天下統一とは、
ここでは「日本における天下統一」を軸に述べることとする。
~~天下について 豊臣秀吉(勝新太郎) 徳川家康(津川雅彦) 伊達政宗(渡辺謙) 独眼竜政宗より~~
本来、天下という言葉は「全世界」「天の下」という意味を成す言葉であった。それが転じて、一定の統一秩序を伴う、民衆、地域、国家という意味を持つようになる。概して共通していることは、天下というのは観念的な概念によって成り立っており、定義としては非常に曖昧なものであった。
日本においては、天下という言葉は古来から使われていたが、「天下」の概念が固まるのは天智天皇や天武天皇の治世においてである。当時日本の「天下」の概念は中華思想の影響を受けており、「天下」=天皇の治める場所とされ、天皇に従わない者=夷敵として天下から除外されていた。その後、坂上田村麻呂の阿弖流為討伐や源頼俊の活躍で朝廷(天皇)の勢力圏が徐々に拡大していったが、天下そのものの概念は徐々に希薄化したのである。
天下の概念が次に注目されるのは、源頼朝によってであった。源頼朝は「天下の草創」と称して鎌倉幕府を成立させる。これ以降、天下という言葉は「天皇から統治を任された武家政権の支配における正当性」を含むようになった。これ以降、概ね武家政権の正統な全国性を持つ支配に付随する言葉として「天下統一」いう表現がなされるようになり、天下統一した人物を「天下人」と呼ぶようになった。
その後、室町幕府を経て織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一によって「天下」の領域も拡大、確定されるようになり、江戸幕府徳川政権の中頃には「天下」=「日本列島」という概念が確立したと言われており、この頃から 天下人たる為政者によって特定の地域を統一することである。
「公儀」、「武家の中央政体」という意味も含まれるようになる。
中世・近世における日本の武家政権は、他国の王や皇帝、あるいは近代日本の統治機構とは異にするところが多い。まず、日本の統治や支配はあくまでも天皇によって行われるという正当性があり、その天皇によって武家政権を構築する天下人に任されるという構図であった。あくまでもTOPは天皇であり、武家の天下人はそれを万端に輔弼(助ける)するための人物にすぎないのである。
そのため、天下人は必ずしも世襲によって引き継ぐ必要がなく、むしろ世襲によって引き継がれた例の方が少ない。これは武家の天下人のみならず公家社会でも共通しており、公家の高官は才能や家柄によって決められることも多かった。そのために政争などが発生していたのである。
源頼朝以降、天下という言葉の意味が武家政権と結びつきを強めた後、「天下統一」という言葉もまた武家政権と結びつきを強めた。天下統一とは「全国に影響力を伝播させた武家政権」という意味を持ち、さらに「朝廷や諸侯から正当ある支配、天下人だと認められる」という意味を含むと言われている。ただし、当時はどちらかと言えば「天下一統」や「天下静謐」といった言葉の方が主に使われていたこともあり、定義付けとしては諸説わかれている部分もある。共通しているのは「天下統一」「天下人」という言葉は特に武家政権、武家社会と密接な関わりがあるということである。もちろん建武政権のような例外もある。
日本の武家社会において、天下統一を成し遂げた天下人の礎たる天下政権というのは数少ない。だが、それらの天下政権における統治や支配の構図というのは全てバラバラであり、もちろん政権の顛末もバラバラである。
特に本来の主権者たる天皇朝廷との折衝は武家政権、天下人にとっては課題であり、初期の鎌倉幕府や室町幕府は朝廷と対立して戦争状態に入るなど不安定な時期もあった。
武家の天下政権において、最も長く統治期間が続いたのは徳川家康が打ち立てた徳川政権(江戸幕府)である。初代家康から15代慶喜まで約270年続いた。統治体制においても過去の天下政権の課題を解消していると言われており、武家政権でありながら中央集権要素が非常に強く、また禁中並公家諸法度など朝廷公家統制も行われている。天下人は世襲ではないという定例を逸脱するには、天下人の次代三代の尽力が必要不可欠であり、長期政権の根幹となっている。
それらを含む、天下人の中央政権(武家)というのは以下である。
日本における武家政権の祖は、平安時代の平清盛がルーツとされている。平清盛が打ち立てた平氏政権は従来では公家政権に分類されていたが、今日では武家政権として認識されている。
平清盛は、父である平忠盛の地盤を継ぎ、保元の乱、平治の乱で勢力を拡大し、その後後白河法皇を中心とする院政を停止させて、政権確立を完了させて天下統一を概ね成し遂げた。支配構造としては30ヶ国程度の知行国を背景に、平清盛本人が太政大臣へと就任して中央で権力基盤を築き、諸国には地頭や国守護人を置いた。また奥州藤原氏である藤原秀衡に官職を与えることで関係を結び、その体制下に加えている。
のちの鎌倉幕府が平氏政権を踏襲しているが、平氏政権の制度は鎌倉幕府の支配構造と比べて脆弱であることは共通認識となっており、また清盛本人の政策に朝廷から不満が出るなどの対立も確認されている。その後、以仁王が挙兵すると反平氏方の反乱が頻発し、清盛本人はその最中に熱病で死去する。その後、清盛系伊勢平氏総領は平宗盛が継いだが、源頼朝、源義経や源範頼らによって壇ノ浦の戦いで滅亡した。
清盛の築いた天下政権や清盛に属する平氏は滅亡したが、坂東平氏など平氏勢力はその後も存続している。
源頼朝は、父である源義朝に従い平治の乱に従軍したが敗れ、伊豆に幽閉されていた。反平氏の挙兵が増加するに連れ河内源氏嫡流であった自身の声望も増し、(清盛系)平氏打倒の主導者として尽力。奥州藤原氏も滅ぼし、影響力を全国に拡大させ、天下統一を概ね成し遂げた。
源頼朝の支配構造としては鎌倉に幕府を開き、東国を中心に守護と地頭を置いた。また外交によって西国の勢力とも協調して全国に影響力を伝播させていた。ただし、この時期は朝廷の権力が比較的強かったこともあり、頼朝存命期の間に朝廷領を強力な支配下に置くことはできなかった。朝廷領をも支配する強力な体制が完了するのは、承久の変における北条義時の躍進まで待つ必要があり、今日この承久の変を鎌倉幕府成立と見る説もわずかながら存在している。
源頼朝は鎌倉武士や一門に支えられ、天下統一を概ね成し遂げたが、晩年は源義経や源範頼といった一族を弾圧して死に追いやり、頼朝自身も1199年に亡くなると頼朝系源氏の勢力は落ち、2代将軍源頼家、3代将軍源実朝がいずれも非業の死を遂げることとなり、頼朝系源氏は断絶して執権北条氏が政治を主導することになった。
足利尊氏は鎌倉幕府に仕える有力御家人であり、執権北条氏の一門でもあった。幕府方有力武将と目されていたが、後醍醐天皇が倒幕と称して挙兵すると彼に味方し、鎌倉幕府滅亡の主要人物となる。しかし、建武政権において後醍醐天皇の側近と対立し、また武士公家両面の建武政権における反発を後押しして離反。勢力を築いて征夷大将軍となり、後醍醐天皇崩御と南朝の失墜によって概ね天下統一を成し遂げた。
足利尊氏の支配構造としては、幕府開府を行い、鎌倉幕府を踏襲した体制を掲げているが、南北朝時代の真っ只中であり、かなり歪な構造であった。特に注目すべきは足利尊氏とその弟であった足利直義における両将軍と言われた幕府体制で、いわゆる補佐や輔弼とは違い権力構造が2人でほぼ完全に分散、二元化されていたのである。
しかし、両将軍における権力の二元化は、やがて周囲を巻き込んだ権力対立へと発展し、観応の擾乱と呼ばれる大規模な足利体制における内乱が生じる。その後、足利尊氏、足利直義両名はこの乱の最中に死没し、支配構造の強化や、権力基盤の確立は尊氏の息子である足利義詮、尊氏の孫である足利義満によって成し遂げられた。
ただし、政権末期になると有力大名が将軍家の権勢を凌ぐことが増えるようになり、数多の動乱や対立によって戦国時代となると、足利家の権力は徐々に形骸化する。最後は織田信長によって追放され、天下政権の座を譲ることとなった。足利家自体も衰亡し、江戸時代に高家として残るのみとなった。
「織田政権」も参照
織田信長は室町幕府の管領斯波氏に仕える守護代家臣であったが、下克上によってのしあがり、周辺勢力を滅ぼし勢力を拡大した。その後室町幕府将軍である足利義昭を擁立したが、後に追放して自ら統治を志す。畿内や周辺を中心に強力な政権地盤を築きながら、東北関東九州といった全国の諸侯を外交によって傘下に加えた。右大臣に就任し、関白太政大臣征夷大将軍の推任を得るなど朝廷から正当性を認められ、概ね天下統一を成し遂げた。
織田信長の支配構造としては、畿内を中心とする領土を武力制圧して一門側近を配置し、遠方においては外交によって既存勢力を概ね安堵、傘下に加えることで全国に影響力を伝播させていった。基本的には中世的な支配構造となっているものの、石高制や検地の導入など近世の先駆けたる政策も導入しており、総じて「脱中世」「準近世」という体制構造となっている。
天下統一を概ね成し遂げたものの、新体制構築を推し進める前に本能寺の変で織田信長とその後継者である織田信忠が死没すると、織田家の天下に対する影響力や政権の支配力は激減し、やがて山崎の戦いや四国征伐で声望を高めた羽柴秀吉に天下政権の座を譲ることとなる。織田家の系統は織田秀信、織田信雄によって現代まで受け継がれている。
なお信長の最終官位については諸説あり、特に太政大臣追贈の10月以前に羽柴秀吉が「織田大相国」(大相国は太政大臣の唐名)と書状(毛利輝元宛7月17日付)で述べていることから、朝廷の動きも考慮され非公式に太政大臣を叙任されていたという説が根強い。
豊臣秀吉(羽柴秀吉)は織田信長の重臣であったが、本能寺の変の後三法師秀信を擁立してこれを助け、山崎の戦いや四国征伐などで声望を高めた結果、朝廷から関白を叙任された。その後全国に影響力を行使し、かつての主君であった織田家を含む諸侯を傘下におさめ、概ね天下統一を成し遂げた。
豊臣秀吉の支配構造としては、概ね織田信長の体制を踏襲、改良したものとなっており、畿内を中心に強力な政権基盤を維持しつつ、全国各地に重臣家臣を封じて他の大名諸侯を監視させた。また傘下に加えた諸侯大名を圧迫し、妻子を人質にしたり、重臣一門で分断工作をさせるなど弱体化を測っている。政治的な動きとしては近世政策を日本全土に導入、統一、徹底させ、強力な支配体制を築いた。
しかし、秀吉はもともと農民、信長の家臣であったため、直臣が少なく秀吉個人の家の基盤は脆弱であった。秀吉は織田、徳川、前田といった有力諸侯と縁組関係を築き関係を強化したが、豊臣秀頼を巡る後継問題や秀吉没後の関ヶ原の戦いで欠点を露呈させ、天下政権の座を徳川家康に譲ることになり、豊臣家そのものも大坂の陣で滅亡した。
なお秀吉は豊臣政権における支配の正当性や序列などに官位を重く用い、これらは公家成大名や藤氏長者に代表される。朝廷体制をも統括下に置くその方針はのちの徳川幕府においても継承された。
徳川家康は織田信長の同盟者であったが、織田政権、豊臣政権の重鎮体制下の人物として活躍し、秀吉が没すると関ヶ原の戦いで石田三成ら反対派を破って天下の趨勢を掌握する。その後征夷大将軍に任命され江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、全国的な影響力を有して概ね天下統一を成し遂げた。
徳川家康の支配構造としては、概ね織豊政権や過去の天下政権を踏襲改良されており、特に家康没後の2代将軍徳川秀忠が概ね江戸幕府の強力な支配構造を完成させた。関東江戸を中心に徳川政権の強力な地盤を築き、遠方には既存勢力を優先的に安堵する一方で、徳川政権の基盤に近い既存勢力を大規模な配置替えで遠方に封じた。
また時代が下るに連れて統治体制も変化し、御三家と呼ばれる一門有力を各地の要所に鎮座させ、親藩譜代外様と傘下を明確化し、土地そのものの重要性も看過して配置した。また武家公家問わず諸法度で統制下に置き、大名を強制的に江戸に出府させたり、妻子を人質に取ったりするなど強力堅固な支配体制を築く。
天下が安寧すると徳川家綱、徳川綱吉をはじめ、文治政治への転換も行われた。徳川政権は約270年続いたが、最後は黒船来航に伴う国際情勢の変化や、国難対処が求められ、大政奉還などによって消滅した。徳川家自体はその後も存続している。
武家政権と密接な意味を持つ「天下人」「天下統一」という概念は、武士の衰退によって徐々に衰退、消滅した。徳川幕府の後期にあたる嘉永六年(1853年)に黒船が来航し、日本は国難対処と近代化体制が求められるようになった。その後、公武合体、尊皇攘夷を経て江戸幕府が倒され、明治新政府の時代となると関白、征夷大将軍、太政大臣という「天下人」としての地位が廃された。
国家の主権者は天皇ひいては国民となり、1869年の版籍奉還、1871年の廃藩置県によって武家社会が終わりを告げ、天下、天下人という概念そのものも廃れることとなる。
掲示板
13 ななしのよっしん
2022/05/03(火) 03:02:17 ID: PtkF74lUX+
江戸幕府の長期政権を知ってる現代人からすれば天下統一=すごい偉業だけど、戦国時代の人間から見た天下統一した政権ってその後は滅亡して一族全滅や家臣に乗っ取られたりして散々なイメージだったんじゃないかなって
ましてや戦国時代は応仁の乱以降の室町幕府の大混乱が現在進行形で続いてる時代だし
戦国時代は群雄割拠な一方で「天下統一なんて意味ない」という意識が一番強かった時期じゃないかと思う
14 ななしのよっしん
2023/01/10(火) 08:27:15 ID: 15teuqptMp
せやね 畿内の中央政権に寄った大家は悉く碌な目にあってないか10年もたずに倒壊してる→大内家、細川管領家、三好家、織田家
中央にあまり関わり持たない方が良いってか重要な選択肢ではないって感じ 毛利ー尼子間でも幕府の停戦命令聞きはするけど長続きせんかったし、島津もそんな聞いてないし北条も惣無事の解釈がズレてた感じ(一度臣従表明して当主上洛の準備はしてたけども…)
15 ななしのよっしん
2024/12/22(日) 02:21:29 ID: JWYEDfSS/P
信長の想定していた「天下」はせいぜい近畿周辺ぐらい、なんて話もあるな
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最終更新:2024/12/23(月) 18:00
最終更新:2024/12/23(月) 18:00
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