の兵とともに降伏する。
秦も、兵力を全てこの戦いに送っているため、援軍も期待できなかった。
王騎は、これ以上の戦闘をあきらめ、秦軍を後退させた。王騎が、邯鄲を落とせなかったため、趙は滅亡の危機から免れたのである。
(この部分は、『史記』では「王齕」表示である)
だが、王騎はこのまま引き下がったわけではなかった。
王騎は汾城(フンジョウ)郊外に駐屯していた秦軍と合流する。2か月ほどして体勢を立て直すと、魏と楚の連合軍を攻める。
この時の魏と楚の将の名は不明であるが、少なくとも信陵君と春申君が送った追撃軍であったことは間違いないであろう。
王騎は、魏軍と楚軍の6千人の首を斬る。魏軍と楚軍は敗走し、追い詰められて、黄河で2万人が流れ死んだ。王騎はさらに、汾城も攻め落とし、秦の武将である張唐(チョウトウ)に従って魏の寧新中(ネイシンチュウ)を落とした。
王騎は確かに敗北に近い後退はしたが、しっかり、リベンジは果たしていた。
寧新中は安陽(アンヨウ)と名付けられた。この時、秦でははじめて黄河に橋をかけたとあり、位置は不明であるが、王騎が軍に命じて実行した可能性がある。
やがて、白起は自害を命じられ、その部下であった司馬靳(シバキン、『史記』の作者である司馬遷(シバセン)の先祖)も自害させられるが、「長平の戦い」では白起の副将とつとめた王騎は、特に処分が降ることもなかった。
紀元前256年、趙の新中(シンチュウ)を攻める。魏・韓・楚の援軍が来たため、四か国連合軍と戦うが、趙の武将である楽乗(ガクジョウ、楽毅の一族)と慶舎(ケイシャ)に破られる(※)。
(※)なお、ここでは、秦の「信梁」と書かれているが、信梁とは王騎の「呼び名」であると『史記』の注釈で解説されている。「信梁」とは王騎の官職か、役職か、封号か、字か不明。
やがて、紀元前251年に昭襄王が死去する。代わって、秦王となった孝文王(こうぶんおう)は即位後わずか3日で死去し、その子である荘襄王(そうじょうおう)に王騎は仕えることとなった。
紀元前247年、上党をまた攻めて(再度、独立した、もしくは、他国についたものか)占領する。秦は、上党に秦の直轄地となる「太原郡」を置き、直接統治することとなった。(この部分は、『史記』では、箇所によって、「王齮」表記と「王齕」表記、両方が存在する)
やがて、荘襄王も死去し、次の秦王には荘襄王の子である嬴政(エイセイ、後の始皇帝)が即位する。
(この部分は、『史記』では「王齮」表示である)
紀元前246年、王騎は、嬴政によって、蒙驁(モウゴウ)と麃公(ヒョウコウ)とともに秦の将軍に任じられる。この頃、秦の軍では斉出身の蒙驁が台頭し、韓や趙の討伐で、多くの城で落とし、大きな功績をあげていた。
紀元前244年、蒙驁が韓を討伐して、13の城を落とした年に、王騎は死去した。
死去の記述はあっさりしたものであるが、その死は、『史記』の「秦始皇本紀」と「六国年表」両方に記されており、出典となった秦の歴史書では、その死は大きな事件として受け止められたことが分かる。
王騎については、上述した通り、出身地など全て不明であるが、同姓であり、秦の将軍となる「王翦(オウセン)」が頻陽東郷(ヒンヨウトウキョウ、現在の陝西省富平県東北部)の出身であり、この土地は秦の本拠地である関中に含まれるため、(史書には明記されていないが)王翦と同族であるとするならば、秦国の出身である可能性が比較的、高い。
王騎(王齮、王齕)については、史書に具体的に評価がされていたことはなく、様々な中国史の名将ランキングでも、その候補にはあがったことはない。また、「長平の戦い」においても、はじめから白起が、廉頗と戦っていたという誤解されることが多い。
創作作品に登場する時も、「ただの白起の副将」という扱いが多く、「守りを固める廉頗の前には全く歯が立たなかった」とされていることも多い。また、邯鄲の戦いでは、「信陵君に敗れた」という部分も強調されやすい。
しかし、実際には、王騎は、秦軍が趙軍より軍勢が少ないと思われる段階で、守りを固める廉頗率いる趙軍相手に多くの武将を討ち取り、砦を破り、かなり有利に戦っている。また、信陵君に敗北はしたが、追撃させてきたと思われる軍も破っており、充分に「名将」と呼ばれるに値する戦歴を誇った人物である。
近年では、『キングダム(漫画)』に伝説的な重要な将軍として登場し、人気を博し、知名度と人気が大きく上昇した。ただし、同作品では「王齮」と「王齕」は別人とされており、「王齮」のみが「王騎」であると扱われており、彼について解説する記事において、「史実では特に活躍は記されていない」とされることも多い。
「ンフフフ」
ほとんど無名の存在であった「王齮」の知名度を飛躍的にあげた作品。本作で、「王騎」という名の表記にされた影響は大きく、この項目でも「王騎」名で項目立てしている。
「戦神」、「秦の怪鳥」と呼ばれたかつての秦国の王であった昭襄王に仕えた「秦国六大将軍」の一人である。
分厚い唇に巨大な体格、三つに分けられたあご髭に特徴にあり、「ンフフフ」、「ココココ」という独特な笑い方をする
独特のオカマっぽい柔らかい口調とは裏腹に、並外れた知略と武力で中華をまたにかける「天下の大将軍」であり、その存在感は昭襄王のひ孫にあたる嬴政が秦王となった時代には、秦国の将軍たちの中でも別格と存在となっている。
登場当初は情熱を失い、戦いの第一線から離れ、あまり政争に関わらない態度をとっていたが、秦国の内乱の顛末(てんまつ)を見届けて、嬴政の才覚や志を認めてから、秦国のために力を尽くして戦うようになる。
また、「天下の大将軍」を目指す主人公の李信に「将軍」としての心構えやふるまいを教え、李信の率いる軍である「飛信隊」の名づけ親となった。
趙との戦いでは、防衛線において、秦国軍の総大将として復帰する。趙の大将である「龐煖(ホウケン)」とは因縁があった。
巨大な矛(ほこ)を使い、無双の武勇と、戦場全体をみすえた卓越した知略を誇る中華全土においても屈指の将軍である。
史実では「王齮」と「王齕」は同一人物の可能性は高いが、本作品では別人として扱われる。王齕もまた、「秦国六大将軍」の一人とされている。
実写映画版では大沢たかおが演じた。役作りのために過酷なトレーニングを行い20kg増量し、筋肉を再現したものの、たびたび衣装が合わなくなってしまったようだ。インターネット上では腕組みをする画像が時々使用される(→腕組みして微笑む実写版王騎)。
春秋戦国時代の戦争について、解説した書籍。文庫で絶版であるが、現在でも、中古で安く購入できる。
春秋戦国時代の戦争の内容について、春秋時代後期の「呉楚の戦い」、「呉越の戦い」から、戦国時代後期の「長平の戦い」、「邯鄲の戦い」までを扱っており、その前後の政治情勢や各国についての戦略についても述べて、解説がされている。
豊富な地図における説明がなされるとともに、挿絵や写真つきのコラムも存在し、春秋戦国時代の戦争についての理解の助けとなる。
王騎が大将・副将として戦った「長平の戦い」、「邯鄲の戦い」についても詳細な説明が行われている。
続編として、始皇帝の戦争についても解説本が出版される予定だったと思われるが、残念ながら、出版には至らなかったようである。
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最終更新:2024/12/22(日) 14:00
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