天下統一 単語

741件

テンカトウイツ

5.8千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

天下統一とは、

  1. 下人たる為政者によって特定の地域を統一すること。→ 本稿で解説
  2. かつてシステムソフトから発売され、現在システムソフト・アルファーが版権を持つ戦国シミュレーションゲーム。およびそのシリーズ 
  3. NHK総合テレビでかつて放映されていたクイズ番組。

ここでは「日本における天下統一」を軸に述べることとする。

天下という概念

下について 豊臣秀吉(勝新太郎) 徳川家康津川雅彦) 伊達政宗渡辺謙) 独眼竜政宗より

本来、下という言葉は「全世界」「の下」という意味を成す言葉であった。それが転じて、一定の統一秩序を伴う、民衆、地域、国家という意味を持つようになる。概して共通していることは、下というのは観念的な概念によって成り立っており、定義としては非常に曖昧なものであった。

日本においては、下という言葉は古来から使われていたが、下」の概念が固まるのは天智天皇天皇の治世においてである。当時日本の「下」の概念中華思想を受けており、下」=天皇の治める場所とされ、天皇に従わない者=夷敵として下から除外されていた。その後、坂上田村麻呂弖流為討伐や頼俊の活躍で朝廷天皇)の勢力圏が徐々に拡大していったが、下そのものの概念は徐々に希薄化したのである。


下の概念が次に注されるのは、源頼朝によってであった。源頼朝は「下の創」と称して鎌倉幕府を成立させる。これ以降、下という言葉は「天皇から統治を任された武政権の支配における正当性」を含むようになった。これ以降、概ね政権の正統な全性を持つ支配に付随する言葉として「天下統一」いう表現がなされるようになり、天下統一した人物を「下人」と呼ぶようになった

その後、室町幕府を経て織田信長豊臣秀吉徳川家康の天下統一によって「下」の領域も拡大、確定されるようになり、江戸幕府徳政権の中頃には「下」=「日本列島」という概念確立したと言われており、この頃から 下人たる為政者によって特定の地域を統一することである。
儀」、「武の中央政体」という意味も含まれるようになる。

武家政権と天下統一(天下人)

中世近世における日本の武政権は、他の王や皇帝、あるいは近代日本の統治機構とは異にするところが多い。まず、日本の統治や支配はあくまでも天皇によって行われるという正当性があり、その天皇によって武政権を構築する下人に任されるという構図であった。あくまでもTOP天皇であり、武下人はそれを万端に弼(助ける)するための人物にすぎないのである。

そのため、下人は必ずしも世襲によって引き継ぐ必要がなく、むしろ世襲によって引き継がれた例の方が少ない。これは武下人のみならず公家社会でも共通しており、公家の高官は才柄によって決められることも多かった。そのために政争などが発生していたのである。

源頼朝以降、下という言葉の意味が武政権と結びつきを強めた後、「天下統一」という言葉もまた武政権と結びつきを強めた天下統一とは「全力を伝播させた武政権」という意味を持ち、さらに「朝廷や諸侯から正当ある支配、下人だと認められる」という意味を含むと言われている。ただし、当時はどちらかと言えば「下一統」や「下静謐」といった言葉の方がに使われていたこともあり、定義付けとしては諸説わかれている部分もある。共通しているのは「天下統一」「下人」という言葉は特に武政権、武社会と密接な関わりがあるということである。もちろん建武政権のような例外もある。

天下統一と支配機構

日本の武社会において、天下統一を成し遂げた下人の礎たる下政権というのは数少ない。だが、それらの下政権における統治や支配の構図というのは全てバラバラであり、もちろん政権の末もバラバラである。
特に本来の権者たる天皇朝廷との折衝は武政権、下人にとっては課題であり、初期の鎌倉幕府や室町幕府朝廷と対立して戦争状態に入るなど不安定な時期もあった。

下政権において、最も長く統治期間が続いたのは徳川家康が打ち立てた徳政権江戸幕府)である。初代家康から15代慶喜まで約270年続いた。統治体制においても過去下政権の課題を解消していると言われており、武政権でありながら中央集権要素が非常に強く、また禁中並公家諸法度など朝廷公家統制も行われている。下人世襲ではないという定例を逸脱するには、下人の次代三代の尽力が必要不可欠であり、長期政権の根幹となっている。

それらを含む、下人の中央政権(武)というのは以下である。

平清盛の天下政権(伊勢平氏)

日本における武政権の祖は、平安時代平清盛ルーツとされている平清盛が打ち立てた平氏政権は従来では公家政権に分類されていたが、今日では武政権として認識されている。

平清盛である忠盛の地盤を継ぎ、保元の乱平治の乱で勢力を拡大し、その後後白河法皇を中心とする院政を停止させて、政権確立了させて天下統一を概ね成し遂げた支配構造としては30ヶ程度の知行国背景に、平清盛本人が太政大臣へと就任して中央で権力基盤を築き、諸には地頭守護人を置いた。また奥州藤原氏である藤原秀衡に官職を与えることで関係を結び、その体制下に加えている。

のちの鎌倉幕府が平氏政権を踏襲しているが、平氏政権の制度は鎌倉幕府の支配構造とべて脆弱であることは共通認識となっており、また清盛本人の政策に朝廷から不満が出るなどの対立も確認されている。その後、以仁王が挙兵すると反平氏方の反乱が頻発し、清盛本人はその最中に熱病で死去する。その後、清盛伊勢平氏総領は平宗盛が継いだが、源頼朝源義経源範頼らによって壇ノの戦いで滅亡した。

清盛の築いた下政権や清盛に属する平氏は滅亡したが、坂東平氏など平氏勢力はその後も存続している。

源頼朝の天下政権(河内源氏)

源頼朝である源義朝に従い平治の乱に従軍したが敗れ、伊豆閉されていた。反平氏の挙兵が増加するに連れ河内源氏嫡流であった自身の望も増し、(清盛系)平氏打倒の導者として尽力。奥州藤原氏も滅ぼし、力を全に拡大させ、天下統一を概ね成し遂げた

源頼朝の支配構造としては鎌倉に幕府を開き、東を中心に守護と地頭を置いた。また外交によって西の勢力とも協調して全力を伝播させていた。ただし、この時期は朝廷の権力が較的強かったこともあり、頼朝存命期の間に朝廷領を強力な支配下に置くことはできなかった。朝廷領をも支配する強力な体制が了するのは、承久の変における北条義時の躍進まで待つ必要があり、今日この承久の変を鎌倉幕府成立と見る説もわずかながら存在している。

源頼朝鎌倉武士や一門に支えられ、天下統一を概ね成し遂げたが、晩年は源義経源範頼といった一族を弾圧して死に追いやり、頼朝自身も1199年に亡くなると頼朝源氏の勢力は落ち、2代将源頼家、3代将源実朝がいずれも非業の死を遂げることとなり、頼朝源氏は断絶して執権北条氏政治導することになった。

足利尊氏の天下政権(足利氏)

足利尊氏鎌倉幕府に仕える有力御家人であり、執権北条氏の一門でもあった。幕府方有力武将とされていたが、後醍醐天皇が倒幕と称して挙兵すると彼に味方し、鎌倉幕府滅亡の要人物となる。しかし、建武政権において後醍醐天皇の側近と対立し、また武士公家両面の建武政権における反発を後押しして離反。勢力を築いて征夷大将軍となり、後醍醐天皇崩御と南の失墜によって概ね天下統一を成し遂げた

足利尊氏の支配構造としては、幕府開府を行い、鎌倉幕府を踏襲した体制を掲げているが、南北朝時代中であり、かなりな構造であった。特に注すべきは足利尊氏とそのであった足利直義における両将軍と言われた幕府体制で、いわゆる補佐や弼とは違い権力構造が2人でほぼ全に分散、二元化されていたのである。

しかし、将軍における権力の二元化は、やがて周囲を巻き込んだ権力対立へと発展し、観応の擾乱と呼ばれる大規模な足利体制における内乱が生じる。その後、足利尊氏足利直義両名はこの乱の最中に死し、支配構造の強化や、権力基盤の確立は尊氏の息子である足利義詮、尊氏の孫である足利義満によって成し遂げられた。

ただし、政権末期になると有力大名が将軍の権勢をぐことが増えるようになり、数多の動乱や対立によって戦国時代となると、足利の権力は徐々に形骸化する。最後は織田信長によって追放され、下政権の座を譲ることとなった。足利自体も衰亡し、江戸時代高家として残るのみとなった。

織田信長の天下政権(織田氏)

織田政権」も参照

織田信長室町幕府の管領斯波氏に仕える守護代臣であったが、下克上によってのしあがり、周辺勢力を滅ぼし勢力を拡大した。その後室町幕府将軍である足利義昭を擁立したが、後に追放して自ら統治を志す。畿内や周辺を中心に強力な政権地盤を築きながら、東北関東九州といった全の諸侯を外交によって下に加えた。右大臣に就任し、関白太政大臣征夷大将軍の推任を得るなど朝廷から正当性を認められ、概ね天下統一を成し遂げた

織田信長の支配構造としては、畿内を中心とする領土を武力制圧して一門側近を配置し、遠方においては外交によって既存勢力を概ね安堵、下に加えることで全力を伝播させていった。基本的には中世的な支配構造となっているものの、石高制や検地の導入など近世の先駆けたる政策も導入しており、総じて「脱中世」「準近世」という体制構造となっている。

天下統一を概ね成し遂げたものの、新体制構築を推し進める前に本能寺の変織田信長とその後継者である織田信忠が死すると、織田下に対する力や政権の支配力は減し、やがて山崎の戦い四国征伐望を高めた羽柴秀吉下政権の座を譲ることとなる。織田の系統は織田秀信織田信雄によって現代まで受け継がれている。

なお信長の最終官位については諸説あり、特に太政大臣追贈の10月以前に羽柴秀吉が「織田大相」(大相は太政大臣の唐名)と書状(毛利輝元7月17日付)で述べていることから、朝廷の動きも考慮され非公式に太政大臣を叙任されていたという説が根強い。

豊臣秀吉の天下政権(豊臣氏)

豊臣秀吉羽柴秀吉)は織田信長の重臣であったが、本能寺の変の後三法師秀信を擁立してこれを助け、山崎の戦い四国征伐などで望を高めた結果、朝廷から関白を叙任された。その後全力を行使し、かつての君であった織田を含む諸侯を下におさめ、概ね天下統一を成し遂げた

豊臣秀吉の支配構造としては、概ね織田信長の体制を踏襲、改良したものとなっており、畿内を中心に強力な政権基盤を維持しつつ、全各地に重臣臣を封じて他の大名諸侯を監視させた。また下に加えた諸侯大名を圧迫し、妻子を人質にしたり、重臣一門で分断工作をさせるなど弱体化を測っている。政治的な動きとしては近世政策を日本全土に導入、統一、底させ、強力な支配体制を築いた。

しかし、秀吉はもともと農民、信長臣であったため、直臣が少なく秀吉個人のの基盤は脆弱であった。秀吉織田、徳前田といった有力諸侯と縁組関係を築き関係を強化したが、豊臣秀頼を巡る後継問題や秀吉後の関ヶ原の戦いで欠点を露呈させ、下政権の座を徳川家康に譲ることになり、豊臣そのものも大坂の陣で滅亡した。

なお秀吉豊臣政権における支配の正当性や序列などに官位を重く用い、これらは公家成大名長者に代表される。朝廷体制をも統括下に置くその方針はのちの徳幕府においても継承された。

徳川家康の天下政権(徳川氏)

徳川家康織田信長の同盟者であったが、織田政権豊臣政権の重鎮体制下の人物として活躍し、秀吉すると関ヶ原の戦い石田三成ら反対を破って下の趨勢を握する。その後征夷大将軍に任命され江戸幕府を開き、大坂の陣豊臣氏を滅ぼし、全的な力を有して概ね天下統一を成し遂げた

徳川家康の支配構造としては、概ね織豊政権や過去下政権を踏襲改良されており、特に家康後の2代将徳川秀忠が概ね江戸幕府の強力な支配構造を完成させた関東江戸を中心に徳政権の強力な地盤を築き、遠方には既存勢力を優先的に安堵する一方で、徳政権の基盤に近い既存勢力を大規模な配置替えで遠方に封じた。

また時代が下るに連れて統治体制も変化し、御三家と呼ばれる一門有力を各地の要所に鎮座させ、親藩譜代外様下を明確化し、土地そのものの重要性も看過して配置した。また武公家問わず諸法度で統制下に置き、大名を強制的に江戸に出府させたり、妻子を人質に取ったりするなど強力堅固な支配体制を築く。

下が安寧すると徳綱、徳川綱吉をはじめ、文治政治への転換も行われた。徳政権は約270年続いたが、最後は来航に伴う際情勢の変化や、国難対処がめられ、大政奉還などによって消滅した。徳自体はその後も存続している。

天下人、天下統一の消滅

政権と密接な意味を持つ下人」「天下統一」という概念は、武士の衰退によって徐々に衰退、消滅した。徳幕府の後期にあたる嘉永六年(1853年)にが来航し、日本国難対処と近代化体制がめられるようになった。その後、合体、尊皇攘夷を経て江戸幕府が倒され、明治政府の時代となると関白征夷大将軍、太政大臣という「下人」としての地位がされた

国家権者は天皇ひいては民となり、1869年の版籍奉還、1871年の置県によって武社会が終わりを告げ、下、下人という概念そのものもれることとなる。

関連動画

主な天下人

主な政権有力者

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
街風めい[単語]

提供: セバス茶ン

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/23(月) 18:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/23(月) 18:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP