1,701
1 ななしのよっしん
2009/02/07(土) 17:07:00 ID: MgD1kGxAbv
2 ななしのよっしん
2009/02/22(日) 02:54:55 ID: XkxoIV9YdE
3 ななしのよっしん
2009/02/28(土) 22:11:26 ID: /CdIZ77w61
戦国BASARA2の秀吉は新鮮だったな。
いい人・小悪人的に描かれる媒体が多いせいで、ああいう冷徹さも持っていた人物だと忘れてしまう。
4 ななしのよっしん
2009/03/14(土) 16:38:24 ID: SuF1RPa8B0
朝鮮出兵は失敗してよかったと思う
5 ななしのよっしん
2009/05/14(木) 22:15:05 ID: MgD1kGxAbv
6 ななしのよっしん
2009/05/16(土) 00:08:11 ID: xUKS6s0xMu
朝鮮出兵などで晩節を汚したとはいえ、KOEIの信野望では過小評価されてると言わざるを得ない。
7 ななしのよっしん
2009/05/29(金) 01:59:23 ID: 0r9fQsaD05
8 ななしのよっしん
2009/06/21(日) 22:50:55 ID: zSdvIv8vXN
朝鮮人による妄想秀吉
http://w
9 ななしのよっしん
2009/10/22(木) 15:41:41 ID: GS9NeUIjXx
秀吉は武勇は部下に任せていたので気前よく褒賞
を与えているうちに土地がなくなってしまって考えた末
朝鮮へ外征することで土地を確保しようとしてたようだな。
晩節が汚れてしまったのは、自らの耄碌もあるだろうが
それを差し引いてもなかなかの人物だと思う。
しかし、内政もちっとしっかりしとけばまた違った
日本の歴史もみれたろうにな…。そこが残念だ
10 ななしのよっしん
2009/10/22(木) 19:51:42 ID: 6HgcmhBt3j
11 村上
2009/11/03(火) 19:43:15 ID: pOsjmcWsoY
エロ爺というのは別に間違いじゃない。
12 ななしのよっしん
2009/11/03(火) 19:54:18 ID: MAVFBgnIZW
秀長がもう少し長生きしていれば・・・
13 ななしのよっしん
2009/11/13(金) 00:36:37 ID: yh76jQrHRW
>>3
それ以前に姿がどっかのラオウみたいになっちゃってるじゃないか
14 ななしのよっしん
2009/12/17(木) 19:15:14 ID: p+LA7Fx6fE
15 ななしのよっしん
2009/12/31(木) 00:31:53 ID: 0GCMuUa39w
16 ななしのよっしん
2010/01/21(木) 05:54:05 ID: eCyi0iGm/n
>>14
確かルイス・フロイスが書き残してるんだっけ。フロイスのは信頼における史料だから、9割方事実だろうね。
しかし>>15、いきなり漫画の話に持っていって「それは常識(キリッ」とか
流石に恥ずかしいぞw
17 ななしのよっしん
2010/01/28(木) 23:38:02 ID: 7qF5ogalWL
>>9
間違いが幾つかある
1.主君信長は秀吉以上に家臣に領地を分けまくってた。この傾向は織田主従に限らず、当時の大名の直轄領は驚くほど少ない
2.秀吉は朝鮮を狙ったのではなく、明国に対等外交を要求した。朝鮮は当時独立国ではなく明国の属国(属国の中では最低の地位に置かれていた)だった。
また、秀吉は朝鮮占領中に封建制度を朝鮮に持ち込んではいない。
3.大陸から撤兵する際の講和では、日本と明国が交渉し、李氏朝鮮は除け者にされていた。日本側は明国に対し、朝鮮半島に領土を要求しなかった。
秀吉死後のことだが明国は満州族の攻撃を受けた際、高官たちは「朝鮮を日本に割譲して日本を満州族と争わせる」策を考案し、日本側に伝えた。時の将軍徳川秀忠はこの提案をきっぱり断っている。
当時の朝鮮の領土としての価値はその程度だった
3.内政面で秀吉の耄碌の一例として秀次粛清がよく挙げられるが、秀次の側近や家臣団は当時の常識をも超える悪どい高利貸しだった。
彼らの多くは豊臣秀長の家臣や寄騎だったものが多く、そもそも秀長が織田家の家臣時代から高利貸しとして働き羽柴家の財力を支えていた。この集団は天下統一と初期の統治には有用だったが、天下が安定すると人々の恨みを買うようになっていた。秀吉は秀長に度々注意しているが、秀長はこの件については兄の言葉を無視して処罰も受けている。秀次も同様だった。
秀次粛清には統治者として全うな理由があった。ただし秀長の与力を秀次の与力につけた秀吉の失敗でもある
4.武功は目立たない石田三成が豊臣家の威光の下でとはいえ、同じく豊臣の威光を用いた徳川家康に対し、全国規模で互角の味方を味方を集めたことは、秀吉が打ち立てた豊臣家の力あるいは石田三成を引き立てた秀吉の器量として評価すべき。
また豊臣の天下の元で治安維持・街道整備・各単位の統一が行われ、江戸時代の繁栄の基礎を築いている。
さらに秀吉や三成は、大名への影響力を強めるためとはいえ、悪政を行っていた大名家に積極的に介入し、統治を改めさせたり取潰している
18 ななしのよっしん
2010/02/19(金) 08:06:57 ID: JPBxfNRfpC
明智光秀に関しては俺も動く
弔い合戦だよ
具体的には普段はいがみ合ってる毛利氏と連絡を取り合い、短期で中国地方から帰還した
自分でも驚いたが、豪華な臣下が集まった
自軍最大の軍師・黒田官兵衛、重臣・丹羽長秀
柴田勝家ほどではないが大きな派閥の細川藤孝・忠興
松永久秀との因縁で有名な、織田家臣下になって以来一度も失敗したことがないという筒井順慶
知行が2000石ある実力の持ち主・山内一豊
他家辞めて全力で奉公してきた奴・加藤光泰
他に挙げたらきりが無いが、そうそうたるメンバーで総勢20人を超えた
勝てない相手はもはやいないだろうという最強軍団だ
ソロで先陣を切った奴もいる。
織田家では重臣、四天王、10傑(俺含む)、3本柱などの超一流だ
なによりも強いのは、全員天王山での戦闘をぶっ通しで何日も可能だ。
内通する予定が・・・なんて奴は一人もいない
はっきり言って、俺らが鬨の声を挙ければ敵軍の雑兵は半数以上が逃げるだろう
四天王の連中は滝川一益、徳川家康にも顔が利く。奴らの中にも戦後に家名を上げたい奴はいるだろう
協力して全員で清洲あたりで会議してストライキしたらさすがに黙ってられないだろう
ちょっと顔なじみの前田利家に話つけてくるわ
19 ななしのよっしん
2010/04/01(木) 22:19:25 ID: 7VcV/vmVLH
木下藤吉郎→木下秀吉(1560年)→羽柴秀吉(1573年)→豊臣秀吉(1586年)と名前が変わっている。
この中で最も無名なのは「木下秀吉」に違いないと思うが(単に「秀吉」表記の文献が多いため)、今日の日本において変な意味で注目を集めることになったようだ。何が影響するかわからん。
しかし日本以外の国、スペインや明など世界中に敵国を作った人物としても貴重である。フェリペ2世の死や明が斜陽期であったこと等に救われたが、キリスト教の凄まじい弾圧を口実とし、日本が侵攻を受けていた可能性は十分にあった。
20 ななしのよっしん
2010/04/08(木) 21:26:31 ID: 6z5aRY+HUc
21 ななしのよっしん
2010/04/10(土) 21:28:22 ID: 0ZvIXj3wxl
22 ななしのよっしん
2010/04/14(水) 21:49:30 ID: TM9k5x0KHQ
幼名は日吉丸だよ。
まぁ秀吉は見栄っ張りだから、
後で勝手に自分で付けた名前かもしれないけど。
23 ななしのよっしん
2010/04/15(木) 20:30:35 ID: UGdaVAxjs8
若いころは秀吉(ひできち)。老いぼれてからは秀吉(ひでよし)。
これはイメージ。
24 ななしのよっしん
2010/04/27(火) 21:55:45 ID: QaCqzVZOeB
呼び方は「とよとみ・の・ひでよし」と「とよとみ・ひでよし」の二つがあるみたいだけど、どっちが正しいのだろう
25 ななしのよっしん
2010/04/27(火) 22:06:21 ID: nXd6agazDK
>>24
どちらかでなければならないというわけではないんだけど、
「豊臣」は姓ではなく、「源」「平」と同じ「氏(うじ)」なので、
「とよとみ の ひでよし」の方が適切。(源頼朝や平清盛とかと同じ)
26 ななしのよっしん
2010/05/11(火) 00:34:09 ID: R+2z66bvn+
か…関白様!!
タイトル:北斗の太閤
27 ななしのよっしん
2010/05/12(水) 18:54:51 ID: UJG0FKMStb
28 ななしのよっしん
2010/05/13(木) 00:08:56 ID: R+2z66bvn+
>>27
天下人は天が決める!
ありがとう。たいがいの人や馬がデカすぎる花の慶次でも、マッチョすぎる秀吉は個人的にかなり印象に残ってます。筋肉万歳! 下手絵スレ汚しスマソ
29 ななしのよっしん
2010/05/18(火) 23:39:29 ID: q2JhjcgyN8
朝鮮出兵のちに唐入りは十分可能だった話。
事実、その後に後金(清)が似たような兵力で、中国だけでなく、
東アジア全体を支配している。
ただその後、日本が今の満州みたいなことになってることを考えると、
失敗してよかったのかもね。
30 ななしのよっしん
2010/06/08(火) 18:06:23 ID: ndwI8FvQTe
たぶん信長に対する忠誠心はかなり希薄と思われる。
秀吉が光秀を倒して最初に着手させたのは『惟任退治記』と言う書付を作成、配布した事。当然『恩知らずの極悪人光秀』のイメージを形作り、それを討ち果たした自分の功績を示すプロパガンダ文書なのだが、光秀だけじゃなく信長の事も思い切り貶めまくっている。
やれ安土城に美女三千人のハレムを築いていただの、本能寺で侍らせていた女どもを皆殺しにしただの。実際には「(世話人の)女どもはこの戦いに無関係なのだから早く立ち去る様に」と言って逃がしているのにね。
しかも惟任退治記に始まる秀吉の息の掛かった人物によるデタラメな軍記物が数多作られたせいで、今じゃすっかり信長と光秀のイメージが悪い意味で固定化されている。なんだかなぁ。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。