ロアッソ熊本とは、熊本県熊本市をホームタウンとするJリーグ加盟のプロサッカーチームである。
ロアッソについて概要と共に知ろうか
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創設時から熊本県熊本市を本拠地としているチームである。一方、本格的なサッカークラブとしての歴史をも歩み始めたのは2005年からである。並行してこのチームはそのクラブのトップチームとなり、且つプロ化した(詳細は歴史の項目で)。2008年にJリーグに加盟。
チーム名のロアッソは、阿蘇山および「火の国熊本」からイタリア語のRosso(ロッソ、赤の意味)と、イタリア語でAsso(アッソ、「唯一の」や「エース」を意味)を組み合わせた造語である。ちなみに当初は「ロッソ熊本」というチーム名だったが、Jリーグ加盟時に商標権の関係で現在の名称に変更した。
チームマスコットは「馬」をモチーフとしたロアッソくん。「馬」は熊本の伝統的な祭事などに関わる象徴的な動物であり、エンブレムにも採用されている。
なおクラブチーム化の際の運営法人設立はアルエット熊本時代から始まったが(アルエット熊本時代の運営法人は現在の運営法人とは別)、これはJFL在籍時にリーグ参入のルールとして、チームを運営する法人が必要であったためである。NTT西日本熊本FC時代までは実業団チームのため、会社(NTT西日本熊本支店)をそのまま運営法人の扱いにしても良かったために設立しなかった。
余談だが、元々熊本県のサッカー界では、東亜建設工業サッカー部を前身としたブレイズ熊本という同じく熊本市を本拠地としたクラブチームが先に、九州リーグ在籍時にJリーグ入りを目指していたが、メインスポンサーである東亜建設工業の経営難により、そのトップチームとユースチームが解散してしまった歴史がある。
ロアッソについて歴史と共に知ろうか
1969年
この年には兄弟チームだった日本電信電話公社関東サッカー部(現:大宮アルディージャ)も誕生している。
2000年
当時「NTT西日本熊本FC」として、社会人連盟の推薦によりJFL初参戦。初参戦は8位に終わる。来年までの親会社が西日本電信電話(NTT西日本)熊本支店ではあったものの、同支店が深く関わっていたのは実質この年までである。そのおかげでNTT東日本が親会社の大宮アルディージャからレンタル移籍という名の戦力提供を受けることが出来ていた。
2001年
そしてクラブチームに移行し、「アルエット熊本」にチーム名を変更する。しかし、親会社であるはずのNTT西日本熊本支店との関係も徐々に薄れ、最終的には支援を打ち切られてしまい、そのおかげで大宮アルディージャからのレンタル移籍も不可能になる。それらが最大の原因となってチーム力が低下していき、リーグ17位で九州リーグへと自動降格してしまう。なお、 何処ら辺に書いていいか分からなかったが、初めてJFLに参戦した時から応援し続けてきたサポーターグループが現在のウルトラアルデラスであり、創設者である(今も続けているか分からないが)リーダー及び他の面々が、当時のウルトラアルデラスのことを現在は廃刊となった『J'sサッカー』や『サッカーJ+』といったサッカー雑誌のインタビューで語っている。
なお、実は歴史的にはこの当時からJリーグを目指していたが、今ではすっかり忘れられている。この時、熊本県や熊本市に対して支援してもらおうと交渉していたが決裂した。一部ではこの交渉決裂の原因について「アルエット側におけるNTT色が強すぎたから」との推測が出ているが、真相は闇の中である。確か熊本日日新聞の過去記事に載ってあったと思うので、バックナンバーがある方は探してみてほしい。
2005年
アルエット熊本を前身とした「ロッソ熊本」として編成され、新しい監督として柏レイソルから池谷友良が招聘された。チームカラーもそれまでの青から赤へと変更した。編成前のセレクションでは最後までアルエットしてのこのチームに所属し続けてきた選手は誰1人受かることは無かったものの、過去にアルエット時代までにこのチームに所属していたことのある選手が何名かセレクションに合格していた。つまり古巣復帰ということになる。ついでにプロチーム(この年から選手全員プロ契約)へと衣替えする。九州リーグでは通算7度目の優勝を果たすものの、地域リーグ決勝大会では前身時代と同じくまたしても3位(自動昇格圏外)で終了してしまったが、JFL側の都合により再昇格が決定する。なお、新JFLへの再昇格はこのチームが最初であることを留意しておく。
この年からトップチームにおけるアルエットまでの歴史が、新しい運営法人によって黒歴史化…というかトップチームの前身なのに「全く関係の無い別チーム」扱いとされてしまっている。それに釣られるような形でなのか「アルエットとロアッソ(ロッソ)は別々の存在だ」と認識してしまっている者も中にはいる、あくまで2ちゃんねる上でだが。そもそも熊本日日新聞の紙面上では前年に「新チーム(ロッソ熊本)の中核チームにアルエット熊本が選ばれた」との記事が掲載されていたのだが、ロッソ熊本誕生までの経緯を一番よく知っているはずである当の熊本日日新聞は現在、この件に関しては紙面上で前身であると記述したりしなかったりと、ハッキリとした状態で取り上げようとしていない。
2006年
JFL再参戦。リーグ5位で終わり、J2参入(昇格)は見送られる。
シーズン終了後、TBSテレビ系列の熊本放送でチームの1年を振り返る特別番組が放送されたが、その放送では1年でJFLを突破できなかったことにより「ノー・モア、池谷!」と池谷監督の解任を求め叫ぶ多くのサポーター、そしてある1人のDQNサポーターが池谷監督に対して特攻真正面で喧嘩を売りに行くという模様が映し出されていた。当時のサポーターもフロントも、いくらJリーグより実力下のアマチュアリーグとはいえ、いつのシーズンにおいても(志すわけではないが)Jリーグ参入を決めても可笑しくないような(Honda FCなどの)強豪チームもひしめく全国リーグのJFLを、県内全体からのバックアップが有り且つ選手全員がプロ契約のチームでなら1年で抜けられると軽く考えていたのでは…と思わざるを得ない模様でもあった。(ちなみに池谷監督は就任時、「3年でJ2昇格」を掲げており、想定内であろう2年目でのこの扱いは心中どう思っていたのだろうか。)
2007年
リーグ2位で終わり、同年12月にJリーグ加盟並びにJ2参入(昇格)を承認されるも、愛称の「ロッソ」が先に商標登録されていたために今後一切使用できなくなってしまったため、「ロアッソ熊本」に改名。この改名当時、何も聞かされていなかったサポーターは急遽フロントに説明を求めた。しかしながら、何故フロントは愛称を決める際に前以って確認をしておかなかったのかは不明である。
2008年
J2初参戦。初参戦は12位でシーズン終了。8月から監督業とGM(ゼネラルマネージャー)を兼任していた池谷友良が、GM職を専任するため監督業を辞任(実際はGM職以外の職をもいくつか兼任していくという大変なことになるが)。後任はヘッドコーチだった北野誠が昇格し、次期新監督となる。
2009年
新しく就任した北野監督は攻撃的サッカーを掲げ、そのおかげで格上のチームを撃破することもあったが、反面守備が脆くなるという欠点もあったために、結果的に14位で終わったことを受けて解任された。ただし北野監督の掲げたこのサッカーは一定の評価を受けており、一部からは1年で解任されたことを惜しまれている。
また、このシーズンはチーム最多得点であったエースの木島良輔が、若返りを図ろうとするフロント側の思惑により結果に拘らず解雇されてしまう。また、この解雇はスポンサーによる大人の事情が絡んでいたとの噂もあった。木島は翌年、JFL所属のFC町田ゼルビアに移籍した。
2010年
北野前監督に代わって、新たに「アジアの大砲」の異名で知られた高木琢也が監督に就任。北野前監督が掲げたサッカーを継承・発展させる形で、選手たちやその他関係者らと共に奮闘、過去最高の7位に躍進した。
2011年
引き続き高木琢也体制で挑んだ2011年。エジミウソンらを獲得し、KKウイングで開幕2連勝とスタートダッシュに乗り、6月まで6勝5分2敗と大きく勝ち越し、順位も5位まで上がり健闘していた。しかし、7月24日にFC東京に0-5と大敗してからチームの成績が低迷し始め、気づいたら2桁順位で争うロアッソ熊本に逆戻りしていた。結局このシーズンは11位で終了し、最終節のサガン鳥栖戦では目の前で昇格を決めた鳥栖に熊本サポーターから祝福の声が上がった。
2012年
高木琢也体制3年目のシーズンは開幕から出遅れる苦しい展開。5月には元日本代表FWの北嶋秀朗が加わるなどしたが、調子はなかなか上がらず。ようやく終盤戦になって初の5連勝を果たすなどしたが時既に遅し。高木体制下では最低となる14位に終わり、高木はこの年いっぱいで監督を退任することとなった。天皇杯ではベガルタ仙台を下して初めて4回戦に進出する、勝利後の定番となる「カモンロッソ」が始まるなど明るい兆しも無いことは無かったのだが……
2013年
新監督に吉田靖を迎えるが、今年も開幕ダッシュに失敗してJ3・JFL降格もちらつく苦しい展開に。6月には炭鉱スコアを食らい、7月には吉田監督に代わって池谷社長が監督を兼任することに(8月には社長を辞して監督に専念。社長は永田会長が兼務することに)。追い討ちをかけるように2012年から持ち上がった経営問題について、Jリーグから指導を受けるなど、前年以上に好材料に欠くシーズンとなり、過去最低の19位でシーズンを終えた。シーズン終了後には丸4年にわたってゴールマウスを守ったGK・南雄太の移籍が発表され、チームは転換期を迎えつつある。
2014年
新監督に小野剛が就任。池谷友良は再び社長に復帰。元日本代表FWであり、地元出身でもある巻誠一郎が加入。
スタートから躓き、第19節から第22節まで4連敗を喫するなど苦戦を強いられる。4月にはGKに負傷者が相次ぎ、GKコーチの加藤竜二が7年ぶりに現役復帰して選手登録する事態にもなった。それでも小野監督は若手を積極的に起用し、ハードワークしながら奪ったボールを素早くシュートに持ち込むスタイルを徹底させ、前年を上回る13位でシーズンを終える。
2015年
シーズン序盤戦で5連敗を喫するなど一時はJ3降格圏まで低迷。しかしシーズン途中に補強した清武功暉とシュミット・ダニエルの活躍によって調子を上げるようになると、後半戦は9勝7分け5敗という好成績を残す。最終的には前年と同じ11位となった。
8月26日に小野が練習中にスタッフの1人に行き過ぎた注意をした事が暴力行為ではないかと問題となり、Jリーグから11月7日付で「厳重注意」の処分が下された。シーズン終了後、プレーオフに進出できなかった責任を取る形で辞任。
2016年
前年までヘッドコーチだった清川浩行が監督に就任。開幕3連勝と例年にはない好スタートを切った矢先の4月14日及び16日未明に発生した熊本地震により選手・スタッフの大半が車内での寝泊まりを強要され、トップチーム及びアカデミーを含め活動が中止になり、リーグ戦も5試合中止になる。1か月後に活動を再開し、リーグにも復帰するが、ホームでの試合開催が困難となり、一時柏レイソル、ヴィッセル神戸、サガン鳥栖のホームスタジアムを借りて試合をおこなっていた。困難な環境でシーズンを過ごすこととなったチームは16位と低迷。
2017年
前半戦に2度の4連敗、さらに3連敗と低迷し、6月に成績不振を理由に清川監督が退任。池谷友良社長が3度目となる監督就任を果たし、永田求会長が社長を兼任。しかし、不振のチームを変えるようなカンフル剤とはならず、J3降格の危機に直面する。結局J2リーグ参入以降の最低順位となる21位でシーズンを終了。本来であればJ3リーグに降格する順位だったが、この年J3で1位だったブラウブリッツ秋田がJ2ライセンス未交付だったことから規定によりJ2残留となった。
池谷監督は成績不振を理由に辞任。2005年のクラブ創設期からずっと関わって来たが、これを機にチームから離れることとなった。
2018年
元大宮アルディージャ監督の渋谷洋樹が監督に就任、GMに前サンフレッチェ広島社長であり、黄金期を築いた功労者でもある織田秀和が就任。サポーターの期待値は高まったわけだが。
第10節までは白星が先行する好スタートを切り、プレーオフ争いの順位につけていた・・・が、第11節以降前年の悪夢の再来ともいえる連敗地獄が続き、これ以降わずか3勝しかすることができなかった。攻撃面では田中達也が孤軍奮闘していたものの、渋谷監督の標榜するポゼッションサッカーに選手が対応できず。不用意なパスミスが増えたことで守備は崩壊。結局、2年連続で21位に終わり、今回はJ3からきっちり2チームの昇格が決まったことから、J3リーグ降格という最悪の結末を迎える。
2019年
クラブ史上初のJ3での戦いを強いられることとなったが、渋谷監督がまさかの続投。ファンからは疑問と不安の声もあがったが、それが現実となり開幕から3試合未勝利とスタートで躓く。その後は勝ち点を積み上げ、中盤戦までは第17節までは首位をキープしていた。しかしそれ以降は、ポゼッションサッカーが研究されたこともあって勝てない試合が増え、気が付くとJ2昇格圏からも転落。後半戦は得点が減り、失点が増える体たらくぶりで最終順位は5位。1年でのJ2復帰を逃し、渋谷監督は退任。
2020年
ヴァンフォーレ甲府や京都サンガF.C.で監督を務め、日本代表コーチとして岡田武史監督の右腕的な存在でもあった大木武が監督に就任。
開幕4連勝、2度の3連勝などで好スタートを切り、第17節の時点で首位に立つ。ところが、これ以降前年の焼き回しのように第18節から3連敗、その後も不調に陥ってしまう。第25節以降は7試合未勝利という泥沼にはまり、ここでJ2昇格の夢は遠のいてしまった。結局順位は前年を下回る8位に終わる。
2021年
前半戦は先制するも最終的には追いつかれ引き分けになる試合が続き、今年もダメかという空気が流れていた。しかし、第11節以降は7連勝を含む11試合無敗を記録。第20節で首位に立つ。しかし、またもや後半戦で失速する悪い癖が出てしまい、第29節には昇格を争うテゲバジャーロ宮崎との直接対決に敗れ、昇格圏外の3位に転落。しかし、最終節は後半の2得点で岐阜に勝利し、試合の無かった宮崎を追い抜きJ2昇格が決定。さらにはJ3優勝も決定する。
2022年
4年ぶりのJ2での戦いは、まずまずのスタートを切り、上位グループに喰らいつく健闘ぶりを見せる。その後も大きく崩れることはなく、若手主体のメンバーながらも大木監督がJ3で築いてきたコンパクトな陣形から流動的な攻撃的サッカーによってJ2リーグでも屈指の魅力的なサッカーを披露。後半戦になるとさらに安定感を増し、J3からの昇格1年目ながら過去最高の成績である4位でレギュラーシーズンを終え、初めてJ1昇格プレーオフに進出する。
プレーオフでは1回戦の大分トリニータ戦、2回戦のモンテディオ山形戦に共に引き分けたものの、順位が上位であったことから決定戦へと駒を進め、初のJ1昇格まであと1勝のところまで迫る。しかし、J1・16位の京都との対戦では1-1で引き分け、規定により初のJ1昇格とはならなかった。
2023年
躍進した前年度の主力数人を引き抜かれながらも前半戦はプレーオフ圏を狙える位置を維持し、8位とまずまずの順位で折り返す。しかし、第22節から第34節まで12試合白星から遠ざかり、3連敗と4連敗を挟むなど大きく失速。一時はJ3降格圏手前まで沈むが、ラスト8試合を5勝3敗と復調したことによって14位でシーズンを終える。
一方、天皇杯ではサガン鳥栖、FC東京、さらにこの年のJ1王者ヴィッセル神戸とJ1クラブ3チームから金星を奪う快進撃を見せ、クラブ史上初のベスト4進出を果たす。準決勝で柏レイソルに敗れ、前年のヴァンフォーレ甲府の再現とはいかなかった。
2024年
この年も平川怜、島村拓弥といった中心選手が引き抜かれた影響で陣容が定まらず、一時は降格圏の18位にまで転落するなど残留争いの渦中に立たされることになる。それでも、大木監督の哲学が浸透するようになった終盤戦に息を吹き返し始めると、第31節から第34節まで4連勝したことで残留争いから抜け出すようになる。クラブ設立20周年記念試合となった第35節のレノファ山口戦に引き分けたことで残留が確定。最終順位は12位となったが、失点数は最下位のザスパ群馬と同じワースト2位タイだった。
おもなタイトル
現在の所属選手
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
- | 監督 | 大木武 | 1961.7.16 | 2020 | FC岐阜 監督 | ||
1 | GK | 田代琉我 | 1998.8.21 | 2021 | 国士舘大学 | ||
2 | DF | 黒木晃平 | 1989.7.31 | 2013 | サガン鳥栖 | ||
3 | MF | 大西遼太郎 | 1997.11.24 | 2023 | FC岐阜 | ||
4 | MF | 藤田一途 | 1999.6.30 | 2021 | 仙台大学 | ||
5 | DF | 阿部海斗 | 1999.6.18 | 2022 | 福岡大学 | ||
7 | MF | 竹本雄飛 | 1997.8.19 | 2020 | 立命館大学 | ||
8 | MF | 上村周平(C) | 1995.10.15 | 2014 | ロアッソ熊本ユース | 【H】 | |
9 | MF | 大本祐槻 | 1994.9.24 | 2023 | FC琉球 | ||
10 | MF | 伊東俊 | 1987.10.29 | 2018 | 京都サンガF.C. | ||
11 | FW | ベ・ジョンミン | 1987.10.29 | 2024 | 九州産業大学 | 【卒】 | |
13 | DF | 岩下航 | 1999.4.1 | 2024 | 柏レイソル | 【レ】 | |
15 | MF | 三島頌平 | 1995.11.20 | 2022 | FC岐阜 | ||
16 | MF | 松岡瑠夢 | 1998.7.22 | 2023 | 栃木SC | ||
17 | MF | 藤井皓也 | 2001.8.29 | 2024 | 中京大学 | 【卒】 | |
18 | FW | 石川大地 | 1996.5.26 | 2023 | ガイナーレ鳥取 | ||
19 | MF | 古長谷千尋 | 2001.10.24 | 2024 | 常葉大学 | 【卒】 | |
20 | FW | 大崎舜 | 2000.4.15 | 2023 | 福岡大学 | ||
21 | MF | 豊田歩 | 2000.11.25 | 2023 | 中央大学 | ||
23 | GK | 佐藤優也 | 1986.2.10 | 2022 | ジェフユナイテッド千葉 | ||
24 | DF | 江崎巧朗 | 2000.2.5 | 2022 | 駒澤大学 | ||
28 | FW | 神代慶人 | 2007.10.25 | 2024 | ロアッソ熊本ユース | 【昇】 | |
30 | MF | 東山達稀 | 1999.6.3 | 2022 | 静岡産業大学 | ||
31 | GK | 佐藤史騎 | 2001.11.1 | 2024 | 東海大学 | 【卒】 | |
38 | DF | 岡田大和 | 2001.6.17 | 2024 | 北海道コンサドーレ札幌 | 【レ】 | |
48 | FW | 唐山翔自 | 2002.9.21 | 2024 | ガンバ大阪 | 【レ】 |
※備考欄は【完】=完全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別指定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手
過去に所属した主な選手
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歴代監督
国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
池谷友良 | 2005年~2008年 | ・九州リーグ優勝&JFL昇格(2005年) ・J2昇格(2007年) |
|
北野誠 | 2009年 | ||
高木琢也 | 2010年~2012年 | ||
吉田靖 | 2013年~2013年7月 | ||
池谷友良 | 2013年7月~12月 | ||
小野剛 | 2014年~2015年 | ||
清川浩行 | 2016年~2017年6月 | ||
池谷友良 | 2017年6月~12月 | ||
渋谷洋樹 | 2018年~2019年 | J3降格(2018年) | |
大木武 | 2020年~ | J3優勝&J2昇格(2021年) |
その他
- ホームスタジアムについて
- メインスタジアムは『えがお健康スタジアム』(熊本県民総合運動公園陸上競技場「KKウィング」)。2013年から2017年までは「うまかな・よかなスタジアム」という名称だった。スタジアム自体は立派である。だが、熊本駅からの交通手段が不便である。豊肥本線に乗り継ぎ⇒光の森駅から専用バスに乗り換えてさらに10分ほどで到着する。また、スタジアム周辺は駐車場が余裕で広いが、一方でそれまでの道のりは2車線道路を通らなければならないこともあって渋滞が多い。故に耐久力の低い方にマイカーで行くことは基本的にオススメしない。なお、高速道路からは熊本ICから乗降出来るが、初見の方はそこからの道のりは要チェックである。
- セミスタジアムは『熊本市水前寺競技場』。かつてはロッソ熊本時代の途中までのメインスタジアムであった。熊本駅から熊本市交通局が運営する路面電車に乗り換えて、「健軍町停留所行き」の電車に乗車し国分停留所で降車して徒歩15分のところにある。豊肥本線からスタジアムを目指す場合は、JR新水前寺駅から乗り換えられるが(駅前に新水前寺駅前停留所がある)、JR新水前寺駅及び新水前寺駅前停留所からでも徒歩で行ける距離である。地図で見ると大体の道のりが分かる。
- 余談だが、試合の帰りに余裕があれば、是非、市街地に寄って行って欲しい。うまかな・よかなスタジアムからの帰りでも豊肥本線に乗り継ぐ場合は、新水前寺駅で降り、そこから路面電車で市街地を目指しながらぷらぷらと熊本市内を楽しんでいただきたい。勿論、徒歩で行ってもOKである。
- 練習地:菊池郡大津町のグラウンドを使用することが多い。
- マスコットキャラクター:ロアッソくん
- 2009年版の名鑑によると、DFの矢野大輔選手のマイブームがニコニコ動画であった(よりによって)。ちなみに、2010年版では「車関係のサイトを見ること」に変わっている。
- 火の国のチームというだけあって、ストーブリーグにおいてJ2のチームにしては多くの話題を提供している。
事実、日本代表経験のあるMF・藤田俊哉や、GK・南雄太らの補強に成功している。
この他にも「ゴン」こと中山雅史の獲得に乗り出したこともある。 - 試合に勝利すると、選手・スタッフが総出でサポーターと喜びを踊って分かち合う「カモンロッソ」という習慣がある。
- スポンサーである高橋酒造から、赤いラベルが貼られている焼酎「白岳しろ」が発売されている。
関連動画
関連項目
- Jリーグ - Jリーグチーム一覧
- J2リーグ(2008年 - 2018年、2022年 - )
- J3リーグ(2019年 - 2021年)
- JFL(2006年 - 2007年)
- 熊本県 - 熊本市
- 九州ダービー
外部リンク
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- ジェフユナイテッド市原・千葉
- 大分トリニータ
- モンテディオ山形
- ベガルタ仙台
- ザスパクサツ群馬
- 水戸ホーリーホック
- ファジアーノ岡山
- 栃木SC
- ヴァンフォーレ甲府
- 愛媛FC
- 徳島ヴォルティス
- 清水エスパルス
- 横浜FC
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